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二十三哩(進み続けるものだけを音楽と呼ぶ)

 二十一世紀最初の始業式の日、冬晴れの日差しが窓辺の菊池雪央の机を洗っていた。天板にうっすらと積もったチョークの粉を、ぼくは乾いた雑巾でふきとった。机の掃除は自主的にやったことだった。きょうは清掃も部活もない。午前中に帰りの学活を終え、クラスのやつらが教室の出口へ急ぐ。菊池のことなんて誰も憶えてないふうだ。空っぽの机は軽く、簡単に動いてしまう。ぼくは机と椅子をまっすぐに直して、ため息を細くついた。  菊池の五つ後ろ、窓際準最後尾の席で、ぼくは学年だよりの新年号をクリアファイルに挟んだ。自分のぶんと、もう一枚は菊池のぶんだ。最後尾の席からコントラバスの声。 「行くのか」 「行くよ」 「あの子が二度と登校しないとしても? あの子が三学期いっぱい登校しないと、きょうをいれて、あと二十回、会いに行くことになる。二十回ふられても、行くのか」  皇帝緑(エンペラーグリーン)の前髪、矢嶋健の目に真摯な光。それは考えないわけじゃなかった。このまま菊池の不登校が続いて、ぼくらが進級し、クラスが別々になってしまったら……それ以上、ぼくは手をだせないだろう。ぼくがいくら菊池に会いたいと思っても、あの子が望まないことを強要はできない。けれど。 「行くよ」  ぼくはクリアファイルをひらき、それを取りだした。一枚の年賀はがき。HAPPY NEW CENTURY!!・。それだけの言葉と、かわいらしい手描きの花。 「ちゃんと元旦にくれたんだ。菊池がおれのこと、ほんとうにきらいなら、こんなもんよこさないだろ。おまえはどう思う」  矢嶋ははがきを裏返して、しげしげと眺めた。「まだ、脈はある」 「やっぱ、そう思う?」  ぼくは前にめりになった。矢嶋ははがきで、ぼくの鼻をそっと叩いた。 「やりかたを変えよう」 「やりかたを変える?」  鋼色(スチールグレー)の三白眼はおもしろがっていた。「同じやりかたをしていたら、同じ結果しかでない。まえにもそういったよな?」      ♂ よりもが似あいの駅前でうなずいてくれ、おれのペコちゃん      ♂  緋色のヴァイオリンケースを右手に、矢嶋は威喝い肩で北風を切った。やるといったら、この男はやるのだ。一月の昼さがり、法泉の住宅街に何ヶ所かある児童公園からガキンチョの声。子供は風の子/大人は火の子。子供でも大人でもないぼくは、なんの子だろう。ぼくは紺のダッフルコートに両手を突っこんで、ぜんぜん関係ないことを考えていた。 「菊池雪央さん、あけましておめでとうございます。本年もよろしくお願いします」  ぼくはダッフルコートのまま、サクラ材のドアに一礼した。菊池んちの二階、フローリングの廊下は底冷えした。階段付近のドアがあの子の部屋だ。返事はなかった。菊池はずっと口を利いてくれない。たった一枚の薄いドア。おそらく錠はないだろう。外からノブを回せば、簡単に開いてしまうはず。でも、それじゃ駄目なんだ。菊池のお母さんが貸してくれたクッション、その乙女色の結び紐をぼくはいじった。 「新年早々、申しわけない。矢嶋ケンっておぼえてる? あの威喝いターミネーターみたいなやつ。そいつが勝手についてきちゃったんだ。菊池にプレゼントがあるんだって」 「誰がタァミネイダーだよ」  顎にヴァイオリンを挟んで、矢嶋が噴きだしそうにいった。 「だってシュワちゃんばりにムキムキじゃん」 「あそこまでマッチョじゃねえよ。あ、キクーチさん? ヤジマです。六日がお誕生日だったそうですね。十四歳、おめでとうございます。不躾(ぶしつけ)を承知で、こうして参上いたしました。一月六日は、シャァロック・ホォムズのブゥスデイでもあるんですよ。シャァロックはストラディヴァリウスを所有していて、《緋色の研究(ア・スタディ・イン・スカーレット)》でメンデルセンの歌曲(リート)を弾くんですね。つまり、《六つの歌(シックス・ソングズ)》です。そのなかの一曲をおききください。《歌の翼に(オン・ウィングス・オブ・ソング)》」  軽くチューニングして、矢嶋は弾きだした。メンデルスゾーンの歌曲といえば、これっていうくらい定番中の定番だ。あんただってよく耳にするはず。なのに、矢嶋が奏でると、それは新しく響いた。弾き手の腕って大事だよな。がらんとした廊下は音響ばっちり。ヴォリュームを抑えて弾いているからか、それはヴァイオリンの深いささやきのようだ。  ぼくはクッションを敷いて、壁にもたれて膝をかかえた。悔しいけれど、お客さんだ。ピアノが小さな楽器なら、ここで菊池に弾いてあげられるのに。この曲は、ほんとうはピアノ伴奏があるのだ。ぼくの手は自然と架空のピアノを打鍵していた。あの子はどんな思いでこの音をきいているだろう。  三分に満たない曲を終え、矢嶋は舞台でするようにお辞儀した。  静寂。ドアのむこうから拍手。初めての反応だ。ぼくと矢嶋は顔を見あわせた。いけるかもしれない。矢嶋は軽く一礼。 「ご清聴、ありがとうございます。よろしければ、もう一曲お送りしても構わないでしょうか」  考えるようなまがあって、また小さな拍手がした。矢嶋は歯列矯正器を見せて、弓の先でぼくを差した。 「オゥケィ。キターラ、伴奏しろ」  めんくらった。ピアノどころか鍵盤ハーモニカもないのに。「どうやって」 「口パクで」 「アテレコっていいたい?」 「そう、それ」  弓を振りまわす矢嶋はチェシャ猫の笑み。楽しんでやがる。ぼくと菊池のシリアスで大切な事情で楽しむなんて。矢嶋はヴァイオリンを数小節鳴らし、目つきでうながした。有名なシンフォニックジャズのさわり。あれか。ぼくは立ちあがって、架空の鍵盤を叩いた。ばかでかい声でイントロダクションを歌った。〽たんたんたん、たんたんたんたぁーん!  矢嶋は笑って、主旋律を奏でだした。本来、それはピアノのパートだろ。しかも超ハイテンポ。二〇年代アメリカの陽気なスイングで、ジャズのフレーズが目まぐるしく変奏される。ぼくはエアピアノをやりながら、他のパーカッションや金管楽器のパートを適当に呀鳴(がな)った。〽にゃんにゃんにゃん、にゃんにゃんにゃん、にゃんにゃんにゃにゃーん!  ドアのむこうの笑い声。あの子が笑ってる。笑ってくれた。涙腺が痺れるくらいうれしかった。こんなでたらめなアテレコで笑ってくれるなら、何十分だってやってやる。  誰か階段をあがってきた。菊池弟こと光峰だ。バカやってるぼくを見て、光峰は姉そっくりなにこにこ顔。ひっこんでろっていうつもりだったのに、そんな顔されたら追い払えなくなるじゃんか。ぼくは白い歯で応えて、ますます調子っぱずれに歌う。光峰が階段から落っこちそうに笑う。ドアのむこうで菊池も笑う。そうだ、笑え。もっと、笑え。  矢嶋の演奏は速い。ブレスもせわしなくて、ぼくは息切れして咳きこんだ。矢嶋は余裕綽々の薄ら笑い。ステージのギタリストみたいに、大げさな動きでぼくを(あお)る。ぼくは全力のエアピアノとスキャットで応じる。ヴァイオリンと声の即妙のかけあい、動と静・強と弱・緩と急。ゴキゲンな音楽は大団円へと雪崩れこむ。  光峰が拍手した。余韻のなか、ヴァイオリンと弓をおろし、矢嶋は再びお辞儀した。 「《アイ・ガット・リズム変奏曲(ヴァリエーションズ・オン・アイ・ガット・リズム)》でした。お気に召していただけましたでしょうか」  菊池も拍手した。ずいぶん長いこと拍手してくれた。光峰が矢嶋とぼくを見くらべる。 「でっかいののほうがカッコいいけど、元カレのほうがおもしろいね」  ぼくは力なく笑った。いいんだ、どうせぼくはお笑い担当なんだ。 「邪魔者は消えるから、あとはおまえでな」  片手をひらりと振って矢嶋は撤収した。光峰は子犬みたいに矢嶋にくっついてった。  菊池のドアの横に凭れて、ぼくはクッションの結び紐をいじった。 「騒がせちゃって、ごめんね」 「矢嶋くんって変だね。北浦も変だけど」  女の声が笑った。どきりとした。以前よりも声が大人びて、菊池が別の子になってしまった気がした。 「うん、変なんだよね。おれも変だけど。クラスで一緒に浮きまくってる」 「でも、ヴァイオリンはじょうずだったね」 「……」 「北浦も一生懸命やってくれたね」 「……」 「ごめんね」  菊池は涙声。この一ヶ月、ぼくを無視したことを気に病んでたんだろう。たぶん、いったんしゃべるのをためらったら、声をかけるタイミングがわからなくなってしまったんだ。ぼくも清水俊太とずっとしゃべれなかったから、わかる。 「おれ、菊池を泣かせたいわけじゃないよ。しゃべってくれたし、もういいんだよ。あ、そうだ。年賀状ありがとう。でさ、年賀状ってお年玉抽選ついてんじゃん。それで三等賞が当たったの、切手シート。すごくない? 菊池、誕生日だったしさ、なんかお礼の意味も兼ねてプレゼントしたいなって思ってて」 「気を使わなくていいよ」 「ううん、おれがプレゼントしたいの。何がいいかなって、ずっと考えてたんだけどさ。矢嶋ばっかいいカッコして、ずりいじゃん。おれもあんなんじゃなくて、いいとこ見せたいんだよ。ここにピアノがあったらひいちゃうとこだけど、持ってこれないし。それで、思ったんだ。金曜日までにおれのピアノ、録音してくる。それがプレゼント。どう?」 「まえに、音楽室で弾いてたね。きれいな音だった」 「ほんと? じゃ、決まり。金曜日、楽しみにしててよ」  菊池んちを出て、ぼくは走った。北風に耳と鼻が痛かった。 「あのスタインウェイ、すきなだけ弾いていいんだよな?」  矢嶋邸の玄関先で、ぼくは勢いこんでいった。鋼色(スチールグレー)の三白眼を矢嶋はしばたたかせる。 「何があった」  矢嶋邸の地下スタジオは、温水暖房で壁も床もほっかほかだった。アンティークグランドピアノ前の猫足の椅子で、ぼくは冷たい指を擦りあわせた。たぶん、まだ鼻も赤いと思う。ソファーの矢嶋は身を乗りだした。おもしろがった三白眼。 「いいよ。ただし、条件がある。おれのすきな曲も録音しろ」  ぼくは身構えた。「難しい曲じゃなければ」 「さっき口パクでやったやつ」 「《アイ・ガット・リズム変奏曲》?」  べつに難曲ってわけじゃなかった。ぼくは承知した。 「菊池はシューマンがすきだから、《ダヴィッド同盟舞曲集》なんか、どうかなって」 「あの無駄に長いやつ?」  ぼくはムッとした。こいつはロマン派の作曲家はご趣味じゃないらしいのだ。 「おまえの好みはどうでもいいよ。あくまで菊池のための録音なんだから」  矢嶋はコーヒーをすすって、食塩無添加ナッツを齧った。「つまんねえの」  善は急げ。ぼくは書架のSのセクションを探した。あった、《Davidsbündlertänze》(Op.6)。ぼくは譜面を熟読し、CD音源からのイメージを擦り合わせた。普通に弾いたら三十分以上かかる曲集だ。ちょっとやそっとじゃ弾きこなせないだろう。  でも、きっと菊池はよろこんでくれるはず。ぼくはひそかに鼻息を荒くした。      ♂ おもいだすたびミニバラが咲いちまうイロハ仕掛けの恋の最中      ♂ 「では、音楽祭の自由曲と、ピアノ伴奏者と、指揮者を決めたい思います。なお、伴奏者と指揮者は自薦他薦問いません」  新世紀初学活。二年F組の黒板の前で、われらが学級委員長・工藤斗南がいった。すかさず、前から三番目の席の河合省磨が挙手。 「ピアノ伴奏は、キタウラタツヤくんがいいと思いまーす」  さんせーい!!!! と音羽カンナ以下四人組も手を挙げた。ぎょっとした。一〇〇%悪意の推薦だ。どうせ演奏になんだかんだイチャモンつける気にちがいない。ぼくは椅子を鳴らし席を立った。 「いやです!」 「どうしてですか」 「ヘタだからです!」  みんな笑った。でも、恥も外聞もなかった。第二学年八クラス二百八十余名のまえで、ヘタクソなピアノをさらすなんて冗談じゃない。 「けど、推薦が五人ですね。対立候補がいない場合は、北浦くんに決まりです」  工藤は淡々といった。こいつもぼくの味方ではないようだ。 「矢嶋くん」  ぼくの背後で椅子が鳴った。グリーンの髪の矢嶋は起立し、このうえなく偉そうにのたまう。 「指揮者はおれだ。自由曲はベイトゥーヴェン《歓喜の歌(オード・トゥ・ジョイ)》にしろ」  教室が凍った。黒板の前で、われらが副学級委員長・榊言美が手をあげた。 「それなら、わたし、ピアノ伴奏に立候補します。推薦してくれる人?」  友達の篠崎由江と山岸希望と、その他数人が挙手した。河合たちよりも多い。これでひっぱりだされずにすむかも。工藤は困惑顔。 「伴奏者候補が二名、ですか。ええっと、それじゃ……」 「オウディションのうえ、改めて採決すればいい。実力者を選ぶべきだ」  矢嶋がいい放った。雲行きが怪しくなってきた。矢嶋はつかつかと教壇へと進みでて、工藤を押しのけた。矢嶋は教卓をダンッと叩き、教室を見わたす。 「おれが指揮者になるからには、優勝をめざす。おれたち三十六人には、それだけのポテンシャㇽがある。いいか、おれたちは勝てる。いや、必ず勝つ」  矢嶋は宣言した。河合一派以外から、どよめきと拍手が起きた。四月の自己紹介のときの演説と同様だ。わけがわからないが、矢嶋の情熱(パッション)に圧倒されたのだ。榊はうっとり顔、漫画なら♡が乱れ飛ぶだろう。ケッて顔つきの工藤。 「やる気満々なのは結構だが、矢嶋、その髪と格好で本番のステージに立たせるわけにはいかんな。いい機会だ。黒く染め直して、制服を着たらどうだ」  担任の香西博文が余計な口をだしてきた。さすが小ウザイ、まだあきらめてなかったらしい。矢嶋のきょうの服は象牙色(アイヴォリー)のロングニット。あいつは眇めた目で睨んだ。 「ファッションで指揮するわけじゃないでしょう」 「音楽祭は保護者も来る。指揮者は一番目立つんだぞ。何度もいったが、髪染めも私服も校則違反なんだ。校則違反の生徒を堂々と起用しては、おれが指導能力を疑われる。もし髪を黒くして制服を着ないなら、おまえを舞台に立たせない。おれの教師生命にかけてだ」  小ウザイはいいきった。たぶん、本音だ。もっともらしい建前など、矢嶋には通用しないとようやく学んだのだろう。矢嶋は歯列矯正器を見せた。 「いいでしょう。センセエの評判のために、本番当日はどうにかしてあげますよ。それまでは、この色で通しますから。いいよな、みんな?」  みんなは野次や拍手で応じた。小ウザイは何かいいたげだったが、教室のいいムードを壊してまで強権的な態度をとることはなかった。窓際最後尾の席へと戻ってきた矢嶋は、ぼくにささやいた。 「おまえ、絶対にオウディションに勝て」  途轍もなくややこしい展開になった。ぼくはこめかみを押さえた。頭痛がしそう。  ちなみに課題曲は《若い翼は》だった。      ♂ 大人への(いきどお)りかた青臭きぼくらをトマト同盟と呼ぶ      ♂  矢嶋邸の地下スタジオ。ぼくは録音のために《ダヴィッド同盟舞曲集》を弾きこんだ。音楽祭のことは考えないようにしたけど、胸に重石が乗ってる気分だった。  矢嶋がピアノの屋根にコンデンサーマイクを設置し、紅赤のマッキントッシュをいじった。あいつは歯列矯正器を見せる。 「この部屋、改装(リノヴェーション)するかな。収録(レコーディング)編集(エディット)ができるように」 「音楽事務所でも始める気か?」 「それもいいかもしれない」  こいつならやりかねなかった。ぼくは苦笑し、制服のブレザーを脱いだ。腕時計をずらし、鍵盤に手をかざす。矢嶋が合図した。ぼくは跳ねるように始めた。  ダヴィッド同盟とはロベルト・シューマンが考えた架空の団体だ。巨人ゴリアテを倒したダヴィデから来ている。主要人物は三人。情熱的なフロレスタン/冷静なオイゼビウス、調停役のラロ先生。その当時の流行だったサロン派を批判すべく、シューマンが誌上で使った変名がキャラクターのもとになってる。とくにフロレスタンとオイゼビウスのキャラが、二重人格のように交互に曲に表れる。  ぼくはフロレスタンのパートでは矢嶋を、オイゼビウスのパートではぼく自身をイメージした。ラロ先生になれそうなのは、じいちゃんかな。イメージの奔流で、目のまえの鍵盤に集中しきれない。ミスタッチで、音が濁った。ぼくは鍵盤をぶっ叩いた。だぁーん‼︎ 「いらつくな。いらついた音になる」  矢嶋がいった。ぼくはため息をついて、両手をマッサージした。 「わかってる」 「キクーチさんに元気になってほしいんだろ。それなら、まず、おまえが楽しむんだ」  困惑した。ピアノを弾くのは、ぼくにとって楽しみのための行為じゃなかった。ただ、頭のなかに理想の音が鳴っていて、その音にどれだけ寄せられるかという挑戦だった。矢嶋は棚からヴァイオリンを持ちだした。軽くチューニングし、《アイ・ガット・リズム変奏曲》を数小節弾いた。銀の歯列矯正器。 「楽しむんだ」  ぼくはにやりとして、鍵盤を端から端まで鳴らした。主旋律を奏でだす。きょうはぼくが主役だ。ヴァイオリンを弾きながら、矢嶋が跳びはねる。ぼくは笑い声を立てて、軽やかにアドリブをいれた。      ♂  矢嶋が焼いてくれたCDを、菊池に届けたのが金曜日。火曜日の放課後、ぼくはどきどきしながら、菊池の部屋のまえに来た。サクラ材のドアから、菊池の声。 「CD、ありがとう。北浦はやっぱりピアノじょうずだね」 「何回も録りなおしたんだ」 「矢嶋くんもじょうずだったね」 「えっ矢嶋?」 「ピアノと、ヴァイオリンと、すごく息があってて。きいてると楽しくなって。あのアイガットなんとか」 「《アイ・ガット・リズム変奏曲》?」 「そうそう、それ。あたし、二十回くらいきいちゃった」  ぼくは力が抜けてしまった。矢嶋のやつ、音源をまちがえやがったのだ。ぼくの《ダヴィッド同盟舞曲集》が水の泡だ。ぼくはショックが声に表れないよういった。 「あゝ、うん、楽しんでくれたならよかった」 「あたし……あたしね、北浦にいわなきゃならないことがあるの」菊池の声が、ピアノの弦のように張りつめて震えた。「きいたら、北浦、あたしのこと軽蔑する。でも、いうね。北浦の教科書、窓から捨てたの、あたしなの」  息を飲んだ。ぼくは慎重な声できいた。「どうして」 「去年ね、梅雨のころ、学校の帰りに、河合に呼び止められたの。裏道につれてかれて、いわれたの。おまえ、北浦のことすきなんだろって。あたし、関係ないじゃんって思って、何もいわないでいたら、河合が急に……あたしの左の胸つかんだの。あいつ、笑ってた」  サル顔の幼なじみに、殺意が湧いた。菊池の声は震えた。 「おまえの胸、最初にさわったのはおれだからな、それは何年たっても変わらないし、おまえは大人になってもそれを忘れない、って。北浦には知られたくないよな、って。あたし、誰にもいえなかったし、誰にも知られたくなかった。とくに北浦には絶対。でも、北浦が雨のなか教科書ひろってるの見たら、あゝ、あたし、最低だ、って」  ぼくは拳を握った。「そんなことない」 「ハナカンザシの花、あたしには似あわないよ。あたし、弱いから、北浦のこと傷つけちゃう。だから、もう、ここに来てくれなくていいよ。あたし、あしたから学校行く。でも、声かけなくていいからね。あたし、もう……」  あとはすすり泣きだった。ぼくも泣きそうになって、目をこすった。 「おれだって、弱いよ。でも、おれは、菊池と一緒にいたい。菊池にすげえ会いたい。顔、見せてよ」 「だめ。あたし、十キロくらい太っちゃったもん。恥ずかしくて会えない」 「菊池があと二十キロくらい太ってたって、平気だよ。おれ、菊池のこと……」その先はいえなかった。ぼくなんかに好かれて菊池はうれしいんだろうか。「菊池の顔が見たい。ドアあけてよ」  菊池は答えなかった。もう駄目かと思った。  ラッチの小さな音が、まるで稲妻みたいだった。鈍い銀のノブが回る。ドアの陰から現れた女の子は、ゆったりした桜色のカーディガンを羽織って、ぴちぴちのデニムを穿いてた。菊池は顎の線が丸くなって、たしかにまえより太ってた。《亜麻色の髪の乙女》が掠める。ぼくは息をついた。 「菊池に噓ついちゃった」  きれいな焦色(こがれいろ)の目が潤んだ。ぼくは笑った。 「年賀状のお年玉抽選、当選番号の発表、きのうだったんだ。菊池の年賀状、はずれてた」  菊池は泣きだしそうな目で笑った。      ♂ 「おまえ、あんがいドジなんだな。音源まちがってたぞ」  矢嶋邸の地下室、ぼくは矢嶋にいった。グリーンの髪の皇帝さまは鼻で笑った。 「ミスってない。あの録音のほうがいいと思ったから、そうしたまでだ」 「わざとかよ」  矢嶋はぼくにCDをよこした。「これがシュゥマンだ。ヴァレンタインズデイにでも渡したらいいじゃないか」 「腹立つな、おまえ、このやろ」  ぼくはグリーンの髪をつかんだ。矢嶋は強引に逃げて顔をしかめた。 「ハゲたらどうすんだよ」 「そんなヘアカラーしてたら、将来的にハゲるっつうの」  矢嶋は黙った。ぼくはグランドピアノの座について、そっぽを向いた。 「おまえはクラシックのコンテストじゃ優勝できないよ」  急に矢嶋がいった。虚を突かれて、ぼくは呆然とした。なんとなく、そんな気はしていた。ぼくのコンクールでの成績はいつも三、四位で、最高でも二位だった。クラシックで評価されるには、ノーミスはあたりまえ、プラスアルファで何かを持っていなきゃいけない。でも、ぼくはミスタッチを減らせなかった。たぶん、ぼくはあの世界に行くためのチケットを持ってない。行きたいのに、行けない。とっくに癒えたと思ってた胸の傷が、(うず)く。ぼくの頭の影が鍵盤に落ちた。 「おれのピアニストにならないか」  矢嶋の鋼色(スチールグレー)の三白眼に、挑むような光。 「どういう意味」 「おれと組もうっていってる。おれと組めば、おまえはもっと高いところへ行ける」 「高いところって?」 「行ってみる?」矢嶋は至極カンタンそうにいった。「バンド(ネーム)がいるな。シンプルな、わかりやすいやつがいい」 「ゴンチチとかコブクロみたいな? じゃ、」 「マンザイコンビじゃないんだぞ」 「」 「時代遅れのジジイかよ」 「文句あんなら具体案だせよ」 「考えるのは、おまえの役目だ」 「はぁ?」  ぼくは後ろ頭を掻いて、ヴァイオリンのニスの色つやと、ピアノの彫刻入りの三本足を見くらべた。 「ヴァイオリンとピアノだろ。それを合わせるんだから……とかどうよ?」 「アーノだ」 「いいづれえよ。そこは譲っとけよ」 「やだ」 「ヤダじゃねえよ。ヤなのはこっちだよ」 「よし、ジャンケンだ」 「望むところだ」  ぼくは腕のストレッチをした。あいつは両手をピシッと打ちあわせた。  最っ初はグッ! とぼくは拳をだした/最っ初から! とあいつは掌をだしやがった。 「あっ、おめっ、汚ねっ」  矢嶋は笑った。銀の歯列矯正器が、唾液に濡れてきらきらしていた。「おれの勝ち」      ♂ たどたどしいピアノ係よ鍵盤は四季の星座の数の輝き      ♂  先攻の榊が、午後の音楽室のグランドピアノを奏でる。課題曲《若い翼は》に続き、自由曲《歓喜の歌》。ベートーヴェン《交響曲第九番》第四楽章の合唱部分だ。改めてピアノ伴奏だけをきくと、眠たくなるくらい単調な曲だ。矢嶋はなぜこの曲を選んだんだろう。  榊はつつがなく演奏を終えて、入れ代わりに後攻のぼくがピアノの座についた。窓辺で矢嶋がうなずいた。ぼくは深呼吸した。課題曲は無難にまとめて、自由曲のときは楽譜をたたんだ。  いきなりfffから始める。どよめくクラス一同。途惑いの表情。ぼくが弾いてるのは、リスト編曲版の第四楽章を、さらにぼくが編曲したヴァージョン。演奏はシプリアン・カツァリスを参考にした。ちょっぴり卑怯かもしれないけど、他に榊に勝てる方法が浮かばなかった。みんなはプロの審査員じゃない。迫力とグルーヴがあれば、きっと食いつく。ぼくは知るかぎりのテクニックを尽くして奏でた、強弱・緩急・変奏。みんなの表情が変わってきた。菊池の、赤ちゃんみたいな笑顔。ぼくは笑いかえした。矢嶋は指先で拍子をとっていた。イメトレかな。  自分のなかの情熱(パッション)の炎を大事に育てなさい。そして、なんにでも全力でぶつかること。  最後の一音――どしゃぶりのような拍手。心臓が心地よく高鳴って、指先の毛細血管まで温かい血が通う感じがした。コンクールで二番になったときよりもうれしかった。ぼくは立ちあがって一礼した。みんなが口ぐちにいう。 「全然ヘタじゃないじゃん」 「すごいね」 「かっこよかった」 「こんなの変だよ、伴奏じゃねえよ」  河合が声をあげた。音羽もいう。 「合唱を競うのに、ピアノだけ目立ってもしょうがないじゃん」 「だって、音楽祭でしょ。合唱祭じゃなくて。ピアノも審査対象なんでしょ。おもしろいほうがいいんじゃないの」  意外にも対立候補の榊が反論した。みんなから同調の声。河合たちは黙ってしまった。学級委員長・工藤が淡々という。 「じゃ、採決をとります。ピアノ伴奏は榊さんがいい思う人?」  榊の友達が数人と、河合一派が手をあげた。 「北浦くんがいい思う人?」  クラスの過半数の手があがった。菊池も矢嶋も榊も清水俊太もあげた。工藤は手を数えもせずいう。 「ピアノは北浦くんにお願いしましょう。そしたら、こんどは各パートリーダーを……」  矢嶋が真顔でサムズアップした。ぼくは苦笑し親指を立て返した。勝っちゃった、どうしよう。      ♂  今週から校内書初め展が始まった。始業式の日に提出した書初めを、各学年から金賞・銀賞・銅賞を選んだのち、各クラスの教室に掲示する。二年F組の壁も墨文字のうねる長い半紙で埋まった。残念ながらこのクラスからは受賞者ナシ。って書いたのは、ぼく(まあ、無難なフレーズ)。って書いたのは菊池(かわいい字)。って書いたのは清水(筆致だけなら金賞モノなのに。ふざけるんじゃない、って担任の香西博文に叱られてた)。って書いたのは矢嶋(新年らしさゼロ)。 「そこはふつう、だろうが」  ぼくはつっこんだ。矢嶋は薄い色の唇をへの字にした。 「だってきれいな言葉じゃないか」 「だいたい、なんて読むんだよ、これ」 「さあ」 「知っとけよ!」 「矢嶋くぅーん、一緒に帰ろ?」  二年A組の竹宮朋代がやってきて、かわいらしく小首をかしげた。さらさら流れる黒珊瑚色の髪。右近中じゃ、男女が一緒に帰る(イコール)カップル成立、って意味だ。学校一の美少女にこんなふうにいわれたら、たいていの男子は即KO負けだろう。けれど、相手はグリーンの髪のターミネーターだ。 「いやだ。これと帰る」  矢嶋は苦笑し、ぼくを指差す。かよ。竹宮は不服そうに唇を尖らす。甘えた形の唇。 「じゃあ、オタウラ、一緒に帰ろ?」 「えっ?」  不覚にも、どきっとしてしまった。この竹宮のことだ。ぼくが承知すれば、結果的に矢嶋と帰れると思ったんだろう。黒板のそばで菊池は不安げに見てた。ぼくはいう。 「ごめん。無理」 「なんでよ」 「誤解させたくない子がいるから」  竹宮は恨みがましい目でぼくをじっと見て、ぷいっと離れていった。ほっとしたけど、なごり惜しい気がしてしまう自分が情けなかった。 「キクーチさんを誘ってきたら?」  矢嶋は照れくさそうに目を背けた。ぼくは菊池のところへ走ってって、真正面からいう。 「一緒に帰ろう」  菊池は恥ずかしそうに、でもうれしそうにうなずいた。  矢嶋はめずらしく後ろを歩いた。菊池が気を使ってときおり話しかけたが、矢嶋は積極的に会話に参加しなかった。こいつが遠慮するなんて、天変地異のまえぶれかもしれない。  新桜ヶ丘の冬枯れの並木坂で、菊池に手を振った。ぼくは矢嶋にいう。 「なんか、ありがとな」  ふん、と矢嶋はそっぽを向いた。

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