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二十哩(明日があると思うなよ)

 Tinker Bell, Tinker Bell, jingle all the way……。      ♂  十八世紀の完成された小さな音楽を、ぼくは奏でだす。矢嶋邸のスタインウェイに向かって。J.S.バッハの鍵盤楽器のためのプレリュードとフーガのミルフィーユみたいな作品集――《平均律クラヴィーア曲集》って題名をあんたがきいたことなくても、この第一巻第一番のプレリュードはきっと知ってる。ハ長調、シャープやフラットのない真っさらな調。四分の四拍子で白鍵をやわらかに押す。  ピアノの下からハミだしたサー公の尾っぽは動かない。眠ってるのかもしれなかった。その飼い主はソファーに姿勢よくいた。矢嶋はめずらしくタバコをとりださない。好きに弾けといったきり、宙の一点を見つめてる。心ここにあらず。何があったのか、ぼくは問いたださなかった。矢嶋は必要と思えば勝手に話す。そうじゃなきゃ梃子(てこ)でも滑車でも口をひらかない。そういうやつだ。  ぼくは指を正確に運んで三分にたりない曲を終えた。余韻のための間をとってから、矢嶋に声をかける。 「まだ勝手に弾く? それともリクエストきこっか」 「話がある」  ぼくはソファーへ行こうとした。そこでいい、と矢嶋は制した。ぼくは椅子のうえに片足をひきあげた。  話はなかなか切りだされなかった。矢嶋はタバコを喫うふうに指先を唇に当てる。ぼくは真似してやった。矢嶋は無意識のそれを自覚して顔をしかめた。 「禁煙中か?」 「サーの体に障る」 「そんなに悪いの?」 「中皮ってところに腫瘍ができてるらしい」 「(ガン)ってこと?」 「そう、悪性。ついでにステイジ(フォー)。浸潤と転移がひどくて、オペじゃ取りきれないって医者にいわれた。もっても三ヶ月、へたすると数日以内に突然死するかもしれないそうだ」  ぼくはピアノの下を覗きこむ。彫刻入りのどっしりした足の陰で、四歳になるシベリアンハスキーは暑いときのように舌を垂らして息をしていた。もしかして痛むのだろうか。 「頼みがあるんだ」  矢嶋がいった。ぼくは何故か焦ってピアノの角で頭を打った。 「痛っ」  矢嶋は小さく笑った。「ドジ」 「うっせえ」 「The Music of the Spheres.」 「え?」 「天球の音楽。それがきこえるんだそうだ、人が死に臨んだときに。肉体が瀕死の状態になると、脳が音楽をきかせるんだって説を唱えた学者がいた。脳が最期の瞬間の苦痛を減らすために幻聴をきかせるんだよ。イヌも同じかな?」  話が見えず、ぼくは黙ってた。 「心臓手術の補助治療として、パッケボゥ《カノン》のハㇽプ演奏を流すことがある。ハㇽプの振動周波数は、不整脈を整えるのに有効だそうだ。健康な心拍リズムは、クラシックミューズィックのリズムに似てる。未熟児の心拍数を正常に戻して、脳卒中や脳損傷患者の言語機能を回復させる。植物状態の患者は、あらゆるものに無反応でも、音楽だけには反応する。人体の、音楽と痛みを感じる神経は同じなんだ。出産や歯の治療のとき、音楽で痛みをやわらげようとする医者は多くいる。ガンの症状やガン治療の副作用を抑制することにも音楽は使われる。ただ、音楽ならなんでもいいわけじゃない。ヘヴィメタル、パンク、ヒップホップミュージィシャンの寿命は総じて短い。逆にクラシックミュージィシャンで九十歳を超える人間はめずらしくない」 「ええっと、つまり……」 「つまり、おれたちは天球の音楽を必要としていて、それはモルフィンくらい強い薬になるってこと」矢嶋は、ふうっと息をついた。「これから、そいつのために弾いてやってくれないか。そいつが目をあけなくなるまで、できるだけ毎日。もちろん礼はする」  犬のためにピアノを弾く? 矢嶋の真顔とサー公の尾っぽ。サー公のことは好きだ。このあいだ、地下階段でぼくを慰めようとしてくれた。ピアノはどうせ弾きにくる。矢嶋のいうとおりにしてもよかったけど、ぼくは天邪鬼な返事をする。 「おれのへたくそなピアノより、おまえがヴァイオリン弾いてやれば?」  矢嶋は苦笑。「そいつ、ヴァイオリンきらいなんだよ。おれが弾くと、いつもピアノの下に逃げこむ。そのくせ、こうしてここについてくるんだ。ピアーノがきけるかもしれないと思って。おれがピアーノ弾いてもいいけど、おまえのほうがずっと向いてる」 「そうかな」 「おまえ、欲しいものはないか」  ぼくは考えた。新しい炊飯器・新しい冷蔵庫・新しい掃除機……でも、そんなもんを矢嶋に頼むのは筋ちがいな気がする。 「とくにない」 「ほんとうに?」  ぼくはもういっぺん考えた。もっと安くて手軽なもの……。矢嶋がいらいらしてるのがわかる。待たせるのは厳禁だ。ぼくは膝を打つ。 「わかった。仕事はする。欲しいもんは思いついたら頼むかもしれない。それでいいよな」  矢嶋は何故か不服そう。「おまえは自分の欲しいものもわからないのか」 「そんな急にいわれたってでてこねえよ。いいだろ、やるこたキチンとやるんだから」  ぼくは鍵盤を睨んだ。天球の音楽って、どんなもんだろう? 美しくて清らかで整った音楽だろうか。  ぼくは突飛なリズムで打鍵する。最初からストレッタが始まる第十九番のフーガ。《平均律クラヴィーア曲集》第一巻のなかじゃ一番好きだ。おおらかなイ長調、八分の九拍子の風変わりな遁走曲は、人なつこい犬が跳ねまわってるイメージ。  ぼくはピアノの下の命の期限を思った。      ♂  グラスシェードの明かりが夢みたいにきれい。玄関ポーチで矢嶋は白封筒を差しだした。ぼくはめんくらった。 「おまえの礼ってそれ?」 「たいした額じゃない。二時間半で千(イェン)。時給に直せば最低賃金以下だぞ」 「おれ、そういうつもりで弾いたわけじゃない。カネなんかもらわなくたって……」 「おまえはカネが悪いものだと思ってる? カネを欲しがるのは意地汚い?」  矢嶋は真顔できいた。ぼくは返答に詰まる。 「カネ持ちは悪党か?」 「そうじゃないけど……」 「カネはただの道具(ツール)だ。それ自体は善でも悪でもない。おまえは依頼されて誠実に働いた。おまえは報酬をもらう。何か問題か」  ぼくはどうしても抵抗があった。矢嶋は笑う。 「これがチョッコレイトだったら、おまえは素直に受けとるんだろ。どうしてカネじゃいけないんだ。これなら、なんでもすきなものが買えるのに」  ぼくは、ただうつむいた。こいつにいっても、わかりっこない。  矢嶋は手をとってカネを握らせた。持つ者から持たざる者へ。封筒の(けが)れなき白。 「まあ、固く考えるな。ちょっとしたアルバイトだと思えばいい」  矢嶋は庭へ歩きだす。飛石を踏んで表門まで。そこまでは、こいつは見送ってくれる。ぼくはそのホワイトデニムの裾ばかり見ていた。槍立てのような鉄扉が悲鳴をあげる。ぼくは無言で庭をでた。 「あしたも来いよな」  矢嶋はいった。ぼくは曖昧に首を振った。鉄扉がまた悲鳴をあげた。  ぼくは封筒をスクールズボンのポケットにつっこんで、暗い家路を急いだ。西へ。      ♂ 家々の夕餉(ゆうげ)のにおい嗅ぎ分けて犬らは犬の影を引き摺る      ♂  菊池が欠席して一週間。やつの机はあるじを失って、不自然に斜めになったままだ。朝の学活後、ぼくは教室を横切って、担任の香西博文に尋ねる。 「菊池雪央、ずっと休んでますけど、インフルエンザじゃないですよね」  廊下への戸口で小ウザイは面倒そうに生徒名簿をまくった。 「体調不良ということだが、欠席届はもらってない。ただの風邪だろう」  冷たい口調。腹が立った。 「ただの風邪でそんなに寝こみますかね」 「何がいいたい」  小ウザイのバリトンが凄みをおびた。返答しだいじゃただじゃおかない、って目をしてた。こいつと喧嘩しても得るものなどない。ぼくは必要なことだけきく。 「菊池のプリントとか、誰が運んでんですか」 「萩山だ」  ぼくはきびすを返した。窓際の席で萩山は工藤斗南とだべってた。ぼくはいう。 「萩山。話があんだけど」  工藤はぼくをちらちら見たけど、萩山はセガサターンのクソゲーのことをしゃべりつづけた。ぼくは萩山の襟首をつかんだ。怒りに任せて前後に揺する。 「話あるっつってんだよっ。てめえの耳に鉛筆つっこんで掃除してやろうか!」  自分でも驚く大声に、凍りつく朝の教室。萩山のレーズンみたいな目に涙。ほんとうは気が弱いんだ。工藤がおろおろという。 「ハゲやん、耳クソつまってただけだよな。悪気があったんじゃないよな。な?」  萩山はただガクガクうなずいた。      ♂  法泉(ほうせん)はありきたりな中級住宅地だった。菊地んちは一丁目。電柱の住所表示と家いえの表札をたしかめつつ歩くと、すぐ見つかった。  ガラス製の表札に一家の名前。低い白い塀、越屋根の二階家と、おまけみたいな小さな庭。アクリル屋根のカーポートに車はない、カヴァーをかぶった自転車が二台。門先のヴィオラの鉢はよく手いれされていた。菊池の母親がしているのだろうか。ぼくは深呼吸してから、インターホンの呼鈴を押した。電子のベル。 「何してんの」  幼い声。油断しきっていたぼくは、変にびびってしまった。提げたビニール袋が大げさに鳴る。花屋で買った鉢植え、キク科の可憐な白い花だ。ぼくのみぞおちほどの背丈の男児、群青色のランドセル・紺のスタジャン・カーキの半ズボン。ほっそりと瘦せていたけれど、健康そうに赤い頬が菊池にそっくりだ。ぼくは胸を撫でおろす。 「菊池弟だろ?」 「あっ、ねえちゃんの元カレ?」  声でわかったんだろう。そいつはうれしそうに指差してきた。 「ちげえ。別れる以前につきあってもねえし」  姉に似た焦色の目が笑った。「フクエンをせまりにきたんじゃないの?」 「復縁を迫る、の意味わかって使ってんのか。いままでプリント類運んでたやつの都合が悪くなったから、こんどからおれが来ることになったんだ。その挨拶ついでに見舞いにきたの。菊池、ほんとうに具合悪いの?」 「オレも菊池だしぃ」  オレは、にアクセントのあるイントネーションだった。ぼくは苦笑する。 「はいはい」  南向きのリビングダイニングは、ぼくんちと同じくらいの広さだった。南の窓辺に布張りのソファーセット、ドア寄りにクルミ材のダイニングテーブル。ぼくはテーブルの席について、クリアファイルをまっすぐに置いた。学校のプリント類だ。鉢植えのビニール袋も。壁際の大きな水槽に、いつかぼくが掬った黒出目金たち。でも、水槽の主役はきらきらと群泳するネオンテトラだ。不ぞろいな金魚たちは肩身が狭そう。  菊池のお母さんは小柄な人だった。薄柑子色(うすこうじいろ)のセーターに褪せたジーンズ。薄化粧の頬っぺたがふくよかで、すごくやさしそうだ。あと三十年もすると菊池はこうなるのかな。お母さんはぼくの前にティーカップを置いた。レモンの輪の浮いた紅茶。ぼくはお礼をいった。お母さんも席についた。 「ごめんなさいね。北浦くん、寒いなか来てくれたのに。雪ちゃんたら、会えないの! って、そればっかりで」 「雪央さん、病気じゃないんですね?」 「元気よ。元気なんだけど……急にふさぎこんだり、いらいらしたりして、わたしやミツに当たるの。女の子だけど、反抗期なのかしらね? 学校なんかどうでもいいから、受けいれてやれ、ってお父さんはいうけど、無責任に思えちゃって……あの人は仕事に逃げればいいものね。近ごろ、不登校の子って増えてるでしょう。ニュースでも特集があったり。不登校になって、そのまま十年も部屋にひきこもってるなんて話をきくと、こわくなってしまって。だからって毎日、学校にひきずって行くわけにもいかないものね。あの子の気持ちを無視しても、なんの解決にもならないし。きっと、クラスか部活で何かあったんだろうけど、あの子、何も話そうとしないのよ。正直、どうしていいのかわからないの」  お母さんも途方に暮れているようだった。ぼくは紅茶をすすって、息をついた。 「右近中って環境が良いとはいえませんから。いじめみたいなことも珍しくないですし。ぼく自身、いやな思いをしました。そういうとき、雪央さんが手紙で励ましてくれて」 「そうだったの」 「だから、できれば、あの子の力になりたい。でも、雪央さんは迷惑なんじゃないかって思うと……どうしたらいいんでしょう、ぼく」  レモンの果肉の窓が紅茶に透きとおる。お母さんは両手をテーブルに置く。左薬指に食いこむプラチナリング、細かな傷で曇ってる。 「いまごろ、北浦どうしてるかなあって、あの子、ときどきいうの。あなたをきらいになったわけではないと思う」  ぼくは顔をあげた。あの子は、ぼくを気にかけてるんだ。うれしかった。 「北浦くんにはとても申しわけないけど、このまま火曜と金曜の配達、お願いできないかな。あの子、学校のみんなに置いていかれちゃうって焦りがあるみたいなの。あなたが働きかけてくれたら、雪ちゃんの気も変わるかもしれない」  ぼくは深くうなずいた。テーブルの下で左の拳を右手で握りしめた。      ♂ 海色のランドセルからにおいたつ先々週のパンの半分      ♂  12月5日(火)  菊池雪央さんへ  このノートは新桜ヶ丘のローソンで買いました。「こげぱん」のやつと迷ったけど、こっちの「たれぱんだ」にしました。おれは「たれぱんだ」がけっこう好きです。癒し系で。 まえに菊池が手紙くれたとき、すげえうれしかった。だから、おれもこうして字を書くことにしました。面と向かっていえないことも、文章ならいいやすいんじゃないかなって。 菊池としゃべれなくてさみしい。でも、菊池にとっては、学校に行きたくない、おれに会いたくない理由があるんだろう。おれも学校行きたくないとか、誰にも会いたくないとか、たまに思ったりする。もし菊地のプレッシャーになるようなら、おれはただの配達係に徹するつもりです。  字がへたくそでごめん。  北浦竜也より      ♂  12月7日(木)  北浦へ  キレイなお花をありがとう。  毎日、霧吹きで水をあげています。  菊池より      ♂  という言葉は竹宮の辞書には未収録なのかもしれない。深草(ふかくさの)少将の一途さで二年F組の窓辺にかよいつめた。どうしてもウチの威喝い小野小町をふりむかせたいらしい。竹宮は机に腕を乗せ、艶然と頬笑む。 「ねえ、矢嶋くん。ロングヘアとショートヘアなら、どっちがすき?」 「どっちでもいい、その人に似あってれば」  矢嶋はペーパーバックを注視したきり。アウトオブ眼中って感じ。それがちやほやされてきた竹宮は新鮮なのか、かえって目をきらきらさせた。姫はきれいな黒髪をさわる。 「わたしはどっちが似あうと思う?」  矢嶋は目線をあげる。「おれがショォトがいいっていったら、おまえ髪きるの?」 「うん」 「それで、やっぱり似あわない、ロォングがいいっていったら、どうすんの」 「しばらくはウイッグつけて、がんばって伸ばす」 「それで、おれがショォトがいいってまたいいだしたら?」  竹宮は難しい顔で黙った。矢嶋は出来の悪い妹を諭すようにいう。 「いいなりじゃ、つまらないな。何が似あうか自分で研究して、自分のスタイルを貫く人のほうが、かっこいい」  竹宮は矢嶋をじっと見つめた。矢嶋は読書に戻った。前の席で、ぼくは微笑した。矢嶋の態度が小気味よかったんだ。 「あー、くせえ、くせえ。チーズくせえなぁ」  がさつな声。教室中央の席で河合は、音羽カンナ以下四人組に囲まれていた。河合は矢嶋を見やる。 「あっちのほうから臭うなぁ。これだからガイジンはイヤなんだよなぁ」 「まじ公害レベルだよね。でてってほしいし」  音羽がお追従の声をあげた。矢嶋は腹を立てるよりも、驚いたふうだ。ぼくは腐ったチーズを嗅がされたように不愉快になった。 「あー、くさい、くさい。デオドラントくさいな」  誰かがいった。山岸(やまぎし)希望(のぞみ)の席に集まった女子の一人、榊言美だ。榊は鼻を片手で扇いだ。 「音羽さんさ、まえからいおうと思ってたんだ、8×4(エイトフォー)つけすぎだから。そばにいて頭いたくなってくるの。それこそ香る害で香害っていいたくなるレベルだからね。気をつけて」  音羽はあっけにとられてた。返す言葉が浮かばないようだ。榊は続けた。 「河合くんも頭よくないよね。外国に行けば、きみも外人だよ。味噌と醤油のにおいプンプンさせてんだよ。そういう差別はぜんぶ自分に返ってくるんだからね。おぼえておきな」  河合は額に何本も横皺をつくった。「うるせえよ、このブスが」  ひどい、サイテー、と山岸たちが抗議の声をあげた。榊は冷静だった。 「まあ、美人と言い張る気はないけどね、わたしはわたしがすきだよ。ブスと思うのはご勝手ですけど、わざわざ口にだしていわれる筋合いないよ。見テクレだけでオンナ選んでるうちはガキの証拠だね。もっと大人にならないと、そのうちオンナのほうから愛想つかされちゃうよ。あ、もう一回はつかされたか」  竹宮のことをいってるんだろう。河合の顔面が赤くなった。 「うるせえ」 「河合くんのほうがうるさいから。大丈夫でちゅよ、叫ばなくてもきこえまちゅからね」  榊は余裕綽々だ。河合は黙ってしまった。榊は笑顔でこっちに手を振ってきた。矢嶋は恥ずかしそうに振りかえした。竹宮はムッとしてた。ぼくは虚しくなってきた。なんで矢嶋ばっかりモテモテなんだろう。こいつは敵も多いが、味方も多いんだった。人徳の差?  ぼくはちょっぴりいじけて、矢嶋が竹宮のことでSOSをだしても、三回に一回は無視してやった。      ♂  薄曇りの火曜日、北校舎体育館でのバレーボールを終え、二年E組&F組の男子たちが廊下にあふれた。冬でもクサいそのジャージ集団にまぎれて、ぼくと矢嶋はちんたらと進んだ。南校舎方面へ。いつもの教室は同じ階の廊下を曲がったすぐ先だ。  そこの中央階段踊り場から現れた坊主頭、XLのトレーナーのなかで泳いでるスリムな男は芝賢治。矢嶋とシバケンは凍った。ハブとマングースの睨みあい。このふたり、一時は仲よくなったかと思ったのに、天敵同士に戻ってしまった。矢嶋に富と才能の二物がそろってることが、シバケンはしんそこ気に食わなかったのかもしれない。今のところ小競りあいですんではいるものの、いつ大喧嘩に発展するかわからなかった。シバケンはせせら笑う。 「メリケぇン。きょうはダセえジャージかよ。そっちのほが似あってんじゃん」  矢嶋はぼくを見た。「バカはほっといて行くぞ、キターラ」  ぼくは遠慮がちにうなずいた。シバケンは余計にムカついたみたいだ。矢嶋の行く手を体で阻む。顔面と顔面の距離十センチ。 「おまえのイヌ、もうすぐ死ぬぞ」  矢嶋の顔色が変わった。シバケンは満足げに唇をゆがめて、ぼくらの横をすりぬけた。死にそうなやつがわかるんだ……っていったシバケンの声を思いだした。やつがサー公を見たときの怯えたような顔も。あの十月の時点でサー公は死にとりつかれていたのだろうか。ふりかえった矢嶋のこわい顔。 「おまえ、しゃべったろ」 「しゃべってない」 「じゃ、なんであいつが知ってんだ。おれのプライヴェイトだぞ。ふざけんな」  切りかえしに詰まる。シバケンは死期の近い者に黒い煙が見えるんだ……なんていったって噓くさくきこえるだろう。ぼくは突っぱねることにした。 「誰にもしゃべってない。あいつはサーに会ったとき、なんか気づいただけかもしんないじゃん。おれが何か教えたんだったら、もうすぐ死ぬだなんてわかりきったいいかたはしないだろ」  矢嶋は眉根を寄せた。痛みを感じたように。ぼくは唇を嚙んだ。死ぬのがわかりきってるなんて言葉、無神経だった。でも、いっぺん口にしたことは、もう取り消せない。  矢嶋は背を向けた。長い脚の大きなストロークで離れていく。ぼくは追いかけることができなかった。どうせ教室で会うんだけどさ。      ♂  ひさしぶりに(ひと)りの下校。矢嶋はぼくを完全無視のうえ、帰りの学活がすんだとたん行ってしまった。ぼくは紺のダッフルコートに両手を突っこんで、うつむき加減に歩く。陽が射してきたけど、寒い。視界にあの威喝い背中がないと妙にこころもとない。変なの。  正門まえに、やたら目を惹く背の高い女。ベージュの短いダッフルコート、紺ソックスのなンがいナマ脚はかっこいいけど寒そう。竹宮だ。誰を待ってるのか。ぼくが歩いていくと、竹宮がガン見してくる。なんだ? ぼくは素どおりした。コインローファーの踵をこつこつ鳴らして竹宮が迫る。 「待ちなさいよ、オタウラ」 「やだ。タウラじゃないもん」 「待たないと呪う」 「……」こわっ。 「話があんの。ちょっとつきあいなよ」 「話って、なんの」 「ついてくればわかるでしょ」  喉が渇いた。大塚食品の自販機に、ぼくは一五〇円を投入した。ポカリスエットのボタンを押す。足もとで硬い衝突音。竹宮がいう。 「ねえ、しゃべってあげてるんだから、なんかおごんなさいよ」 「そんなエラそうに奢られるやつ、初めて見たぞ」ぼくは追加の一二〇円を投入口へ。「どれがいいの」 「コンポタ」  取出口でさっきより軽い音。ぼくはしゃがみこんで冷たいペットボトルと火傷しそうなスチール缶を拾う。顔をしかめた。ぼくって手の皮が薄いんだ。痩せ我慢しながら缶を背の高い女子にわたす。それを竹宮は礼もいわずにあけて両手で包んで飲みはじめる。木の実を頬ばるシマリスみたいなキュートさ。こいつの本性を知っててもキュンとしてしまった。不覚。  ぼくらは住宅地の底に来た。矢嶋のテリトリーの亭があるところじゃなくて、もっと広い児童公園。薄着の小学生たちがランドセルを放りだしてブランコ上でゲームボーイをやってた。家でやりゃいいのに。  ぼくと竹宮は隣りあった二つのベンチに分かれて座った。竹宮はコンポタを飲まずに缶を両手でつつんでいた。モニク・アースの弾くドビュッシー《前奏曲集》第二巻を片耳でききつつ、ぼくはポカリの栓をひねった。 「で、話って?」 「矢嶋くん、わたしのことなんていってる?」 「何も」 「ほんとにぃ?」  信じらんないって顔の竹宮。ぼくはポカリをひとくち。甘い。 「ほんとに何も」 「ねえ、今度さりげなく矢嶋くんにきいてよ、わたしのことどう思ってるか」 「なんでそんなことしなきゃなんねえの。おれ、おまえの友達じゃないぞ」  竹宮は不服そうだったが、すぐ自信たっぷりの笑顔を立てなおした。 「ねえ、オタウラはすきな子いないの?」  ぼくは警戒した。「何、急に」 「もしすきな子がいるなら、わたしがその子とのあいだ取り持ってあげてもいいよ」 「その代わり、矢嶋との仲を取り持てと?」 「そういうこと」  竹宮は艶然と頬笑んだ。四曲目《妖精たちはあでやかな舞姫》。ぼくは苦笑を返した。 「おまえじゃ無理だ」 「ふーん、すきな子はいるんだ?」 「いますよ、悪いですか」  竹宮は疑り深い目。「それって、もしかして……矢嶋くん、だったりする?」 「はぁっ⁉︎」ぼくは全力で手を振った。「それだけは、ないっ。あいつが地球上最後の人類でも、ありえない。だったら、まだ、あいつの飼ってる、かっこいいシベリアンハスキーのほうが断然いい。ていうか、どこをどうひっくり返したら、そういう薄気味悪い発想がでてくるんだよ。意味わかんねえ」 「なぁんだ、よかった」竹宮の声は安堵で高くなった。「じゃ、オタウラのすきな子って誰」 「べつに誰でもいいじゃん」 「わたしのすきな人はバレてるのに、自分はいわないの。ずるくない?」 「ずるくないです」 「わたしも知ってる子? 取り持てないかどうか、やってみなきゃわかんないじゃん」  この女がぼくと菊池のことをどうにかできるとは思えなかった。でも、竹宮朋代は使いようによっては、いい手駒かもしれない。矢嶋を売るのは気が進まなかったが、まあ矢嶋本人が嫌がれば竹宮が足掻いてもどうにもならないはず。ぼくは膝を叩いた。 「よし、乗った」  竹宮はコンポタの缶を突きだした。ぼくはペットボトルをぶつけた。乾杯。やつははしゃいだ声。 「で、誰。そんなにかわいい子なの?」  ぼくはかさついた唇を舐めて、竹宮のきれいなアーモンドアイを覗きこんだ。 「取り持ってくれなくていいんだ。おまえの知ってることを教えてほしい」  竹宮は雰囲気を察して、真面目な表情でうなずいた。 「おまえ、夏まで河合省磨とつきあってたろ」  竹宮の眉間に浅い皺。「それが?」 「そのとき、河合が菊池雪央のこと何かいってなかった。どんなことでもいいんだけど」 「えぇっ、あんたのすきな子ってユキオトコなの。あんなチビでデブで短足な子のどこがいいの。それこそ意味わかんない。顔だってたいしてかわいくないし」  やっぱ、こいつ性格ドブスかも。ぼくは自分の肩を抱いて悶えた。 「テディベアみたいで、かわいいじゃん。もこもこの小熊ちゃんって感じ。抱き心地とか、めっちゃよさそうじゃない?」  竹宮が目を真ん丸くしている。ハッとした。 「……あっ、抱き心地って、べつに変な意味じゃ、なくて、ね」 「……う、うん。わかってるけど」  雰囲気がぎこちなくなってしまった。ぼくは話を戻す。 「で、菊池のこと、河合は……」 「ショーはたいしたこといってないよ。ユキオのことはデブとかブスとか馬鹿にしてたけど、基本的には無関心だったし。わたしも興味なかったし、よくおぼえてない」 「おまえ、菊池とはどういう知りあいなの」 「小学校でクラスが一緒だっただけ。あの子、わたしのことすきじゃないと思う」 「小学校のころの菊池って、どんなだった」 「あの子、男子とばっかりしゃべってるから、男ずきとか陰口たたかれたりしてたな。なんか女子からは浮いちゃってる感じだった。男女バランスよくつきあえばいいのに」  昔から菊池は菊池だったのだなと思った。ぼくはポカリで喉を潤して、冬枯れの枝ごしの空を見た。黒と青。 「春までは、菊池はやっぱり野郎とばっかり口きいてたよ。でも、梅雨あたりから音羽カンナたちとつるむようになってさ。音羽たちといても、菊池はぜんぜん楽しそうじゃなかった。なんでだろうって、ずっと思ってて。そのうち、菊池は学校こなくなっちゃった。河合のなんかが関係あるのかって考えたけど、そういうわけじゃないのかな」 「それは女同士の問題じゃないの。まあ、でも、ショーがカンナたちになんか吹きこんだって線も、ないとはいいきれないかもね」  竹宮はもうぬるいだろう缶ポタを飲んだ。その手脚が震えてる。ぼくも寒かった。東の風がさらに体温を奪う。 「ショーってね、いつでも退屈してんの。わたしといるときもね、つまんねえ、つまんねえ、っていうの。まるでわたしのせいだっていわんばかりにね。あいつってほんとうに自分のことしか考えられないから、何やってても空しいんだと思うよ。  あいつ、妹がいるんだけどね、蝶子って変わった名前で、雙葉(ふたば)に行ってるような頭いい子らしいの。ショーは親や親戚から比べられていやだったのかもね。その蝶子ちゃんに、わたしは一度だけ会ったのね。ショーんちのマンションで。たしかに賢そうな顔はしてたけど暗くて、モテる感じには見えなかった。ショーったら、わざと見せつけるようなことするの。肩だいてきたり、耳にキスしたり。普段はそんなことしないのにね。蝶子ちゃん、やきもきしちゃってた。  そのうちにショーが、屋上へ行こうっていいだしたの。港の花火大会があるんだ、っていって。そのときは知らなかったけど、蝶子ちゃん高所恐怖症だったみたい。あの子、何かむきになってたのかな? そんなそぶり全然みせないでついてきたの。  風が強かったんだ。わたしたちが外でたら、ドアがすごい勢いでしまって、それでラッチが壊れたらしいの。全然あかなくなっちゃった。いま思えば、ショーはわざと手ぇ離したんじゃないかな。蝶子ちゃん、パニックになってた。わたしもパニックになりそうだったよ。隣の棟に飛び移ればいい、ってショーはいった。ショーんちのマンションって、棟と棟がすごく密着して建ってるから、できなくもなさそうだった。でも、十四階建てだよ? 落ちたら助からないよね。  ショーは平気でむこうへ跳んで、わたしと蝶子ちゃんを呼ぶのね。わたしはこわいからいやだった。蝶子ちゃんはへりまで行ったけど、もう限界だったみたいで、しゃがんで泣きだしちゃった。それをショーはすごくおかしいことみたいに笑いながら、わたしに真似してみせるんだよね。ショーはそのままそっちのドアからひっこんじゃった。  わたし、蝶子ちゃんなだめながら、しばらく待ってたけど、助けは来なかった。だんだん暗くなってきて、でも、花火大会なんかなかった。ウソだったの。わたし、屋上から叫んで、下の階の人に通報してもらった。それでレスキュー隊が来て、ドアを壊してくれて、やっと中に戻れたんだ。蝶子ちゃんは脱水症状で病院いったよ。  わたし、もちろんショーに怒った。なんですぐに助けを呼んでくれなかったの、って。ショーはいったよ。あんなの簡単に飛び移れただろ、レスキュー呼ぶなんて税金がもったいなかったな、って。信じらんなかった。  そういうことは、その一回きりじゃなかった。あいつってそういうやつなんだ」  最低野郎っていいたかったけど、そんな言葉じゃたりないからいわなかった。ぼくの表情を読んで、竹宮は続ける。 「そうだ、思いだした。スキー教室のとき、ショーがユキオにいってたよ。ユキオトコ、おっぱいデカくなってきたよな、揉んでやったらホルスタインくらいになんじゃねえの、ってニヤニヤしながら。あの子、泣きそうな顔してた」  ぼくは胸が悪くなった。握りしめたペットボトルが軋んだ。竹宮はぼくの手を見つめる。 「まがりなりにも彼女のまえで、そういうこといえる神経ってわかんない。あいつってやっぱり何か欠けてるんだと思うよ。わたしがたった一つショーに感謝してることは、ショーみたいな人間に二度と捕まるもんかって腹から思えたこと。それだけだよ」      ♂ 瑠璃色の羽根を(むし)った指先で見えない海の方角を差す      ♂  12月12日(火)  菊池へ  あれはハナカンザシといって、キク科の一年草です。英語ではPaper daisy。花びらが紙みたいにカサカサと音がしそうだからだって。花言葉は「思いやり」「明るい性格」。菊地に似あうかなって思った。水は土が乾いたらあげてください。ハナカンザシは寒さや乾燥には強いけど、高温多湿には弱いので。  北浦より      ♂  翌水曜日は暗い曇天。陽の射さない教室の窓辺は寒いだけ。毛玉っぽいダッフルコートを膝掛にしてしのぐ。たいてい朝はぼくのほうが早い。囲碁の先手の石のように、後手の矢嶋を待ってた。きのうの失言については謝るべきだろう。でも、それでやっぱりサー公のことシバケンに漏らしたんだって誤解されたら、嫌だな。あいつ、ぼくの説明、ちゃんときくかな。そわそわしながら左手首の時計と教室後方の戸口を見くらべた。  始業五分まえ、紺のチェスターコートの矢嶋が現れた。ぼくは椅子のうえで体の向きを変えた。片手をあげて挨拶する。あいつはブリーフケースを机に置く。 「きのう、なんで来なかった」  抑えた怒りの気配。用意してたセリフが、ふっ飛んでしまった。ぼくは首をすくめた。 「おまえが怒るから、行きづらかったんだよ。菊池んちにも用があったし……」 「サーにはもう時間がないんだぞ。あいつには一日だって貴重なんだ。あいつが苦しいのを、おまえは知ってるはずだろ。ずいぶん無責任じゃないか」  一方的に責めるいいかた。たまりに溜まった堪忍袋の緒が切れた。ぼくは大きく息を吸いこんだ。 「おまえは勝手だよ。サーのことはすきだけど、所詮よそんちの犬だ。そこまで責任おわなきゃいけない? おれだって放課後はすきなことしたい。家事も用事もこなさなきゃならない。それでも我慢して頑張ってきたんだよ。友達の頼みだと思ったから。一日やすんだくらいで、そこまでいう? おまえはそれでフェアになると思ってるみたいだけど、カネなんかもらっても負担なだけだ。おまえのカネ、一銭も使ってない。なんなら、ぜんぶ返そうか?」  矢嶋の頬が紅潮した。「返さなくていい。おまえのもんだ。使おうが使うまいがおまえの自由だ。けどな、一度は仕事を受けたんだろ。最後までやりとおせよ」  矢嶋と睨みあった。鋼色(スチールグレー)の目の強い光。 「サーはおまえを待ってたぞ。ずっとドアのまえにしゃがんで」  ぼくは視線をロッカーのほうへ逃した。「きょうは行くよ」  席につけよー、と小ウザイが教壇で声を張った。矢嶋は椅子をひいた。ぼくは前の席の成瀬璃沙の長い細かいおさげを眺めて、小ウザイのバリトンの抑揚をきいていた。  きのう、竹宮に矢嶋のことをいくつか教えた。たいしたことじゃない。べつに裏切りってほど大げさなもんじゃないと思った。  でも、矢嶋がそれを知ったら、ぼくはあの地下室からしめだされるのかもしれなかった。      ♂ 永久歯そろえて笑うぼくだからティンクのいのち笑いとばすさ

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