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十八哩(横浜クレイジー)
昼休み。便所から帰ってくると、ぼくの席に女がいた。いまや学校一の美少女と呼び声高い竹宮朋代(推定B 八〇・W 六〇・H 八〇)。竹宮は横座りして矢嶋(推定C 一〇〇・W七五・H八五)を見つめてる。矢嶋は気づいてんだろうが、顔を文庫本からあげようとしない。ぼく(C八五・W七〇・H八〇)は興味深く感じて、隣の森脇 萌 の席についた。
矢嶋の本は村上春樹。竹宮は脚を組みなおす。矢嶋はページを繰る。竹宮は髪を掻きあげる。矢嶋はページを繰る。竹宮は小首をかしげる。矢嶋はページを繰る。先に声をだしたのは竹宮。
「ねえ、すごい集中力だね。それ、そんなにおもしろい?」
矢嶋はポーカーフェイスだが、なんとなく困ってるふうに見えた。竹宮は鏡で練習したんだろう自慢のスマイルを浮かべた。白い歯。
「どんな話なの」
矢嶋はぱらぱらとページを繰った。「いろいろ。短編集なんだ。作者が人からきいた話を小説風にまとめた、って体裁をとってる。まるっきりつくり話なのかもしれないし、もしかしたら事実なのかもしれない。そんなふうに思わせる、不思議な感じの話」
竹宮は自身の頤に手を添える。「たとえば?」
「たとえば、いままで読んだなかじゃ《嘔吐1979》がいちばん残ってる」
「オウトって、王さまの都?」
「吐くほうの嘔吐」
「それ、どんな」
「その男は友達の彼女や奥さんと寝るのが趣味なんだ。奪うわけじゃなくて、ばれないようにいっときの関係を楽しむだけ」
「イヤな男だね」
姫の眉間に浅い皺。矢嶋は曖昧にうなずく。
「その男の数十日間の話なんだよ。ある日から、嘔吐が始まる。酒を飲みすぎたせいだと男は思う。翌日、また嘔吐がある。男は酒を控える。でも、やっぱり嘔吐してしまう。そして、電話がかかってくる。その電話はひとこと男の名前だけを告げて、すぐ切れる。その声にききおぼえはない。それから、同じ電話が毎日かかってくるようになる。男がどこにいても、必ずかかってくる。嘔吐もいっしょに続く。病院に行くけど原因不明。警察に言っても相手にしてもらえない」
「バチが当たったんだ?」
「でも男は、そのあいだ、いつものようにすごす。そんな、わけのわからない理不尽なものに屈してたまるか、って男は思ってる。瘦せてゆくけれど、仕事をして、酒を飲んで、女の子と遊ぶ」
「えー」姫は不服そう。
「あるとき、いつもの電話の相手がきいてくる。私が誰だかわかりますか? って。沈黙が続いて、電話は切れる。それきり、もうかかってこなくなる。それを境に嘔吐は止まる」
「それで?」
「それだけ。男は変わらないし、反省もしない。元気になって、いままでどおり火遊びを続ける。男の勝ちだ。メデタシメデタシ」
「それの、どこがおもしろいの」
矢嶋は肩をすくめた。「おもしろいとはいってないよ。ただ印象的だった」
「それおもしろくないなら、わたしと話そうよ。矢嶋くんだよね。わたしのこと知ってる?」
「おまえの声はきいたことない」
「声?」
矢嶋は右目を指差す。「目が悪いんだ。だから、声で区別する。そいつのしゃべりかたで性格は大体わかる」
竹宮は身を乗りだした。「じゃあ、わたしはどんな性格だと思う」
「ティンカ・ベルだ。高飛車・計算高い・嫉妬深い。でも、ピィタァのために命を捨てる」
竹宮は演技なのか本気なのか目を大きくして、紅い唇をにっこりとひいた。
「わたし、ティンカーベルすき。ウェンディはきらい。その性格診断、当たってるかもね。わたし、朋代。竹宮朋代」
「Take me yaって変な名前」
「テイクミーヤ?」
「わたしをつれてって」
「なんかロマンチックじゃない?」
矢嶋は肩をすくめた。竹宮は顎を両手の甲に乗せ、うわ目づかいをした。
「その性格診断については、こんどゆっくりきかせてほしいな。じゃあ、またね」
矢嶋は明らかに困り顔になった。竹宮は立ちあがり、雌鹿みたいにスレンダーな背中を見せて去っていった。ぼくはニヤニヤしながら自分の席に着いた。さっきまで竹宮がしていたように背凭れを抱いて。
「よお、色男 。モテモテじゃん。よかったな」
矢嶋はむすっとした表情。「よくない」
「なんで」
矢嶋は顎をしゃくる。その先、河合のやつが、もの凄い顔でこっちを睨んでた。
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不等辺三角定規の鋭さでしばらく奴の目を直視する
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冷たい雨がけぶっても、横浜駅西口は蟻の巣をぶっ壊したような混雑だった。一日のべ一五〇万人が交錯するスーパー(オンボロ)ターミナルステイション。三〇〇リットル冷蔵庫さながらの矢嶋が行くと、自然に人が道を譲る。その後ろから、ぼくは萌葱色 の傘を手についていく。矢嶋の傘も緑色、皺の寄ったずさんなたたみかた。
「なんだ、傘もまともにたためないのか」
皇帝緑 の頭、矢嶋は片頬を見せる。「だって手が濡れるじゃないか」
「ふけよ。布に変なシワついちゃうだろ」
「ひらけば伸びるからいいんだ」
「すぼめたとき、みっともないだろうが」
「うるさい。おまえは母親か」
「そんな子に育てた覚えはありませんよ」
「育てられた覚えもねえよ」
どうでもいいことをヤイヤイいいながら、ぼくらは下りエスカレーターへ。
十一月のダイヤモンド地下街に、もう定番のクリスマスソング。いっとう明るい通路の、埃っぽい人造大理石を踏む。|The| DIAMONDと刻まれた八芒星のエンブレム。この地下街の名前は天賞堂(夏目漱石先生御用達の宝石屋)の支店があることが由来だ。あたりにはテイクアウトの飲食店に混じって、似たり寄ったりの宝飾店。まあ、ショップの顔ぶれがしょっちゅう変わるザ・ダイヤモンドで、ぼくが利用するのは有隣堂とドリンクスタンドくらいのもの。両側にバス停への階段が並ぶ中央モールを、ぼくらは北へ。矢嶋の歩みに迷いはない。ドトールコーヒーの辻で、矢嶋は西へ。ガラス張りのスイングドアが待ちうけていた。外へでるのだろうか。そっちは行ったことがない。
「どこ行くんだよ」
矢嶋はドア押して広い通路へ。天井の通気口から雨。それを避けて、矢嶋は指差す。Yokohama Bay Sheraton & Towersって壁の金文字。横浜駅界隈一のシティホテルだ。西口じゃいちばん高層の立派な外観をおぼえていた。その高級そうな自動ドアへ、矢嶋は踏みこんでゆく。ぼくは物怖じして足を止めた。矢嶋がふりかえる。
「何してんだ。来いよ、キターラ」
変な発音でいった。呼ばれ慣れたそれなのに異国の名前のように響いた。
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放課後のトムとジェリーに恋愛のことをきくのはまちがっている
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ホテル地下入口の真っ正面が、さくら銀行だった。矢嶋がカネをおろすのを待ちながら、ぼくは株価の電光掲示を見ていた。Nikkei 14,798.71 -58.51。むこうに東洋占術コーナー、大きな手相図。地下街の延長のような雰囲気。用を済ませてきた矢嶋にいう。
「もっとお堅い感じかと思ってた。なんかデパートみたいだな」
「シェラトンなんて中堅だよ。特にここは相鉄と髙島屋が共同出資で建てたビルだからな」
「そうなの?」
「相鉄は髙島屋の主要株主なんだ。だから、ここも髙島屋も地下でつながってんだろ」
納得。矢嶋に続いて上りエスカレーターに乗った。南の壁いっぱいの大きな窓に雨の街。上のフロアで雑貨屋を曲がった。
段差のある狭い入口。そこがロビーだった。顔が映りそうな大理石の床・大理石の直径一メートルの柱・グランドピアノのある中二階・三階まで吹抜けの天井を覆うシャンデリア。別世界だ。ぼくは変にしゃちほこ張ってしまった。人びとの落ちついた話し声。なんだろう、何か上品ないい香りがする……。
プランターが囲った中二階、その階段脇に木のロングデスクがしつらえてあった。黒スーツの女性たちが三人と、男性が一人。みんな電話をかけたり客を相手したり。そのデスクへと矢嶋はローファーを響かせる。階段のむこうに褐色のピアノ。思わず、ぼくは段に足をかけた。矢嶋に肘をつかまれた。
「何やってんだ」
「ピアノ」
「バカ。弾けないって。行儀よくしてろよ」
矢嶋は微苦笑し、ぼくの髪をくしゃりと撫でた。乱れた髪を、ぼくは手ぐしで整えた。
ロングデスクに笠つきの電気スタンド・電話機・ノートパソコン・革のデスクパッド・トレー・万年筆・Conciergeって立派なプレート。コンシエージュってなんだろう? 矢嶋は手を振った。
「セキネさん」
黒スーツの女性陣のなか、唯一の男性が受話器を握ったまま微笑した。まだ青年だ。短髪・縁なし眼鏡・上質なスーツ、ネームプレートにSekine……関根? ぼくは脳内で勝手に変換した。有能な秘書って雰囲気。関根さんは矢嶋に会釈しながら、用件を終えて受話器を置いた。
「ようこそ、矢嶋さま。例のお品の件ですね?」
「ええ。連絡が早くて助かりました。相談に乗ってもらったから、お礼だけしたくて。鎌倉紅谷のお菓子を届けてもらうよう頼みました。今日中には着くかと。みなさんで召しあがってください」
「ありがとうございます。矢嶋さまのお菓子はいつも美味しいです。他のスタッフにも評判なんですよ」
「母が見つけるんです。あの人はお茶が趣味だから。これ、友人のキターラ」
矢嶋はぼくを示した。ぼくは関係ないと思ってたから、内心あわてた。こんにちは、とぼくは会釈。関根さんは大きく頬笑んだ。
「こんにちは、北浦さま。お噂はかねがね伺っております。ピアノがとてもお上手だとか」
ぼくは矢嶋をちらっと見た。何を話してくれてるんだ、こいつは。ぼくは首を振った。
「いえ、たんなる趣味の範囲で」
「わたしも趣味で箏を嗜 むんです。こんど、ゆっくりと音楽談義などいたしましょう。関根と申します」
さしだされた名刺に、Hotel Concierge 関根常 Joh Sekine。ぼくの変換は合っていた。
電話機が鳴った。関根さんはぼくらに詫びつつ受話器をとった。忙しいようだ。矢嶋は関根さんに手を振った。ぼくは尋ねる。
「よく来るんだ?」
「たまに泊まりにな」
「家族で?」
「一人で。ヘレンやBTと喧嘩したときなんか、気分転換にさ。コンシエールジュとおしゃべりして、バーでノナルコホリックカクテルを飲んで、部屋でみなとみらいの夜景 を見て、ラウンジであったかいクロワッサンを齧ると、ま、いっか、って感じになる」
矢嶋は大人みたいな顔つきで足を動かした。ぼくは高層ホテルの部屋で一人ですごす夜について考えた。ぼくなら独房の夜に感じてしまうだろうなと思った。
ロビーの奥まったところに、向かいあわせの小さな花屋と宝石店。矢嶋は急に傘を押しつけてきた。ぼくは荷物係かよ。矢嶋は宝石店へ踏みこんでゆく。
ぼくは入口付近で立ち止まり、セール品のショーケースを眺めた。大粒のアクアマリンをダイヤモンドでとりまいた指輪が三万九八〇〇円。わーお。
パンツスーツの女性スタッフが、矢嶋に向かって慇懃 にお辞儀した。男性スタッフと、店長とおぼしき白髪の男性も頭 をさげる。店舗は普通教室くらい。天井と壁は小ざっぱりした白。ヴァンダイクブラウンの絨毯。木彫いりのショーケース。なかにはアンティークマイセン風の壺が飾ってあったりして、宝石屋というよりもプライヴェートな美術館みたい。大きな声をだすのが憚 られる感じ。水銀色のテーラードジャケットで決めた矢嶋はともかく、ぼくのダックブルーの学生服は場ちがいに映ることだろう。ぼくは傘二本をまとめてギュッと握る。ぼくは不安をまったく察するふうもなく矢嶋はのたまう。
「ナワさん。無理をきいてもらって、ありがとうございます。お世話になります」
「おそれいります。矢嶋さま、当店をご用命いただき、ありがとうございます。全力でサポートいたします。よろしくお願いします」
二十代後半だろう女性スタッフがうららかにいった。ネームプレートにNawa……名和? ぼくは脳内で勝手に字を当てた。宝石を買うだけにしちゃ、挨拶が大げさだ。矢嶋が社長令息だからか? 名和さんがぼくにいう。
「北浦さまも、どうぞこちらへ」
なんでぼくの名前を承知なんだろう。この人にも矢嶋は何か吹きこんだのかな。ぼくは片手を振る。
「いえ、ぼくは……」
「来いよ。つきあう約束だろ」
矢嶋が手招きする。ぼくは足早に歩いてって、矢嶋の腕をつかんだ。
「矢嶋、ちょっと」
名和さんは途惑ったふうに見えた。ぼくは矢嶋をひっぱって店のすみへ。南国の肉厚の観葉植物の横で、ぼくはひそひそ声をだす。
「おまえの買物ってこれ? なに買うか決まってんの?」
「パァルズ」
ヘレンさんの耳の真珠を思いだす。「親に?」
「そう。今月の二十二日がヘレンのブゥスデイなんだ。帯留でもつくってやろうと思って」
「一からつくんの?」
「パァルズを選ぶところから」
「これって、おれがいなきゃだめ?」
矢嶋は困った顔。「キターラが選ぶの手伝ったっていったほうが、よろこぶだろ」
「あゝ、そういうことなら、手伝う」ぼくは矢嶋の傘をきれいにたたみなおす。「けど、事情はまえもっていっといてよ。こっちだって用意とかあるんだから。こんなところ、いきなり連れてこられたらビビるだろ。なんなの、もう。じつはいじめ?」
「いや。いじめるなら、もっとおもしろい方法でやる」
「真顔でいってんじゃねえよ」
場所が場所じゃなかったら傘で殴ってやるところだ。ぼくらは宝石店員たちのもとへ戻った。ぼくはひらきなおっていう。
「コントの打ちあわせしてきました」
名和さんは声なく笑った。傘をお預かりします、と柔和な顔の男性スタッフがいった。
♂
いうことをきいてあげよう両耳にカルセドニーの涙をさげて
♂
ぼくと矢嶋は店の奥に案内された。中世ヨーロッパ調の曲線的なテーブル、中央部に薔薇の木象嵌。布張りの椅子で、ぼくはつい姿勢を正す。
「どうか楽になさってくださいね。ただいま、お茶とお品物をお持ちします」
名和さんは髪をひっつめに結って、意志の強そうな凜々しい目をしていた。時代劇の男装の若侍みたい。雫型のカルセドニーのイヤリング・ブラウスの襟ぐりにプラチナの細い鎖・右の薬指にパライバトルマリンの指輪・磨き抜かれて宝石めく十の爪。控えめだけど、おしゃれな人だ。ぼくは余計に硬くなった。名和さんは別室へ行ってしまう。男性スタッフが金箔のふちのカップを三つ置いた。湯気の立つセイロンティ。
名和さんが何かを運んできて、テーブルへうやうやしく乗せた。天鵞絨 張りのトレイに真珠がぎっしり、二百粒の霞のような光沢。ぼくは目を瞠った。
「お待たせいたしました。先日、入荷しました、英虞 湾のあこや真珠です。去年の春ごろ海にいれまして、今年の秋口にひき揚げたものです。真珠には養殖期間が一年未満の当年物と、一年以上二年程度の越物 がございます。厳しい冬場を経験すると、死んでしまう貝も多くなるんですが、このように当年物よりもキメが細かく厚巻きの美しい真珠が育つんです。日本の真珠が世界に称賛されるのは、日本の豊かな四季のおかげでもあるんですね」
名和さんはとうとうと説明した。ぼくは敬服。矢嶋は慎重な声をだす。
「これ、無色調ですよね」
「ええ、もちろん無色調です。最低限の加工しかしておりません。万が一、時間の経過のなかで変色したとしても、再研磨すれば元の色つやをとりもどしますよ」
「透視ライトはありますか」
なんじゃそりゃ、ドラえもんの道具か? ぼくの困惑をよそに、名和さんは平然とうなずいた。
「ございます。少々お待ちを。滝尾 くん」
タキオと呼ばれた男性スタッフがカウンター内からブツを持ちだした。その小さな器具は山下公園近くの灯台・マリンタワーを思わせる形状だった。ライトのてまえが一段ふとくなって、先端がふたまわりほど細い。部屋の照明が一段階おとされた。透視ライトの先端部に名和さんは真珠の一粒を乗せた。真珠が淡い緑色に透きとおった。ぼくは口をあけた。
「うわ、飛行石みたい」
名和さんが笑った。「そうですね。この中心の色の濃い部分が核 で、外側の薄い部分が真珠質です。どうぞお手にとって、じっくりご覧になってください」
矢嶋はいくつか真珠を透かしてみたり、真珠のおもてを爪で掻いたりしていたが、納得したようだった。ぼくは矢嶋にいう。
「いくついるの」
「三十七個。三十七歳だから」
「節分の豆じゃあるまいし。首飾りならともかく、帯留ならもっと少なくていいんじゃ?」
「具体的に何個ならいいんだ」
ぼくは黙った。見当もつかない。名和さんがいう。
「そうですね。お母さまの齢の数というアイディアは素敵です。けれど、数が増えますと、それだけ粒を揃えにくくなります。宝石はたとえ同じ種類の同じカラット数であっても、同じ色かたちのものは一つとしてございません。ましてや真珠は自然の造形で、カットを加えるわけにはまいりませんから、なおさらです。真珠の玉を揃えるのは、プロの職人でも難しいです。帯留のデザインにもよると思いますが」
矢嶋はいう。「それじゃ、二十個くらいにします。大きさはあまりこだわらなくていいので、色つやは揃えたいです」
「かしこまりました」と名和さん。
「じゃ、基準になる玉を選ぼう」とぼく。
大きさも形も色合いも異なるそれを、三人で言葉少なに選りすぐった。初めてさわった真珠はごく軽く、冷たくなくて、なめらかだった。白っぽいというイメージがあったけれど、それだけじゃなく緑や紫の複雑な光を帯びている。それを指輪用トレイの畝に並べてゆく。ビゼー《真珠採り》の《聖なる寺院の奥に》でも流したらしっくりきそう。矢嶋はセイロンティをストレートで飲んだ。ぼくは矢嶋のぶんの砂糖も使った。名和さんはカップには見向きもせず仕事をした。
「昔、ミセス・ロヴェンスキィって人がいました」二つの真珠を比べつつ矢嶋がいった。「ニュゥヨォクの大富豪の妻で、パァルの愛好家でした。あるとき、カルティエのショゥウィンドウにパァルズのネックレスが展示されていた。パァル五十五個と七十三個からなる二連の、それは見事なもので、彼女は一瞬で魅了されました。そして、五番街 に所有していたビルディング一つと、そのネックレスを交換してしまった。一九一六年のことです。当時、天然のパァルズがどれだけ高価だったか、わかりますよね。でも、その数年後から養殖パァルが普及して、そのネックレスの価値はがた落ちしました。ちなみに、そのビルはカルティエの今のニュゥヨォク支店になった。クリスマスになるとイルミネイションがきれいですよ。ミセス・ロヴェンスキィは気の毒だったけど、われわれにはパァルズの養殖技術はありがたいです。いちいちビルを売り飛ばさなくてすむ」
「矢嶋さまは、博識なんですね。いますぐにでも、お店に立てるんじゃありませんか」
名和さんの頬笑みに、矢嶋ははにかんだ。こいつでも女にでれでれしたりするんだな。
「けれど、そのご夫人は、きっと幸せだったと思いますよ。市場価値がどうあれ、心底ほれこんだジュエリーを手にいれることができたんですから」
「そうかもしれませんね」
矢嶋はもっともらしくうなずいた。ぼくは何か気恥ずかしくて、お茶ばかり飲んでいた。
選ばれた真珠は二十二個になった。直径四ミリから八ミリまでばらつきがあったが、淡い色としっとりした光沢は共通していた。それを男性スタッフが一粒ずつセーム革で磨いて、透明な袋に詰めてゆく。名和さんは万年筆でさらさらと請求書に記入した。矢嶋は尻ポケットの長財布を抜く。真新しい万札が二十枚前後。ぼくは見ないようにしていた。
矢嶋は席を立って、手提げの紙袋を受けとった。持ち手にリボン。ありがとうございました、と矢嶋と名和さんはいいあって握手まで交わしていた。スタッフ一同に見送られ、ぼくらは店をあとにロビーを横切った。矢嶋は当然のごとく袋をぼくに持たせた。たった二十数粒の真珠が重く感じられた。ぼくは両手でそれを掲げる。
「これ、どうやって帯留にすんの」
「知りあいの職人 に頼む。大まかなイメージ画を描いてくれたら、デザイン費は負けてもいいってさ」
下調べも根回しも抜かりないようだ。ぼくは疑問に思った。
「そういえば、地下街に田崎真珠あったじゃん。なんでそっちにしなかったの?」
「ナワさんから買いたかったんだ」
矢嶋の頬がピンクになってた。こいつの部屋のBB のポスターを思いだす。こいつって年上好きなのかも。矢嶋が睨む。
「なに笑ってんだよ」
「望み薄だと思うぞ」
矢嶋はでかい手で肩を殴ってきた。「うるさい」
♂
ヴィーナスの裸の肩のまろやかさ真珠のように手が届かない
♂
ぼくと矢嶋は地下街をとおって、鶴屋町方面へ。二丁目の繁華街、改装中の岡田屋モアーズの裏、多角柱型のビルディングが土屋ヴァイオリン横浜店。ぼくらを乗せたエレベーターが五階へ到着、チーンと音がして両びらき式の扉が割れる。なまのヴァイオリンの音がきこえた――エルガー《愛の挨拶》。
ヴァイオリンの棚の前で弾いているのは武士さんだ。濃鼠のスーツに銀縁メガネ。社長みずから店頭に立っているのが意外だった。武士さんは営業スマイルを浮かべ、相手が息子だと気づくとほんとうの笑顔になった。
「ぼくちゃん、お待ちしてました」
「ぼくちゃんはやめろ。ツレがいるんだから」
矢嶋は決まり悪そう。ぼくは噴きだした。
フロアの反対側に、職人らしきエプロンの禿頭 の男性。万力のついた作業台に向かって難しい顔。ヴィオラの表板が剝がされて、弁当箱みたいにひらかれていた。職人はその表板の裏側を薄い金属板で丁寧に削る。高い摩擦音。その頭上のカーテンレールっぽい吊り具に色味の異なるヴァイオリン数挺。その職人のそばで矢嶋は仕事を見守る。手がすくのを待ってるのかもしれない。
武士さんがエルガーを弾きはじめる。窓はすべて塞がれていた。そういえば強い光はヴァイオリンのニスには毒だって矢嶋がいってたな。人工的に明るいブースを、ぼくはうろついた。ぼくら以外に客の姿はない。小さな試奏室がいくつかあったが、すべてあいていた。二メートルほどあるコントラバス/三十センチほどの分数ヴァイオリン。それらのケースの赤・青・緑・黒・銀。各種テールピースや肩当ての独特な形状。不思議の国に迷いこんだ気がした。
壁のディスプレイ棚に、ニスの光沢で新品とわかるヴァイオリンたち。一九八九年・ドイツ製一六万円。ガラス張りのショーケースを覗いた。標本のように並ぶ時代がかったヴァイオリンたち。一八八〇年ごろ・イタリア製二二〇万円。ピアノなんて消耗品だから、中古の値段はたかが知れてる。古くなったほうが価値があがるのが、ヴァイオリンという楽器の謎だ。たとえばワインが熟成するように、音色が変わるのだろうか。これが一つ売れるなら、社長が楽器で遊ぶくらい暇でも採算は合うのだろう。優雅な話。
木の台のうえに、弦もペグもない裸のヴァイオリン。そいつの蜜色のニスはものすごく透明感があって、他のものとはちがって見えた。輪郭が柔らかい。スクロールにさわったらバターみたいに形を変えそう。ぼくは見とれた。武士さんが寄ってきた。
「ニューヨークの職人の手だよ。けさ届いたばかりなんだ」
磨かれた革靴。ぼくは急に自分のスニーカーの汚れが気になった。
「ストラディヴァリウスかと思いました。すごくきれいだったので」
武士さんはほうれい線を深めて笑う。
「残念ながら、ちがうんだ。でも、決してまちがいではない。ヴァイオリンが誕生したのは十六世紀だが、その起源についてはハッキリした記録がない。しかし、ヴァイオリンの価値を高めたのはイタリア――クレモナだ。その地のヴァイオリン製作の開祖が、アンドレア・アマティだ。現存する最古のヴァイオリンは、このアンドレアがつくった一五六四年の作なんだよ。そのアンドレアの孫が、一番有名なニコロ・アマティ。このアマティのヴァイオリンを完成形にしたのが、あのアントニオ・ストラディヴァリといって過言ではない。十九世紀にストラドの価値が見いだされて以来、様ざまなヴァイオリン職人がそれを手本に研鑽 を重ねてきた。細かな改良こそあれど、ヴァイオリンは三百年まえから驚くほど変わっていない。変えることができないんだ。あまりにも完璧だから。現代のヴァイオリン製作者たちも、その多くが理想とする楽器としてストラドを掲げ、ストラディヴァリをいつか超えようと情熱を燃やしたり、超えられないと半ば諦めたりしながら、ヴァイオリンをこしらえているんだな。みんなが、ある意味ではストラディヴァリの弟子なんだ。だから、これをストラドと思ったきみの感性は、まちがいじゃない」
人間国宝の講談でもきいている気分だった。ぼくは感じいってうなずいた。
「ピアノじゃ考えられませんね。こんなに技術は進歩してるのに、三百年まえの職人に敵わないなんて」
「そうだね、ピアノはまだ改良の余地があるかもしれない」
「矢嶋が……ぼくちゃんがいってたんです。ピアノのことを、あんな不自由な楽器は弾けないって。純正律って言葉、初めてききました。ヴァイオリンは無段階に弾けるから、正確な音が取れるでしょう。あいつ、耳がいいんでしょうね。そういう意味では、ヴァイオリンは完全に近いんじゃないでしょうか。ぼくはそこまでいい耳はしてないから、ピアノでいいやって思います。難しいことしなくても、叩けば音がでるし」
ぼくは架空のピアノを打鍵する。武士さんは笑った。
「北浦くんはおもしろいね。なんで健 が気にいったかわかった」
ぼくは矢嶋の背中を見やって、苦笑した。「なんでか知らないけど、あいつ、ぼくにピアノ教えようとするんですよ。めちゃくちゃスパルタなんで、正直、困ってるんです」
「きみに見どころがあるからだろう。健は音楽に噓のつけないやつだから」
そうなんだろうか?「あいつ、四歳から弾いてるんですよね」
「そう、こんな背丈のころからね」武士さんは穏やかに笑って、掌を自身の腿のあたりにかざした。「親の欲目もあるかもしれないけど、最初から筋がよかったんだ。クロイツェルの四十二番を、一度きいただけでおぼえて弾いたりね。伸ばしてやりたくてね、当時は毎週のようにコンサートに連れていってたね。
音楽的な環境としてはマンハッタンのほうが良かったのかもしれないがね。でも、ぼくの都合で横浜に来ることになった。そのころ、健はまだ日本語が苦手でね、節分のことをマメ祭りなんていったりしてね、そりゃもうかわいらしかったね。でも、学校では発音をからかわれたみたいで。よくこの店に来ては、ぼくや弓削 さんに――あ、弓削さんて、あの職人さんね――ちゃんとした日本語ではどう発音するの? ってきいてたね。発音なんてどうでもいいから堂々としてなさい、っていったりしてね。いや考えたら、まだ三年しか経ってないんだね。すっかり大人っぽくなって、口も達者になって……」
ヴァイオリンの音 。作業台のそばで矢嶋が楽器を構えていた。やつは手早くチューニングをすませて、奏ではじめる。クライスラー《愛の悲しみ》。せつないけれど、かろやかな音楽。矢嶋はやわらかな風に吹かれるように体を揺らした。こいつのヴァイオリンを初めてきいたときも思った。その音は遥かな海風に似ている。心のおもてを軽やかに撫でて、自分でも忘れているような傷に染みる。矢嶋の弾くあいだ、ぼくは自然に目をとじていた。
余韻を残して、音楽がやんだ。矢嶋は顎にヴァイオリンを挟んだまま弓を振る。
「いい感じだよ。ありがとう」
職人がうなずいた。「うん。それでいけるでしょ。Cバウツの傷も繕っといた」
矢嶋はヴァイオリンをいおとしそうに眺めてから、歯列矯正器を見せた。馴染みの店だからか、父親の前だからか、矢嶋は普段よりも素直に感じられた。武士さんがメガネを持ちあげ、目をこすった。ぼくの視線に気づいて、武士さんは笑う。
「いやだね、齢をとると涙もろくなっちゃって」
「いえ、いい音でした」
「そうだね」
矢嶋がヴァイオリンと弓をケースに収めつついう。「あれちょうだい」
武士さんは心得た顔。カウンターの下から何かを持ちだす。CDの紙ジャケットみたいなパッケージ。たぶん、ヴァイオリンの弦だろう。矢嶋は受けとって、その手を上着の内ポケットに突っこんだ。職人が口をひらく。
「あっちは乾燥してるだろうからな。そいつが機嫌そこねなきゃいいけども」
「大丈夫。シャワーだしっぱにする。いろいろありがとう。きっとうまくやるから」
矢嶋はヴァイオリンケースを片手に出口へ。ぼくはあわてて追った。
「おまえ、お代は?」
「なんで自分ちの店でカネ払うんだよ」
矢嶋はあたりまえみたいにいった。やっぱり、こいつはおぼっちゃんなんだな。
エレベーターホールの窓に、むかいの首都高が雨に霞んでいた。ぼくはきいた。
「おまえ、どっかのコンクールでもでんの?」
「終わったら話す」
矢嶋は無表情に雨の窓を見ていた。ぼくは傘と宝石屋の袋を左に持ちなおして、エレベーターの[⇩]ボタンを押した。
♂
人工の光オールドヴァイオリン蛾の展翅群めいてくる夜
♂
エレベーターの階数表示の[5]が光った。チーンと音がして両びらき式の扉が割れる。ぼくは先に乗りこんで、車椅子用操作盤の[開]ボタンを押してた。矢嶋が立ちどまった。グレーの目が揺れて、どこを見ているのかわからなくなる。めまいでも起こしたのか。
「停電になる」
「え?」
「カミナリが落ちる」
そういわれれば、例の銅鑼 のような響き。でも、うんと遠そう。
「平気だって。あんがい心配性なんだな」
矢嶋はためらっている。ぼくは[開]を連打した。
「ほら、早く乗れよ」
矢嶋はしぶしぶって顔つきで乗りこんできた。ぼくは[開]を離した。扉がしまった。ゆるやかな浮遊感。一階へと降下――
目のまえが闇になった。ありゃ、ぼくの視神経がいかれた? いや、停電だ。エレベーターが動いてない。わぁーお、矢嶋の予言大的中! ぼくははしゃいで跳ねた。「おいっ、おまえっ、すっげえなぁっ! マジで停まったじゃん。おまえってノストラダムスよか、遥かに偉大なんじゃないの、じつは?」だが、矢嶋の返事はない。「おい、矢嶋ぁ。どうしたよ?」やはり、答えは返らない。おいおい、この空間から消滅したりしてないよな。テレポーテーション? んな、バカな。ガキじみた自分の発想に笑う。ぼくの右側、矢嶋のいるとおぼしき方向へ闇雲に手を伸ばしてみる。その皮膚らしき感触に突き当たる。指先が僅かに湿った。……まさか、こいつ泣いてる? となりで息の音がした。落ちつこうとするように、大きく吸ったり吐いたりする。でも、その息のインターヴァルが、だんだんと短くなってゆく。それがやがてひゅぅひゅぅという高い音になって、急に止まった。「矢嶋。どうした、大丈夫か?」しばらくすると、ひゅぅひゅぅと速い息がまた始まる。夜も明かりの消えない、こいつの部屋を思う。やさしい橙のグロウランプ。おれはフォードのトランクから生まれた。いつか、そんなふうに、こいつはぬかしていたっけ。その内側の暗さを、思いだしてしまったのかもしれない。ぼくは再び手を伸べる。さっきよりも低いほうへ。……うーん、このゴワゴワしてんの、カーゴパンツのポケットか? あ、この硬いの、たぶん財布だな。もうちょい、うえだ。そのジャケットごしの腰・肩胛骨・肩・上腕・前腕・手首、そして辿りつく。矢嶋のごつい手の先を、軽く握った。「大丈夫。すぐ復旧するから」握ったその指先はこわばってる感じがする。ひゅぅひゅぅという息が途切れ途切れにきこえつづけた。まだ、こわいのかも。どうしてやれば、こいつは安心できるかな。あんまり手をぎゅうぎゅう握るのも変だしな。もっと話しかけてやったほうがいいか。何しゃべりゃいいだろ? どうせ、こいつは返事しないし。昔話とか? ぼくを寝かしつけながら、じいちゃんがしてくれたような、うんとデタラメなやつ。「……むかーし昔、ある街に、ヤジさんとキタさんがおりました。ヤジさんはチョー大ガネ持ちでしたが、キタさんは少ぉし貧乏でした。ヤジさんはチョー自分本位でワガママでしたが、キタさんはとっても我慢づよい性格でした。ヤジさんは女の子にチョーもてもてでしたが、キタさんはサッパリもてませんでした。ヤジさんはチョーかっこつけたがりでしたが、キタさんはそもそもカッコのつけかたすら知りませんでした。ヤジさんはチョーむきむきマッチョメンでしたが、キタさんはめっちゃガリガリくんでした。ヤジさんはチョー変なやつでしたが、キタさんもやっぱり変なやつでした。めでたしめでたし」
光が戻った。いきなりチーンと音がして扉が割れる。手を繋いだデカい男子中学生二人組。乗りこもうとして後ずさるギターを背負った女子高生、鼻に皺。あ、ホモカップルだと思われたかも。ぼくは矢嶋の左手を振り払う。あー、やだな、もう。先にエレベーターの箱をでる。とぼとぼ降りてくる矢嶋。その顔つきは、いつもと変わらなく見えた。でも、こころなしか目が潤ってる。ぼくが握った左の掌を黒のパンツにこすりつける。ごしごしごしごし……。このやろっ。
「なんだ、潔癖症か」
「おまえの手、べたべたしてキモチワルイ」
カッと来た。衝動的にその肩を殴った。「この恩知らず!」
立ちつくす矢嶋。大股に歩きだすぼく。そのそばから後悔しはじめる。そもそも、あいつはエレベーターに乗りたがってなかったよな。こうなることが、なんとなく予測できていたから。それでも、ぼくに合わせて無理に乗りこんだんだ。ぼくも少しは悪い。でも、だからって、キモチワルイはないだろ。汗っかきな手を眺める。あいつの手みたいな、からっと乾いた皮膚ならよかったのに。
ぼくは傘を差さずに表へでた。弱い雨。夕暮れの雑踏。交わっても薄いままの影。矢嶋は後ろからついてくる。無言のまま。ぼくは先頭を歩く。言葉もなく。なんか変だな。そうだ、いつもと順番がちがうからだ。いつだって矢嶋がカッコよく先頭きって、ぼくはちゃちなオマケみたいにくっついてくんだ。きょうは、逆だ。だから、おかしい。でも、今からわざわざ戻って、あいつの後ろにつくのも不自然だし。ちぐはぐな感覚をかかえつつ、ぼくは歩きつづける。右の足を繰りだし、左の足を繰りだす。右の足を繰りだし、左の足を繰りだす。……ソーリィ、って呟きが背後からきこえたように思った。けれど、どうせ気のせいだ。
あれっ? そういや、ぼく、どこへ向かってんの。
♂
青 北風 のうたを宿すか逆立ちのコントラバスのごとき胸腔
♂
「ヴィジョンが見えるんだ」
堅苦しい店は、もう勘弁だった。三丁目のジョナサン鶴屋町店。四角いパイン材のテーブル、むかいの座で矢嶋はいった。壁に大きな造花のリース。夕暮れの窓からは黄落のイチョウ並木と、無骨な立体駐車場のシルエット。ドリンクバー用のグラスがふたつ。矢嶋のは炭酸水、ぼくのはメロンソーダ。そろそろ夕食の時間帯、広くない店内は会社員や学生でいっぱい。声高な会話と食器類の響きが渾然 と満ちて、さらに結構な音量でファドがかかってた。
「数秒のムゥヴィが、額のあたりで光るんだ。目のまえのものが見えなくなるくらい強烈に」
「それって幻覚なんじゃ?」
「ただの幻覚じゃない。あとで現実化するんだ。まあ、七〇 %くらいの確率かな」
矢嶋は天気の話でもする調子。なんといっていいのか、ぼくはわからなかった。矢嶋は目を鋭くする。
「信じてないだろ」
「そういわれてもな」
「どうして、おまえが連続で、おれの前の席になったと思う」
「偶然だろ? それとも、クジに小細工したか」
「いーや。頼んだんだ」
「工藤たちに?」
「いや」天井を指差す矢嶋。「あっち」
「あっちってどっちよ」
ぼくは苦笑い。矢嶋は真顔で身を乗りだす。
「あっちは物理的に上にあるわけじゃないけどな。超領域 って、おれは呼んでる」
正直、薄気味悪かった。「それって、神さま……みたいな、もん?」
「あんな幼稚なキャーラクタァとはちがう。あれは教会 のつくり話。フィールドはシステムだ。そこにアクセスすれば、未来が読める、現実を動かせる。おれのヴィジョンもそこから来るんだよ」
「わからない」
矢嶋は炭酸水をひとくち。「そうだろうな。頭おかしいと思ってるだろ?」
「うん」
「時代が時代なら魔女狩りに遭っただろうな。でも、ほんとうのことだ」
ヂュー、ヅヴヅヴヅヴヅヴ……ぼくはメロンソーダのストローを吸った。もしかして、このあと変な宗教に勧誘されるんじゃないか? やばいぞ。話をどうにか常識的な方向へ持っていきたい。
「仮に、そのフィールドってもんがあるとして、おまえがそことやりとりできるとしてだ。なんで、おれを前の席にすんの。そんな芸当できんなら、もっとデカいことすりゃいいじゃん。宝くじを当てるとか」
「それは、おれが初級者 だから。いきなりシャコーンヌは弾けない。まずはつまんないセリングからだ」
「そのヴィジョンて、最近みえるようになったわけ?」
「たぶん、初めから。昔は持て余してた。それがなんなのかもわからなかったし。このごろは自覚的になって、ある程度コントロール可能になったってことだよ」
ぼくは困って黙りこむ。矢嶋はやおら歯列矯正器を見せた。
「おまえはおれがオゥダァしたんだぞ。あれは十二月の八日だったろ」
「なんのこと?」
「放課後に、あのトラボルタっぽい二人組にインネンつけられた。顔が生意気だ、ってよくわかんない理由だったな。それで、カネだせ、っていわれた。メンドくさいし、カネですむならカンタンだと思った。でも、忘れてたんだけど、ちょうど円 が切れてて、弗 しかなかったんだ。あいつら、よけい怒った。もみあいになって、あとは一方的にボコボコ。おれはフィールドに願った。おれを救うヒーローをよこせ、って。
そしたら、おまえがすぐそこにいた。こいつのおじいさんが危篤なんですぅ~、とかワケわかんないこと口走るから、おれは噴きださないようにすんのがチョー大変だった」矢嶋は肩を揺らしはじめる。すぐ大笑いになった。明るい声。「おれはおかしいけど、おまえはもっとおかしい。変だ。むちゃくちゃ、変。だいたい、なんだよ、あのヤジサンとキタサンて? 人物の紹介ばっかりで、ストォリィがないし、ぜんっぜん意味不明。なのに、なんとなく成立しちゃってるし。なんなんだよ、おまえ。マジで頭おかしいだろ」
「あゞ、誰が頭おかしいって」
ぼくを指差す矢嶋。全開の笑顔。「You're crazy!!」
「あゞん?」
クレイジー! って叫んでキャッチャーミットみたいな手でテーブルをブッ叩く矢嶋。破壊的な勢いで、ばんっばんっばんっばんっ! グラスの炭酸水が不穏に波立つ。おいおいおいおい。そんなぼくの途惑い気味の面相が余計におかしいのか、矢嶋は額を押さえて、とうとうソファーに横ざまに倒れこむ。クレイジー! を連発して爆笑しつづける。背泳ぎみたく交互に上下する長ぁーい二本足。豪快な抱腹絶倒。こいつ、頭のタガでも、はずれちゃったのか? ぼくは少々、まわりの目が気になった。なんなの、あの人たち? って非難がましい視線がチクチク。
でも、なんだかよくわからないが、矢嶋はむちゃくちゃ楽しそう。ぼくはため息をつく。
ま、いっか。
♂
笑いなよベートーヴェンくんf孔のうちは意外と明るいもんだ
♂
「矢嶋くぅん、なに読んでるの」
窓際最後尾の机に、竹宮が手をついて腰をひねる。そのブレザーは直してあるんだろうか、ウエストがぴったりと締まって腰の花奢さを強調していた。おまけに校則違反の赤いリボンタイ。竹宮は外見が売りなので、ファッションにも手は抜かないのだろう。いつもの教室。弱ったな、って顔つきの矢嶋。やつはDean R. Koontzのペーパーバックを伏せて、その表紙を人差指で叩く。ふーん、と竹宮はいった。
準最後尾の席、秋晴れの窓をぼくは背凭れにしていた。教室中央で、とりまき連中を従えた河合が睨みを利かせる。ピュアな憎悪。竹宮は終わったと思ってるのかもしれない。でも、河合がそう思ってないのは確実だ。
竹宮は歯科医のパパがいかに優秀でいかに寛大かって話をしてる。姫はこのリッチなマッチョメンがお気に召したようだ。昼休みじゅうまとわりついては、甘えた声をだした。しまいには自分ちの歯科クリニックに勧誘までする始末。矢嶋が目的なのか、勧誘が目的なのか。矢嶋がぼくに助けてほしそうな目をした。二年C組のシバケンとちがって、矢嶋はそこまで女慣れしてない。ぼくもだけど。ぼくは意を決して学校一の美少女に声をかける。
「なあ、なあ。チョーこわい顔の人がこっち見てんだけど、大丈夫?」
「もうカンケーないもん。わたし、矢嶋くんと話してんの。オタウラは邪魔しないでくんない?」
河合のほうも見ずに、竹宮はいった。気づいてはいたようだ。ぼくは鼻を皺にした。
「オタウラいうな。おまえ、人によって態度かえすぎだろ」
「人によって態度かわるなんてあたりまえじゃん。何よ、オタウラの分際で」
竹宮はふっくらした唇をゆがめた。どれだけ造作の美しい顔も、蔑みの色を浮かべるときは酷く醜い。竹宮はぼくのことを異性だとは見ていないんだろうな。まあ、こういう反応ってもう慣れっこだけどね。ぼくは歌うようにいってやる。小学生の悪ガキみたいに。
「この性格ドブスぅ~。もう顔にまででちゃってんぞぉ~。厚化粧じゃ隠しきれねえぞぉ~。残念、無念、また来週ぅ~」
竹宮は眦 を吊りあげる。「なんですってぇ!?」
「怒んなよ。よけい不ッ細工になるだろうが」
ぶわっと淡牡丹色 になる竹宮。「あんた、よくもわたしを……!」
いきなりはじける声。矢嶋が笑ってる。この秋の窓辺のように明るい低音で。キラッと銀色の歯列矯正器が光った。やけに犬歯が尖ってる。二人して見つめていると、笑みをひっこめてしまう矢嶋。竹宮はポーッとした顔つき。そういう表情してりゃかわいいのにな。ぼくの注視に気づき、再び目を三角にする竹宮。んもう、やめろって忠告してんのに。
「じろじろ見ないでよ。まじキモいし」
「残念。矢嶋と友達んなると、もれなくおれもついてくるからな。夜露死苦ぅ」
ぼくは歯科検診A判定の歯を見せてサムズアップ。竹宮は悪寒を感じたかにブレザーの腕をさすった。
「矢嶋くんっ。ハッキリいったほうがいいよ、友達づらされると迷惑だって」
竹宮は学年一のマッチョメンに迫った。矢嶋は困ったように学校一の美少女とクラス一のつまはじき者のぼくとを見くらべた。ぼくは否定的な言葉を予想して気を張った。これ以上、こころに深手は負いたくない。
「He is my buddy.」
ぼくはびっくりした。なぜ英語? 矢嶋はそっぽを向いた。ちょびっと、ちょびっとだけ、うれしかった。ぽかんとしていた竹宮は、ぼくに対して目を吊りあげた。
「あんた、おぼえてなさいよ。わたしをブジョクしたこと、必ず後悔させてやるから」
「おぼえといたげるよ。まあ、そうなるまでに忘れてなかったらね」
ぼくは片手をひらひら振ってやる。きゅっと唇を嚙んで、耳たぶまで真っ赤になる竹宮。やつはスレンダーな背中を向けて二年F組を飛びだしてった。
矢嶋はおかしそうだった。「よくいうよ。おまえだってヘレンのまえじゃ超いい子ぶるくせに」
♂
ある街にヤジさんとキタさんがいて、まあ、幸せに暮らしていたさ
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