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二十一哩(合法ライラック)

 ライラックの花を見たことがない。      ♂  日差しは暖かながら風は真冬のそれだ。冬休み二日まえの木曜、ぼくは紺のダッフルコートを脱がなかった。北校舎の理科室から矢嶋健を追って北・南校舎連絡路へ。五メートルの通路のなかば、やつが急に足を止めた。ぼくは追突し、はじきかえされよろめく。  南校舎側から芝賢治と、ツレの髙梨与一とミズノ。シバケンと髙梨がガンを飛ばす。ミズノは息をこらしてる。矢嶋の背中が緊張してた。ぼくはへらへらした声をだす。 「よお。芝、元気ぃ?」  シバケンは無視した。張りつめる空気。このままじゃ喧嘩勃発は必至だ。ぼくはとっさに緑の後ろ頭を全力で弩突(どつ)いた。つんのめる矢嶋。ヤンキー三人組がぎょっとした。  ふりかえった矢嶋の顔は赤鬼。恐ろしさと寒さで震えつつも、ぼくはへらへらと笑った。 「今週中ならグラコロバーガー三割引き。いっしょ行かねえ?」  Damn you! と矢嶋。ぼくの肩をプレス機なみの力で弩突きかえした。ぼくは紙細工みたくぽしゃった。散らばるペンと本。コンクリの冷たさと、遅れて来る痛み。矢嶋の緑の頭が南校舎へ隠れた。 「おい、だいじょおぶかよ」  シバケンが駆け寄って、手をひっぱった。ぼくは立って臀部(でんぶ)をさすった。 「ん。ちょっち痛いけど、大丈夫」  矢嶋の行方へシバケンは険悪な目を向けた。追いかけてくんじゃないかと思った。 「で、グラコロどうする。きょうかあしたの放課後いく?」  ぼくは早口にいった。シバケンは苦笑い。 「おれ、ビッグマックがいい。クーポンある?」 「あったと思う」 「よし。じゃ行くか」 「えっ、今?」 「腹へったんだよ。星川のマック行こーぜ。(ある)ってきゃ、ちょうど昼んなんべ」 「四時間目は?」 「どおせ学活だろ。行こーよ。おまえらは?」  シバケンはカップルを振りかえった。行くー、とミズノ。不ぞろいな前髪。気乗りしない感じの髙梨。手いれのしすぎで細い眉毛。ぼくは教科書類を下駄箱に突っこんだ。授業をサボってマクドナルドに行く。楽しそう。  ぼくらは四人てんでに正門をでる。東へ。去年の今ごろ、矢嶋に牽引されて走った道をちんたらと辿りなおす。右の足を繰りだし、左の足を繰りだす。右の足を繰りだし、左の足を繰りだす。冬のランドマークタワーは明確な輪郭で青空を支えていた。  ニット帽+ジャージ(プレイボーイ)の髙梨がいう。 「おい、キタウラタツヤぁ。おまえ、ドーテー君だべ?」 「だったら何」  ぼくは眉をひそめる。指差してくる髙梨。 「こんなかでドーテーなの、おまえだけだし。はい、仲間ハズレぇー」 「チョーうけるー。じゃっかん一名!」  手を叩いて笑うミズノ、上下そろいのウインドブレーカー(アルバローザ)。XLのトレーナー(ノーブランド)のシバケンがぼくの肩を抱いてきた。 「いぢめんじゃねえよ。加藤鷹だってドーテーだったんだぞ」 「なんでコイツが加藤鷹なんだよ」 「キタのチンポでけえんだぞ。勃つとヨイチのよりもデケえぞ」  髙梨はしょっぱい顔。ミズノはバカうけ。ぼくは顔が熱くなって早足で逃げた。シバケンは笑って追ってきた。なんとなく二対二になって歩く。シバケンはハスキーな声でぼくの知らない歌を口ずさんだ。ところどころしかききとれない。〽オレは****しすぎて、****を蹴っとばすほどさ、ライラックってどんな花……やつの息が白い柱になって日差しに光った。ぼくは冷えた両手をコートのポケットに、かさついた唇を舐めた。寒いのは苦手だけど、冬は嫌いじゃない。この青空の明らかさと硬質さは、他の季節にはない。光がうんと遠くまで届いて世界が平明になる気がする。 「ケンジぃー」と髙梨。「サイフ、三十二円しかなかった。そいつからカツアゲしていい?」 「絶食しとけ」とシバケン。 「そりゃねえよ」と髙梨。 「うけるー」とミズノ。 「カツアゲで思いだした」とぼく。「芝。貸しがあと六百七十円だよ」 「ヨイチ、余計なこといってんじゃねえよ」  髙梨を蹴るシバケン。ミズノがいう。 「今マックでディズニーカレンダー売ってるよね」 「CMでやってた。ディズニーすきなの?」  ぼくはいった。髙梨が口を挟む。 「おミズ、こんなのとしゃべんな」  むかついた。「こんなのってなんだよ」 「だってキタウラタツヤだろ」 「おい、タカナシヨイチぃ。チンコちっさいんだってぇ?」 「てめえ、ぶっ殺す!」 「うわ、人間もちっせえなぁ」  ミズノとシバケンは爆笑。二人のまわりを、髙梨とぼくはトムとジェリーみたいに追いかけっこ。髙梨の蹴りが尻にヒット。ぼくら四人はショートコントを繰りひろげつつ星川三丁目のだらだら坂をくだりきる。星川小学校付近で進路を南東へとった。マクドナルドのある一丁目方面へ。      ♂ すこやかに恋してみたいぼくたちはリラの咲かない街に育った      ♂  一丁目の南北に長い橋上駅舎が相鉄線星川駅。その南口前から陸橋で直結の駅ビル二階にマクドナルド星川店はあった。ワンフロア七〇席のコンパクトさ。ぼくら四人が到着したのは十二時半で短い行列ができてた。  ぼくは財布からチラシのクーポンをだし、みんなの注文をきいてキリトリ線を裂いた。ぼくはグラタンコロッケバーガーセットとアップルパイ・シバケンはビッグマック単品×二個・ミズノはテリヤキバーガーセット・髙梨は何もナシ。  西側の駐輪場に面した喫煙席が唯一あいてた。ぼくはホワイトソースで火傷し、ジンジャーエールのストローを吸った。シバケンはビッグマック二個を五分で片づけた。ミズノはテリヤキとポテトを髙梨と半分コ。ミズノは髙梨のほっぺのソースをふいてやる。面倒見のいいお姉さんみたい。髙梨はうるさそうなポーズはしてるけど、まんざらじゃないんだろう。ミズノと肩をくっつけたままだ。  ぼくも誰かといちゃいちゃしたい。できれば相手は菊池雪央がいい。でも、それはもう叶わない夢なのかな。あれから五回、菊池んちに通ったけど、あの子は一度も顔を見せてはくれなかった。交換日記の返事もそっけなかった。やっぱり嫌われたのかも。急にセンチメンタルな気分。目のまえで手が振られた。 「キタ、どおした。疲れた?」  シバケンって妙に鋭いところがある。いや、眠くなっただけ、とぼくは目をこすった。髙梨が咥えタバコに火をつけた。トレーの広告チラシに置いた空色の箱。ハイライトだ。 「ずいぶんジジくせえの喫ってんじゃん」  ぼくはいった。髙梨はフィルターを挟んだ唇をゆがめる。 「マジメちゃんにタバコがわかんのかよ」 「ハイライトは四十年モノのロングセラーだよ。おれのじいちゃんはいつもハイライトだった。なんでマルボロとかにしなかったの」  髙梨は細い眉頭を寄せた。「オヤジが吸ってたから、なんとなく」 「そっか、親の真似か」 「なんだよ、(わり)いかよ」 「べつに。どういう動機で喫ってんのか興味あっただけ。おれ自身は一生タバコ喫うつもりないから、どんなもんなんかなって」 「ハイライトの煙、きっちいんだよな」とシバケン。「クールとか吸えよ。おれ、あれの煙はきらいじゃねえわ」 「やだし」と髙梨。「メンソールはインポんなるっつうだろうが」 「それをいうなら」とぼく。「メンソールだけじゃないよ。タバコ全般そう。血流が阻害されるから、インポんなる確率あがるよ」 「マジで?」 「マジで」  髙梨は指先のタバコを見た。一度おもいきり深く吸って、灰皿で捻じ消した。ミズノが笑った。キャラメルブラウンの前髪を斜めにカットしたミズノは、田中麗奈っぽい吊り目の美人。この子って処女じゃないんだよなと思って複雑な気持ちになった。ミズノはいう。 「名前の漢字は?」  ぼくは途惑った。「北・南の、浦島太郎の、竜巻の、二宮和也の」 「なんでオマエがジャニーズなんだよ」と髙梨。 「他にの字のつく適当な有名人いねえだろ」 「だいたい、あれはカズじゃなくてカズって読むんだっつうの。だっせー」 「うるせえ」  ミズノは水色のペンを走らせる。ミスタードーナッツの景品でもらえそうな感じのシステム手帳。ミズノの手はなかなか止まらなかった。説明が欲しくて、ぼくはミズノと髙梨とシバケンを順繰りに見た。シバケンがいう。 「ミズノの占いは当たるからさ」  五分ほどしてミズノは顔を手帳からあげた。「天格が十六画、地画が十三画、総画が二十九画。わりといい画数だよ。ただ、三才が土木火、イマイチだね」 「いまいちって?」 「きみは頭はすごい良いけど、かなり頑固だね。人の話をきかない。明るくて穏やかそうに見えるけど、じつは疑い深くてストレスがたまりやすい。けっこう苦労性でしょ」 「うん、はずれてはないね」  ぼくは鷹揚にうなずいた。名前の画数ごときで、ぼくの何がわかる。ミズノはトレイを重ねてスペースをつくった。ちっちゃなカードデッキを、手品師のように一発で一列に等間隔に並べる。見事なもんだった。 「きみがどういうキャラか、この中から一枚選んでみて。上下はひっくり返さないでね」  ぼくは手をかざして、左寄りのカードを一枚とった。棒をいっぱい抱えこんだ人の絵。 「の正位置。責任感でがんじがらめ。やっぱり苦労性だね。すすんで苦労をひき受けにいくようなトコがある。ある意味、欲ばり。今も手一杯なんじゃない?」  否めなかった。「うん、まあ、そうだね。もう一枚ひいてみていい?」 「どうぞ」  ぼくは手をかざして、右端からひいた。たくさんの剣の前で打ちひしがれてる人の絵。 「これって、どういう意味」 「の正位置。精神的に追い詰められてて、よく眠れなくなってるってカード」  ぼくは父を思ってひいたのだ。「うん、当たってるや。もう一枚いい?」  ミズノはうなずく。ぼくは手をかざして、真ん中あたりからひいた。トロフィーのようなものを抱いて、玉座にいる人の絵。 「さっき、おれを突き飛ばしたやつのこと考えてひいたんだけど、どんな意味」 「の正位置。情熱的で、行動力があって、現実的で、それでいて夢見がちな芸術家。けっこう情が深いやつだね」 「へえ、なんか意外。……あの、一つ悩んでることがあって」 「恋愛かな」 「そんな感じ。仲よかった子なんだけど、急に会ってくれなくなっちゃって。電話も居留守つかわれて。おれ、きらわれたのかな」 「あのデブ女だろ」  髙梨が嘲笑った。ミズノがきつい声をだす。 「ヨイチ。女の子にデブとかいわない」  髙梨はしおれた。ミズノはカードをまとめて切って、きれいに並べなおした。 「ひいてみて」  ぼくは手をかざし、右寄りから選んだ。メダルのようなものを抱いて、玉座にいる人の絵。逆さまだ。 「の逆位置。ぽっちゃりの子がきみを避けてるのは、何か自信を失くすようなことがあったから。きみには他にも気になる子がいるでしょ」  ミズノは確信的にいう。どきりとした。竹宮朋代のことだろうか? 「本命の子は、その子を気にしてるのかも。きみが本気なら、誤解させないようにしてあげなね。今わかるのは、そのくらいかな」ミズノはにっこり笑って掌を水平にだした。「五百円」 「カネとるんかい!」  ぼくは全力でつっこんだ。一同が爆笑した。 「あのさ、ミズノって下の名前だよね?」  ぼくはスヌーピーの財布のファスナーをしめた。ミズノは旧五百円硬貨を指に挟んでうなずく。ぼくは重ねてきく。 「上は?」 「今は小早川(こばやかわ)」 「今は?」 「生まれたときは落合(おちあい)だった」 「へえ」 「三年まえまでは山本(やまもと)だった」 「そう」 「来月には坪井(つぼい)んなってるかも」 「……」 「だから、ただの瑞乃(みずの)って呼んでね。瑞みずしいのに、木村佳乃の」 「うん」  ぼくは深くうなずいた。 「将来は髙梨んなれよな」  髙梨がそういって瑞乃の肩を抱いた。瑞乃は幸福そうに笑った。      ♂ 子どもには美しい名を 言の葉はそれだけで意味そのものだから      ♂  押売りの占いでせしめたカネで、瑞乃は二〇〇一年ディズニーカレンダーを買った。瑞乃と髙梨はそのまま帰るといいだした。マクドナルドのまえで二人は右手と左手の指をたがいちがいに組んだ。カップルつなぎ。シバケンは髙梨の肩を叩く。 「まあ、テキトーに励めや」  髙梨はニヤッとして掌を見せた。陸橋の階段下へ兎とハイビスカスの背中が隠れたとき、シバケンがいう。 「あいつら、星川小なんだけどさ、四年んときにヨイチのオヤジさん事故で死んじゃって、ヨイチ、団地に引っ越したんだよ。学区が変わったから転校してもよかったんだけど、ミズノと離れたくないからって、毎朝三〇分かけて星川小かよったんだと」  父親と同じ銘柄のタバコを喫う髙梨の気持ちを、ぼくは思った。シバケンはため息。 「あいつらんこと大すきだけど、ときどきさびしくなんわ。ヨイチもミズノもベッタリで、はいる隙ないっつうか。あーあ、独り身なんかやってらんねえ」 「ホントだよ」  ぼくは腕時計を読んだ。一時一七分。昼休み終了が一時三五分。いまごろ矢嶋はひとりで竹宮朋代に翻弄されて困ってたりしてね。ちったぁ、ぼくのありがたみを知りゃいいんだよな。しかし、あと十八分じゃマラソンだな。かったるい。シバケンはいう。 「なあ、おれらもバックレねえ?」 「いいよ。どこ行く」  ぼくの返事が意外だったのか、やつは目を大きくした。 「じゃ、歩こっ」  ぼくとシバケンは学校と反対方面へ歩きだした。南口から星川駅構内をとおって北口へ。掠め飛ぶ純白のユリカモメ。帷子川(かたびらがわ)の水はプランクトン大量発生っぽい緑。保土ヶ谷区/西区を流域として横浜港にそそぐ二級河川・帷子川は、かつては蛇行の激しい暴れ川だった。記録にある限りでも江戸時代から、何度も改修工事か繰りかえされた。中流/下流はほぼ真っ直ぐの現在の流れになり、旧河川敷は川辺公園親水施設として利用されている。その施設の対岸の遊歩道を、ぼくらはぶらぶらと川下へ向かう。シバケンは機嫌よさそうにハミング。さっきのライラックがどうのって変な歌。ぼくはいう。 「あのさ、変なこときいていい?」 「あん?」  いうのが恥ずかしかった。「ぶっちゃけ、チンコってデカくていいことあんの? なんでみんなそんなにデカさにこだわんの」  シバケンの片八重歯。「そりゃ、デカいほが見ばえいいし、使うときの威力がちげえっしょ」 「でかいほうが気持ちいいってこと? 女にきいたの?」 「きいたんじゃねえけど、反応がちがうべよ」 「それ、実体験?」  シバケンは困り顔になった。「いや、AVとかさ」 「なんだ、AVかよ」  ぼくらは横断歩道で足を止めた。むこう側に小型の消防車両と、レスキュー隊員十数人。すぐそこの保土ヶ谷消防署員だろう。図書館と一体の、二階建ての公会堂の屋上にも、橙の救助服。壁には細く長いロープが地上までさがってた。歩行者用信号機のボタンを押すのも忘れて、ぼくらはぽかんとした。 「事件?」 「さあ」  降下開始! って声とともに一人の隊員が壁を素速く伝い降りた。隊員の背負ってるのは等身大の人形だ。ぼくは指を鳴らした。 「訓練だ。そっか、年末だもんな」 「なんで年末だと訓練なの」 「火事が多いし、新年に出初式あんじゃん。一年の集大成みたいなさ」 「そっか」  シバケンは感心顔。ぼくはボタンを押した。数秒で信号は青に。本番さながら緊迫した隊員のあいだを、ぼくらは遠慮がちにすりぬけた。ぼくはもっと訓練風景を眺めていたかったけれど、シバケンは関心を払わなかった。さらに川下の狭い遊歩道へ進んでゆく。ぼくは思い切って、シバケンを追いかけた。  放水開始! って声。ぼくらの対向から来たちっちゃな男の子が歓声をあげた。ぼくはふりかえった。隊員五人が横一列になって水の弧を帷子川へ放っていた。川幅いっぱいの虹。 「「おおーっ‼︎」」  ぼくとシバケンの声がハモった。冬の虹の切れるような鮮やかさ。ぼくらはしばらく動かなかった。      ♂  遊歩道は短い。帷子小学校の庭に沿って、ほんの百メートル弱。大縄跳びをやってる小学生たち。ぼくとシバケンは正門脇の冬枯れのケヤキのしたで佇む。 「どっち行く」 「ジャンケンしよ。キタが勝ったら橋わたろ。おれが勝ったら踏切わたろ」  ぼくはグー/シバケンはパー。ぼくらは南の天王町二号踏切へ。昼さがりの相鉄線は平常どおりの運行。眠たく輝く七〇〇〇系のアルミの車体。警報機のひずんだ和音。ぼくはぼんやりと待った。シバケンがさりげなく尻をさわってきた。セクハラおやじか。ぼくはやつのふくらはぎに蹴りをいれた。  相鉄線の南側、神戸町(ごうどちょう)のマジックミラーの窓が横縞になったビル群を見るたび、そこに都会を移植したような違和感をおぼえる。二十一階建てのNRI(野村リサーチ・インスティテュート)タワーを主峰に、イーストタワー/ウエストタワーの属峰が連なる。横浜ビジネスパークは、天下の野村不動産が所有する憩いの場を兼ねたビジネスセンターだ。よくドラマやCMのロケ地になるから、あんたも見おぼえがあるかもしれない。レストランコートやフィットネスクラブまであって地元客も利用する。化粧煉瓦と芝生の敷地内のあちこちに変てこなアート作品がいっぱい。ぼくとシバケンは敷地をうろついて、カット西瓜みたいな半円形の錆びた鉄の塊を動かそうとしたり、立体の連続写真みたいに何匹も並んだシバイヌの像の背に跨ってみたり、クリップのでき損ないみたいな石のオブジェを回し蹴りの練習台にしたりした。  隙のないホワイトカラーが無関心にビルからビルへと歩いてった。植込みと一体になった円形ベンチにヨークシャーテリアを抱いたおばあさんが座ってた。若い母親と小さな子がシャボン玉を吹いてた。その虹の泡が北風に流され地べたではじけた。シバケンはものすごくやさしい目をしてその親子を眺めた。その小さな女の子が自分を見つめる男子中学生に気づいた。シバケンは手を振った。女の子は恥ずかしがり屋なのか、顔を両手で隠してしまった。母親が笑って頭をさげた。ぼくとシバケンも笑って会釈した。  パークの中央に橙色のコロッセオみたいな構造物がある。映山紅(つつじ)の植込みに囲まれたコロッセオもどきへ、ぼくとシバケンは近づいた。ぼくは橙の壁を叩く。 「これ、ベリーニの丘っていうんだぜ」 「ベリーニって何」 「知らん」  シバケンがうけた。ぼくらはベリーニの丘の側面入口から内部へ進んだ。なかはコンクリートの洞窟みたい。巡回強化中って貼紙。だが警備員の姿はない。冬の風がごくゆるやかに吹き抜けた。中心部はっていう吹抜けの空間だ。広く浅い円形の池が凪いでいた。池心(ちしん)に電飾のチューブのクリスマスツリー。静かな水面に反射して逆さツリーになってる。電気はまだ通っていなかったが、却って透きとおる感じがしてきれいだ。シベリウス《樹の組曲》の《樅の木》を、ぼくは思った。シバケンがいう。 「夜んなったら光るかな」 「たぶんな」  シバケンは目を輝かせた。「夜まで待たねえ?」 「風邪ひくだろ」 「じゃ、どっか店んはいってさ」 「もうカネねえよ。それに、おれ放課後は用事あるんだ。悪いんだけど」  シバケンの目が暗くなる。「いっしょにいてくんねえんだ」  ぼくは微笑した。こいつの素直な好意がうれしかった。だから、正直にいった。 「ごめんな。一緒にいてあげたいんだけどさ、犬にピアノ弾いてやんなきゃいけないんだ」 「イヌ?」 「矢嶋んちのサーだよ。あいつ、癌で、もう長くないんだ。流動食しか()れなくなっちゃった。でも、あいつピアノの音がすきでさ、《トルコ行進曲》なんか弾いてやると、まだ元気にしっぽ振ったりするんだよ。もし、きょう行かないで、サー公が死んじゃったりしたら、おれ後悔すると思うんだ。だから」  矢嶋の名前がでたせいか、シバケンはこわい顔をした。 「おれらはまた遊べんじゃん。来年にでも見に来ようよ」 「わかんねえじゃんか、そんなの。おれらだって、あした死んじゃうかもしんねえのに」  シバケンの語気の激しさに、切実なものを感じた。ぼくは問いかける。 「ねえ、芝。もしかして、おれに黒い煙みえてる?」 「そうじゃねえけど……」 「なら、平気だろ。死なないよ、おれは」 「……」シバケンはそっぽを向いていた。 「芝だって、死なないよ。また、あした、会えるだろ」 「ミズノがいってた。どんなすげえ占い師も自分の運命はわかんねえんだって。だから、おれも自分の煙は見えねえのかもしんない」  ぼくは困って唇を結んだ。シバケンは池に向かって座りこんだ。冷たい風が吹いて水に皺が寄った。シバケンのきつい声。 「帰れ。おれは一人で見るから」  その丸まった背中に、どう言葉をかけていいのかわからなかった。途方に暮れて、ぼくは歩きだした。ベリーニの丘の外は明るかった。その出口で、足が止まった。あいつのあんがい花奢な肩を思った。ぼくは小走りでひきかえした。冬至の日のきょう、日没時刻は四時半くらい。ここからバスを乗り継いでも新桜ヶ丘までは三十分以上。とてもサー公にピアノは弾いてやれない。矢嶋はまた怒るだろうな。でも、ぼくはシバケンをほうっておくことができなかった。  池のほとりで蹲ったあいつ、その隣にぼくはどっかりあぐらをかいた。尻にまっすぐ来るコンクリの冷たさ。ぼくは何もいわなかった。あいつも何もいわなかった。ときどき、風が池に皺をつくった。でも、すぐに凪いでクリスマスツリーをきれいに映した。  午後の空は明度を落としはじめているようだった。ぼくはコートのポケットから手つかずのアップルパイをだした。それを半分に折って、より大きいほうを差しだす。あいつは黙って三口で片づけた。ぼくは五分くらいかけて食べた。長い長い沈黙のあとで、あいつが口をひらく。白い息。 「なあ。ライラックって、どんな花?」 「おれも見たことはないな、写真でしか。でも、春に咲く紫の花だよ」 「そおなんだ。赤じゃねんだ」 「赤っていうか、赤紫かな。フランス語だとリラ(lilas)っていうんだけど、青っていう意味のペルシア語のニル(nil)や、サンスクリット語のニラ(nila)から来てるんだって」 「キタは何でも知ってんな」 「おれ、何か憶えるのが楽しいから、無駄なことばっか知ってる」ぼくは自嘲っぽく笑った。「一時期、花言葉にハマった。ライラックの花言葉ってっていうんだ。でも、もうひとつ別の花言葉があって、おれはそっちがすきだな」 「何」 「」 「……」シバケンは額を押さえて肩を震わす。 「なんだよ」  あいつは大笑い。「おまえ、キザったらしー」 「うるせー」  吹抜けの円形の空はインディゴブルー。日没が迫っていた。水のホールは真っ暗。ぼくとシバケンは冷蔵庫のゼリーみたいに震えた。  誰がどこで点灯するんだろう。いきなりクリスマスツリーが白くまばゆく浮きあがった。水面が光を倍にする。吹き抜けの穴の周辺の針葉樹にも電飾が施されてた。聖なる光の祭典。シバケンは声もなく白い息を吐いて笑った。ぼくは洟をすすった。  これからクリスマスが近づくたび、ぼくはきょうの一日を思いだすだろう。ロマンチックじゃないけど、仲よしの誰かとバカをやった思い出は、全く悪くない感じがした。  ぼくらはいつまでも座っていた。そして、そろって風邪をひいた。      ♂ いつまでも花の咲かないライラック (うみ)しか見ない童を恋えば

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