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十七哩(魔女の息子について)
あいつはBig Appleで生まれた。
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矢嶋健はいつも先を行く。隣で歩調を合わせることはしない。うつむき加減の視界に、矢嶋のぶ厚い怒肩。タイトな紺のカットソーに、肩胛骨 の影が鋭い。こいつがヴァイオリン弾きだと知らなかったら、陸上部のフィールドプレイヤーだといわれても信じるだろう。
ぼくはワイシャツの上腕二頭筋を盛りあげ、さわってみる。骨つきチキンみたい。こっそりため息をついて、両手をスクールズボンのポケットに突っこんだ。ぼくは口笛、ドビュッシー《ベルガマスク組曲》から《パスピエ》。せつなくて軽やかな四分の四拍子。
秋の午後の新桜ヶ丘の住宅地。その碁盤の目状の路地を縫って、三丁目の矢嶋邸へ。それが放課後の習慣となりつつある。地下室のスタインウェイ弾きたさに、矢嶋のいうことをきくと約束した。べつに理不尽な要求をされることもなく、ただ遊ばせてもらってるだけだ。今のところは。これでいいんだろうか?
ぼくは首筋を反らす。晩秋の空は雲にラッピングされ、なお明るい。きょうは雨は降らないだろう。でも、いつかは降るに決まってんだ。右の足を繰りだし、左の足を繰りだす。右の足を繰りだし、左の足を繰りだす。矢嶋の長いコンパスに合わせながら、ぼくの気分はなんとなく重たかった。
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未分化の翼でしょうか少年の背に隆起する肩胛骨は
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ごつい手がカップをガラステーブルに置いた。三杯の澄みきったブラックコーヒー。北海道から取寄せた豆を、矢嶋が挽いたものだ。やつの給仕にそつはない。あんがい器用。
三十帖のリビングルーム、開放的な窓辺に寝そべるサー公。目はつむってるけど、尖った耳がぼくらの動向を拾おうとひるがえる。
「キタウラくん、髪が伸びたわね。キュリアス・ジョージみたいよ。カワイイわ」
薄梅鼠に花菱文の付下 のヘレンさんは、たおやかに頬笑む。昔のカトリーヌ・ドヌーヴみたい。たぶん三十代と思うけど、ミルク色の肌に陰りはない。中二のかわいくない息子がいるなんて噓みたい。つい、ぼくの表情筋はゆるむ。
「あの絵本、すきでした。でも、いま考えると、黄色い帽子のおじさんて謎ですよね。職業不詳で、やけに社会的影響力ありますし。あの黄色ずくめって、もしかして仕事の制服なんですかね。じつはジョージはミュータントで、それを調査する政府の秘密研究機関の幹部メンバーとか」
「Oh, my ! 」ヘレンさんは笑い声をあげた。ブラウンの髪が揺れて、小ぶりの真珠がピアスではなくイヤリングだとわかった。「あなた、うちの子になっちゃいなさい。タケシも影響されて素直になるかもしれないわ」
あゝ、この美しい人妻とずっと話していたい。けど、ぼくはコーヒーを飲みほした頃合で断りをいれて、ソファーを立った。反抗期の息子がいらいらしてるのがわかったから。こいつって待たされるのが大嫌いなんだ。
「おまえが弟ねぇ」
廊下で低くつぶやく矢嶋。いいかたがムカついた。こいつの何かは人の神経を逆撫でするんだ。ぼくはなるべく穏やかな声をだす。
「おれが弟なの? いつ生まれなの、おまえ」
「春」
「いや、そこはふつう日付だろ」
「おまえは?」
「十一月三日。文化の日」
「ふーん」
その返事に、またしてもムカついた。なんだ、そっちから尋ねておいて、その無関心? 愛想ナシの主人を慕ってサー公がけなげに尾っぽを振ってる。地下の音楽室にはいるまで、ぼくはもう口をひらかなかった。
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ショパン《黒鍵 》が矢嶋のリクエストだった。右手のパッセージが全て黒鍵で奏でられる練習曲。演奏会じゃお馴染みの曲目だ。難易度のわりに聴き映えするから。楽譜の速度指示は一一六だが、ぼくは一三〇ほどで弾いた。右手でグランドピアノの高音域を鈴のように鳴らして、左手で中低音域をおおらかに叩く。ときどき、ピアノの下のサー公が合いの手をいれた。そこが(矢嶋の説によるとピアノ好きという)このシベリアンハスキーの定位置だ。ペダルはほぼ無意識に踏んでる。矢嶋に聴かせるって頭はあまりなかった。
コーダの直前、肩に乗る威喝い手。つい、演奏の手が止まった。
「もう結構。おまえの弱点はわかった」咥えタバコをつまんで、矢嶋は煙を吐く。「おまえ、なまじ器用だから、なんでもそれなりに弾きこなす。けど、そのせいで基礎がおろそかになってる。普段からすきな曲しか弾かないだろ。弾きかたにムラがありすぎる。たまにテンポ狂う。フィンガリングおかしい。動きのムダが多い。指の構えがまにあわないまま次の音に行ってる。右はまだいい。左がなってない。左がクレッシェンドになる変なクセまでついてる。ペダルだって闇雲に踏みゃいいってもんじゃない。そいつはソゥウィングマシンじゃないんだぞ。それから……」
ぼくは涙目。「それ以上いうなっ。わかってる。わかってんだよ!」
「じゃ、直せ」
矢嶋はタバコをガラスの灰皿に躙 った。
とりあえず運指 から修正することになった。基礎中の基礎。でも、小四の春から我流で弾いてきたせいでデタラメになってる。矢嶋は楽譜を持ちだした。ブルグミュラーなんて弾くのは幼稚園以来。そいつで適切な手の運びをひたすら反復練習。
「手が鍵盤から離れすぎる。パッセェジの流れで、最短距離のアーチを描 け。ほら、親指が力んでるからだ。親指のつけねは手首から始まってんだ。そこに力がはいったら手首は動かなくなるんだよ。右はできてるだろ。左もできるはずだ。もう一度」
怒るのをぐっとこらえたふうな声。こわい。そういわれてほいほいできるなら、ぼくはショパンコンクールで上位入賞できるだろう。そういえば、こんなふうに母にも手のかたちのことでビシバシやられた。嫌な思い出。
スパルタレッスンが小一時間。早く帰って父に夕飯をつくらなきゃと主張し、どうにか逃げだした。陽がとっぷり暮れていた。
「あしたも来いよ」
灯りの点った玄関ポーチで矢嶋にいわれて、ぼくはとっさに返事できなかった。
「あいだがあくと忘れて、最初からやりなおしになるからな。逃げるなよ」
「あした文化祭じゃん。おれ、舞台んでたあと、清水の展示てつだわなきゃいけないから、その片づけで遅くなりそうだし……」
矢嶋は片手を腰に当てた。「おれのいうこときくっていったよな?」
「いったけど、でも……」
「おれの一杯三百円 のカウフィー、何杯のんだっけ?」
「……」
ぼくが黙りこむと、あいつは笑った。童話の不思議の国の化け猫みたいに。
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青空を撮ろうとするとチェシャ猫が歯列矯正器を輝かす
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ことしの橘樹祭 、二年F組の催しはダンスショー。踊るだけじゃつまんないから、女子は男装して、男子は女装しよう! ってのが河合省磨のトンデモアイディア。それで自分は女装しなくてもいいように、ぼくは女装しなきゃいけないように持ってった。ずる賢いやつ。ぼくは憂鬱を顔にださないようにした。恥ずかしがったら、あの底意地の悪い幼なじみをよろこばせるだけだ。でも。
「化粧すんのぉっ?」
黒板側に椅子と机が積まれた教室、ぼくはすっとんきょうな声をあげた。ビューラーとマスカラを両手に、音羽カンナ(河合一派女子№1)は挑戦的な顔。
「舞台に立つんだよ。当然でしょ」
樋口未空(同女子№2)がきゃーきゃーバカ笑い……ぼく、こいつが一番苦手。長谷川法子(同女子№4)も半笑い。堤香織(同女子№3)は気の毒がってるふうに見える、けど腹の底で何を思ってるかなんてわからない。ぼくは両手を突っぱった。
「無理、ぜってえ無理!」
樋口はヒステリックなサルみたいにいう。「うちらの得票アップ作戦に協力できないってのかよっ」
「おれらにメイクしろっつうなら、女子も公平にやれよ。おれがポスカで眉毛とヒゲ描いてやろうか」
同じく女装要員の工藤斗南が助け舟。さすが学級委員長。他の男子からも賛同の声。音羽以下四人は黙ってしまった。
「オモシロいじゃん。おまえら、マユゲ描いてもらえよ。全員スッピン禁止な」
偉そうにボスザル河合。やつはプロデューサーとかいう有っても無くてもいい役に収まってた。河合が冷たい笑みを向ける。仲間の音羽以下四人の顔を犠牲にしても、ぼくに化粧をさせたくてしかたないのだろうか。ボスの意向は絶対だ。みんなに不承不承ムードが漂う。呆然自失の音羽に、ぼくは掌をだす。
「おれ、自分でやるよ。貸して」
音羽に任せたらワザと酷いメイクをされるんじゃないかって予感があった。それなら自分でヘタなお絵描きをしたほうがいい。ポスカで眉毛の決定が音羽は余っぽどショックだったのか、ためらいもなくメイク道具一式をくれた。百円ショップでそろえたっぽい道具。そいつを片すみの椅子にならべて、ぼくは悩んだ。どこから順に手をつけるべきか、そもそもどれをどう使うのか?
「あたし、やってあげる」
菊池雪央だ。テニス部で日焼けした、化粧っけのない顔。わかるのかな。菊池はもう一つ椅子を持ってきて、ぼくを座らせた。小さな手がコンパクトを拾う。ぼくの頤 に添う温かい指。キスしそうな距離に菊池の童顔。焦色の虹彩に、さらに濃い色の粒が散ってる。ぼくがあんまり見つめかえしたからだろうか、菊池の顔が赤らんだ。ぼくもつられて頬が熱くなった。心臓がうるさい。ぼくは目を伏せた。
菊池はパフでやさしく優しくファンデーションをはたいた。よどみのない手つき。もしかしたら家でこっそり練習していたのかな。ブロウをひいて、アイシャドウを乗せる。チークをぼかして、ラメをまぶす。リップクリームを塗って、グロスをつける。ずっと、菊池のまっすぐな眼差しを感じていた。はずかしくて、いたたまれなくて、その目を二度と見ることができなかった。
菊池の表情からして、メイクは会心のデキらしかった。でも、鏡は覗きたくない。ぼくは菊池提供の夏用スカートを穿いて、仕あげに赤のスズランテープを裂いてつくったカツラをかぶる。ゲテモノの一丁あがり。ひらきなおって手を腰に当てた。モデル立ち。
「おまえ……」
ラジカセをさげた矢嶋が変な顔。ちなみに、こいつは音響係。自宅で編集したCD音源で、クラス一同を驚嘆させた。ぼくは睨んだ。
「なんだよ、おかしきゃ笑えよ」
矢嶋は不審者から赤子をかばうかにラジカセを抱く。「笑えない。違和感なさすぎ。こわいんだけど」
「あゞ?」
フラッシュ! 女装の清水俊太の手にデジカメ。ほっぺにハットリくんみたいな赤ポスカの渦巻き、小魚型のお目めがきらきら。
「北浦、超かわいー!」
ぼくは叫ぶ。「撮るな、記録に残すな、こんな恥ずかしいもん!」
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体育館ステージでのショーは、ハロープロジェクトメドレー(モー娘。・プッチモニ・黄色5・青色7・あか組4・メロン記念日)。プログラムの演目名は、シンデレラ☆ラストダンス‼︎ 昼12時まで帰れない!!! 意味は全然ない。ノリがすべてだ。乱れる原色のライトの下、ダンス隊二〇名は自棄 っぱちで笑ってピルエット。ぼくのスクールスカートが傘のようにひらいて腿にまとわりつく。こんな頼りないヒラヒラしたもんでも、ちゃんと下着一丁よりはあったかいんだった。不思議。
保護者が占める観客席でストロボが花咲く。その光が目のなかに尾をひいた。ぼくらの恥ずかしい姿がフィルムに焼きついて、半世紀くらいは残るのだ。
ぼくは早く帰ってお湯に沈みたかった。
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終わらないラストダンスを青春と呼ぶほどぼくらおめでたくない
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ぼくらのダンスショーが終わったら、矢嶋は先に帰ってしまった。放課後の矢嶋邸行きを、ぼくはサボろうかと思った。けれど、あとで何をいわれることか。なんでだろう、こんなはずじゃなかった。ただ、あのスタインウェイをさわりたかっただけなのに。ぼくはうつむき加減に住宅地を歩く。秋曇りの午後三時半はもうほの暗かった。
YAJIMAってブロンズ表札。インターホンを押す。電子の鐘の音 。スピーカーから偉そうな声。
『遅いぞ、アンティモゥツァルト』
地獄の門もとい地下の音楽スタジオのドアをでられたころには、午後五時を回ってた。一階へとのぼってきて、ぼくは両手の指先をわしゃわしゃ動かした。指が攣 りそう。
「急いで戻ってメシつくんなきゃ。父さん、ハローワークから帰ってきちゃう」
矢嶋が体ごとふりかえる。「サボらせてもらえよ。フライデイだぞ」
「えっ? でも……」
「おまえにゴチソーしたいってヘレンがいってる。貸してやるから、おまえの親に断れ」
矢嶋は赤いケータイを突きだす。提案じゃなく命令の口調だ。サー公があくびした。
ぼくは階段に座って、初めてケータイを使った。すぐ繋がった。受話口から街の音。父は驚いたようだが、こころよくいってくれた。
『うん。楽しんどいで。くれぐれも失礼のないようにな』
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履歴書の証明写真の真顔には今よりもっと若い両耳
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ご馳走ができあがるまで、矢嶋の私室で待機となった。二階のその部屋は十六帖ほどか。浅い色のフローリング・白い壁・亜麻色の布製品……全体が白っぽいうえに物が少ないので、なおさら広く感じた。目立つ家具はベッド・ソファー・チェストくらい。ぼくは余計な心配をしてしまった。
「おまえ、勉強とかどこですんの?」
矢嶋はベッドに腰かけた。「書斎で」
「着替えは?」
矢嶋は奥の扉を指差す。「それはクロォゼットルゥムで」
「懺悔室もある?」
矢嶋はにやっとした。「懺悔したいのか?」
「いい神父がいればね」
ベッドサイドにBB のポスター、ビーチでタバコ片手にうつぶせのセミヌード。こういう女が趣味なのか。コルクボードに英文のメモ、There aren't two wood of the same grain。チェストのうえのステレオシステムは銀の直方体が三つ、数枚のCDが積んであった。ぼくは一番上のケースを拾った。往年の真空管ラジオをデザインしたジャケット―― KRAFTWERK《RADIO-ACTIVITY》。きいたこともないバンド名。
そのCDを、ごつい手が奪った。CDをトレイにセットし、矢嶋はベッドに座った。スピーカーから電源のはいるようなブツッ、ブツッて音がして、それがだんだんだんだん繁くなってゆく。淡々とした打ちこみの音楽が始まった。Radioactivity……と物憂い男の声が切々と繰りかえす。詞の意味はわからなかった。けれど、ぼくは息苦しくなった。
矢嶋の手に村上龍。家でも本の虫か。ぼくはソファーに座った。犬用の寝床で丸まったサー公。サー、ってぼくは呼んだ。やつはくるりと背を向けた。尾っぽがかすかに揺れて、すぐに力なく垂れる。
「サーのやつ、元気ないな」
「下痢してるんだ。ストレスかもな。おまえのピアノが下手クソすぎて」
「冗談じゃなくて、医者に診せた?」
「あした、予約いれてる」
サー公は大儀そうに目をつむってる。もし撫でて具合が良くなるなら、そうしてやりたい。でも、たぶん、ほうっておいてやるのが一番いい。ぼくは活字中毒の飼い主にいう。
「つぎの金曜日、おれの誕生日なんだ」
矢嶋は顔をあげない。「何もやらないぞ」
「物はいらねえよ。教えてほしいんだ」
「何を」
「おまえのコーヒーだよ。どうやったらあんなに旨く淹 んの? おれ、自分ちでドリップしてみたけど、ぜんぜんだった。あれは豆なの、技なの?」
「知りたいか?」
矢嶋は歯列矯正器を光らせた。ぼくは大きくうなずく。
「教えてやってもいい。ただし、買物につきあえ」
「いつ?」
「来週、横浜に」
「わかったよ」
「おまえのブゥスデイとは関係ないからな」
「わかってるよ」
用件がすむと、矢嶋は黙ってしまう。沈黙が気にならないほど打ちとけた仲ってわけじゃなかった。話題を探して、ぼくは袖机の雑貨に目を留めた。電球型のガラス内で回ってる羽根と、曇った水入りの雫型のガラス。ぼくは指差す。
「その回ってるのと、水が入ってるの何?」
「レディオメラー、ストォムグラアス」
矢嶋も指差した。正しい英会話みたいだ。ぼくはいう。
「英語でいって。青春」
「Spring of life.」
「自由の女神」
「The Statue of Liberty.」
「コンプライアンス」
「compliance?」
「日本語でいって」
「大人の事情?」
「法令順守だよ」ぼくはバカ笑いした。「バジェット」
「budget……おカネがたりない?」
「予算だよ。おまえって意外とアホな」
「うるさい」
ブリキの円筒形の貯金箱を、ぼくは手にとった。ずっしりと重い。振ったら五百円玉らしき大ぶりな音。10万円貯まる、って側面に印字されてた。
「十万も貯めてどうすんの?」
「寄付する。おれが毎年十万円 送ると、チェルノゥボーの子供が甲状腺ガンの治療を受けられるんだ」
「チェルノブイリのこと?」
「そう、それ」
「おまえ、偉いな」
ぼくは貯金箱を元どおり置いた。矢嶋は肩をすくめた。
「あの事故の日が、おれのブゥスデイってことになってるから」
「……ってことになってる、ってどういうことよ?」
「書類上そうなってる。ほんとうのブゥスデイはちがう」
「どうして」
「養子なんだ。クラァク・ケントと一緒」
「誰」
矢嶋は口笛、《スーパーマン》のメインテーマ。「おれはフォードのトランクから生まれた」
意味がわからなかった。でも、その言葉が何か大事なことの気がした。矢嶋は本をとじて片膝を抱いた。
「そのとき、おれは死にかけてた。マンハァトゥンの道ばたの、放置車両のトランクんなかで。衰弱してゲロってて、シモのほうも漏らしてた。車を移動させに来たニュゥヨォク署員が異臭に気づいて、死体じゃないかって疑ってロックをこじあけて、汚物まみれのアジア系の赤ん坊を見つけた。それが四月の二十六日の朝のこと。そのときには、おれは生後二、三ヶ月はすぎてた。署には、おれらしき捜索願はでていなかったそうだ。トランクにおれを遺棄した犯人は、生みの親なのかもしれないけど、捕まらずじまいだった。真っ暗で、狭くて、息苦しかったのが、いきなりトランクの蓋があいて、まわりが眩しいほど明るくなって、ちゃんと息ができたときのことは、なんとなく憶えてるんだ。それよりまえのことは記憶にない。あたりまえかもしれないけどさ。きっと、思いださないでいたほうがいいからなんだ。そういうふうに考えることにしてる。
おれが鉄の母体から警官のおっさんにとりあげられて病院に搬送されたころ、チェルノゥボーの原発事故が表沙汰になった。事故の翌々日あたりから各局の報道合戦が始まってたから、ニュゥヨォクの赤ん坊遺棄事件のニュゥズヴァリュゥは低かったろうな。親だと名乗りでる人はなかった。おれは市内の児童施設に移された。おれはケネス・キングスレイって名づけられた。ケネスはおれをとりあげた警官からもらって、キングスレイは施設長から借りた。四年間を、そこですごしたよ。そこでのことは、話したくない。
四歳になったとき、養子縁組の話が来た。その相手がヘレンとBTだった。ヘレンはずっと子供が欲しかったけど、卵巣に問題があって妊娠できなかったんだ。ヘレンは書類についてたおれの写真を見て、ひと目ぼれしたんだっていってる。それにBTも、おれがアジア系で白人の血がはいってるから、ちょうどいいと思ったんだろう。ほんとうの親子に見えやすいだろうって。おれは二人にひきとられて、ヨォクヴィルに暮らした。イーストリヴァー沿い の静かな街で、いいところだった。二人はなんでもすきにさせてくれた。おれはすごくワガママになった。
トランクに詰められたとき、おれの右目は網膜剝離を起こしてた。ほとんど見えないんだ。おれが片目でも、どうにかやっていけるようにしようって二人は考えたんだろう。BTはヴァイオリンディラァだったから、おれに弾かせようとした。初めてのレッスンで、おれはなんの無理もなくヴァイオリンを構えてみせたってさ。こりゃいける、ってBTは思ったって。
おれが小学校 を卒業するころ、BTが独立した。三人で横浜に来ることになって、今、こうしておまえにしゃべってる」
「……そう……だったのか」
重すぎる過去に、うなずくのが精一杯。なんでまた、ぼくなんかにそんな大事な話をするんだ? 矢嶋はそっぽを向いた。その肩が震えてた。泣いてんのかと思った。ぼくはあいつに手を伸ばしかけた。矢嶋はひっくり返った。笑ってた。
「バカ。つくり話だよ。真に受けるな。そんなわけないだろ。この本にそういう話が書いてあるんだ」
矢嶋は文庫本をほって、マットレスを転がる。震えつづける背中。なんでだか、どうしても泣いているように思えてしかたなかった。
♂
BTこと武士 さんは(ウチのくたびれた父とはちがって)若わかしいハンサムな人だった。端整なTゾーンがつやつやしてる。刈りあげの豊かな髪、藍染のシャツとジーンズ、シェルの文字盤のクロノグラフ。なんだか新進気鋭のクリエーターみたい。
「しがない楽器屋をやってる。〝土屋ヴァイオリン〟って知ってるかな?」
ぼくはうなずく。「名前だけは。横浜にありますよね?」
「うん、鶴屋町のビルだ。ピアノ・キーボード部門、打楽器部門、管楽器部門、エレクトリックギター・ベース部門、クラシックギター部門、ヴァイオリン部門があって、輸入品も国産品も豊富にとりそろえてる。なんぞのときはご贔屓 にしてね、サービスするから。北浦くんはピアノ弾くんだってね」
白熱灯の明るさの食卓に、ぼくと矢嶋家の三人はいた。ぼくの知らないご馳走ばかり。芽キャベツのソテーとか、ハムと香草を詰めたジャガ芋のホイル焼きとか。ぼくが齧ってる薄切り牛肉でピクルスと玉葱とベーコンをつつんだやつは、リンダールーラーデンっていうらしい(シュヴァルツビールが隠し味なの、とヘレンさん)。すんごいジューシーだった。ぼくは箸をさげた。フォークじゃ食べにくいので。
「ブランクが長くて、たいした腕じゃないですけど、弾くのはすきで。ナントカの横ずきですね。でも、リトル・タケシくんのおかげで、今は楽しい思いさせてもらってます」
半分、あいつへの嫌味だ。ぼくが見ると、矢嶋はニヤッとした。武士さんはいう。
「楽しいのはいいことだ。それはきみに情熱 があるってことだから。
土屋っていうのは静岡の本家の名前でね、もともと楽器をあつかってたんだ。そのせいで、ぼくも若いころはヴァイオリンをやってた。でも」息子をちらりと見やる。「こいつみたいな資質 はなかった。大学にはいるころには見切りをつけたよ。
ただ、ニューヨークに留学したとき、アルバイト先にヴァイオリンショップを選んだんだ。やっぱりすきだったんだね。ミッドタウンの店で、近くにカーネギーホールや音楽院 があったから、いろんなお客さまが来たよ。有名なソリストから、無名の学生まで。その人たちの話をきくのがおもしろかったんだ。卒業後すぐ正社員になった。マエストロといわれる人たちのヴァイオリンや弓を手にとったり、弾いたりできるのもよかったしね。
ところが店のオーナーが倒れてね、もうかなりお齢を召していたから、店をたたまなきゃいけなくなった。呆然としたね。一緒に働いてたスタッフや職人が去っていって、でも、ぼくは最後まで残って事業のあと片づけを手伝った。それまで資金援助してくれていたミスタ・シュナァベルは、ぼくに声をかけた。店は潰れたけど、ヴァイオリンは残ってる。どれも世界中からここに集まった一級品だ。それを処分するのは忍びなかったんだろう。ぼくもそう思った。
それでぺーぺーの販売員から、いきなり雇われ店長だ。店を回転させるには、とにかく商品を買いつけなきゃいけない。サザビイズやクリスティズのオークションに乗りこんで、それまで接したオールドヴァイオリンの記憶を総動員して見当つけて、必死で手をあげたよ。偽物をつかんだのは一度や二度のことじゃないし、損した額も十万ダラーじゃ利かないな。そんな無茶な! って状況だったけど、ぼくはかえって活きいきしちゃってた。自分のヴァイオリンを見る目が磨かれるのがわかったし、それに、いいヴァイオリンを置けば、いいお客さんに出会えるからね。人ってね、ほんとうにすきなことをやってる前向きな人間を応援したくなるもんなんだ。ぼくはたくさんの人に応援してもらった。妻もそのひとりだった。おかげで、こいつも授かった」息子の頭を撫でた。「それから、またいろいろあって、その店のマネジメントは後輩に譲ったけども、いい経験だった。今は大きくはないが自分の店を持って、そこで教室もひらいた。いい楽器と、それを必要とする人が出会う手伝いをするのは、その出会いの瞬間を目撃するのは、自分で弾くのと同じくらい楽しい。
自分のなかの情熱 の炎を大事に育てなさい。そして、なんにでも全力でぶつかること。必ず、それを見ていてくれる人がいて、きみを新しいステージへ導いてくれるから」
「はい」
ぼくは神妙にうなずいた。ヘレンさんは口を挟まず頬笑んでいた。亭主関白なのかもしれない。武士さんは息子にいう。
「おまえも、ケガはもう治ったんだし、そろそろレッスン再開したらどうだ。あんまりあいだがあくと、腕がなまるぞ。第一、永石 先生にも不義理だろう」
「自主トレはやってる。おれにはおれの考えがあるんだ。口ださないでくれ」
矢嶋は不機嫌そうに緑色のクリームスープを掻き混ぜた。でも、この態度は信頼の裏返しなんだろう。息子に反発されて武士さんは鷹揚に笑ってた。ヘレンさんはぼくにルーラーデンのお代わりを勧める。ぼくは遠慮しない。武士さんは息子に進路のことをきく。矢嶋はマンハッタンの高校のことを話す。ごくありふれた家族団欒 、そう見える。でも。
ぼくは隣の男を盗み見る。矢嶋の切れ長の三白眼・立派な鷲鼻・四角い顎――その特徴を、ぼくはご両親に見いだすことができなかった。あれは、ほんとうに、ただのつくり話だったんだろうか? 話半分にきいたにしても、養子だというのは事実なのかもしれない。
もし、そうだとしたら、矢嶋が、うらやましかった。もともとは縁もゆかりもないのに、これほど愛情を注いでくれる人たちがいることが。とても、とても、うらやましかった。
♂
瞼をあげると薄闇、橙色のグロウランプ。自分が誰なのか、ここがどこなのか、思いだすのにしばしかかる。あゝ、そうだ、矢嶋んちに泊まったんだ。ぼくはソファーベッドに半身を起こす。ロングベッドに横たわる人影。ひどく静かだ。寝息すらきこえない。ぼくは不安になる。ブランケットを剝いでソファーを降りた。木製ベッドの脇に屈んだ。
あおむけの矢嶋は澄ました横顔。息、してるよな? 手を鼻にかざしてみる。ちゃんと規則正しく呼気が当たる。ほっとした。しかし、たっけえ鼻だな。眉骨から鼻頭までが一直線に急角度。鼻とアレのサイズが比例するって話はほんとかな。その鼻をつまんでやる。矢嶋は顔をしかめて口をあける。ちょっとマヌケ。ぼくは声を殺して笑う。鼻を手放すと口はとじられた。もういっぺん鼻をつまんだ。やっぱり口があいた。放した。とじた。おもしれえ。またつまんだ。矢嶋の目がひらいた。やべえ。ぼくは手をひっこめる。矢嶋の顔がこちらを向く。
「……Bach's children were 20 of them in all.」
矢嶋の目がとじて、それきりだった。なんだ、寝ぼけただけかよ。バッハがナントカってぬかした気がする。かすかに秒針の音。その顔の横に短い鎖があった。あの保土ヶ谷宿場まつりのときの懐中時計。あのときも、これを耳にあてがっていたな。
そういえば、どこかで読んだことがある。子犬や子猫にアナログ時計を与えてやると母親の心音を思いだして安心するんだって話。
ぼくはなんとなく悲しくなった。
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少年の懐中時計よ鋭角の無限に生ずることをかなしむ
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「おい」
うしろからコントラバスの声。教室の窓際準最後尾の席で、ぼくは頬づえ。
「おれん名前はオイじゃねえよ」
「アンティモゥツァ……」
「あのオゲレツ野郎の名前で呼ぶんじゃねえよ」
「じゃ、なんて呼ぶんだ」
「ふつうに名前でいいだろ」
「……」
後ろの男が急に黙った。ぼくは肘を背凭れにかけて振りかえった。
「まさか、名前しらねえとかいわねえだろうな」
矢嶋の三白眼は眦 が切れあがってる。「キターラだろう」
「おれはイタリア人か? キターラじゃない。キタウラ。キ・タ・ウ・ラ。ちゃんと呼べ」
矢嶋は不服そうなつら。「あいつはちゃんと呼んでない」
「あいつ?」
「あのシーバとかいうやつ」
二年C組の芝賢治は、ぼくをキタって略して呼ぶ。気にしたこともなかった。
「あいつは、いいんだよ」
「なんで」
「なんでって」ぼくは後ろ頭を掻く。「そりゃ、あいつの人徳だよ」
「なんだ、ジントクって。名前なんか区別できればそれでいいだろ」
「じゃあ、おまえ、テイカッシッって呼ばれたらうれしいかよ?」
「もういっぺんいってみろ」
矢嶋が急激に赤くなった。ぼくは指差してやる。
「このTake-a-shit!」
「Go to Hell!」
矢嶋の長い腕が首を絞めあげた。チョークスリーパー。ランチの冷凍ピラフを戻しそうになった。ぼくはそのむきむきの腕をタップした。ギブ、ギブ、ギブ!
「じゃ、今回は席替えってことで、よろしいですかぁー?」
文化祭後、初の学活。後期もひきつづき学級委員長の工藤が声を張った。ぼくは後ろの男にいう。
「これでおまえとオサラバできるよ」
矢嶋は窓に向かって頬づえ。はだらの桜紅葉。もしかして寂しがってんのか、ガラにもなく? 矢嶋の表情のない声。
「おまえ、次もその席だったら、どうする」
「ないだろ。カネ積まれたってヤなこった。また首しめられちゃ敵わねえもん」
ぼくは首をさすった。矢嶋は横目で睨む。
「あれは、おまえが悪い」
こいつって絶対に謝らない。ふたことめには、おまえが悪い、おれのせいじゃない。ったく、どうしてこんなにひねくれたんだろうな。あんなにいいご両親がいるのに。やっぱり、養子っていう複雑な生い立ちの影響なんだろうか?
前の席の飯田今日香から阿弥陀クジが回ってきた。全三十六席ぶんのうち指定席の矢嶋のぶんを除いた三十五本の縦線。ぼくは唯一未記入の一本にファミリーネームを書いて横線をプラスワン、それを提出に行こうとした。後ろから肘をつかまれた。矢嶋だ。
「おれがまだ書いてない」
「どうせ、おまえ、その席じゃん」
「おれだって前の席のやつを選ぶ権利はある」
矢嶋はクジを奪った。速足で教壇へ。矢嶋が何かいう。工藤は困惑顔。数往復のやりとりがあって、やがて工藤がうなずいた。矢嶋は教卓でクジにさらさらと書きこんだ。
定位置についた矢嶋は、そっぽを向いて自身の肘をさわっていた。
われらが副学級委員長・榊言美が黒板の仮座席表に北浦って書いた。矢嶋の上の欄、いまと同じ席のところに。ぼくはうしろを向いた。矢嶋は勝ち誇った笑み。
「ほら、見ろ」
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窓際の光につなぐ阿弥陀 籤 きみの屈折した恋のうた
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