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二十四哩(王冠はひとつ、頭はたくさん)

 〽フろイデ、フろイデ、シェーネるゲッテる、フンケン、トホテる、アウス、エリーズィウーム……《歓喜の歌》のドイツ語の合唱のなか、河合省磨は強情に口を閉ざしていた。音羽カンナ以下四人組も右に同じ。指揮者の矢嶋健の顔は渋かった。音楽室のグランドピアノを打鍵しながら、ぼくはいらだった。曲の終りに矢嶋が手を打った。 「何人か声が出てない。とくにカウアイ、歌う気ないだろ。バスはコゥラスに厚みをだす大事な土台なんだぞ」  河合の額がしわっと(ちぢ)れた。「おれはカウアイじゃなくてだっつの! おまえが勝手に選んだ意味わかんねえ曲なんか歌いたくねえよ。マジだるくてやってらんねえし」 「あたしも別の曲がよかった」 「ドイツ語むずい~」  音羽と樋口未空も同調する。矢嶋はムッと口をつぐんだ。 「でも、むずかしいことやりとげたほうが、達成感があると思うよ。音楽祭は来年もあるけど、このメンバーで歌えるのはこのときだけなんだよ」  アルトリーダーの榊言美がフォローした。テノールリーダーの工藤斗南がいう。 「いったんパート練に戻ろう。まだ合わせるのは早いって」  矢嶋はしぶしぶって顔つきでうなずいた。ソプラノの菊池雪央は、ぼくに向かって苦笑した。わざと協力しない河合一派に、ぼくは腹を立てた。  でも、河合たちのいうことも一理ある。人は押しつけられた選択には反発したくなるものだし、なかなか本気になれないものだ。  音楽祭まで、あと七週間と二日。      ♂  矢嶋邸の地下スタジオ。ソファーで矢嶋が熟読しているのは『校内合唱コンクール成功のポイント』だった。スタインウェイでぼくはひたすら課題曲の《若い翼は》と、自由曲の《歓喜の歌》を交互に弾いた。矢嶋がぱたりと本をとじて、両手を膝に置いた。 「おれが勝手に決めたのは失敗だったと思うか?」  こいつが相談なんてめずらしい。ぼくは演奏の手を止めて、矢嶋に向きなおった。 「おまえは、なんで《歓喜の歌》にしたの」 「《天使にラブソングを(シスター・アクト)2》を観たんだ」  真顔でいわれて、ずっこけそうになった。「そんな理由かよ」 「それだけじゃない。《歓喜の歌(オード・トゥ・ジョイ)》は人類愛を歌った、ベイトゥーヴェンの最高傑作だ。今世紀の始まりに、ふさわしいと思わないか」 「人類愛ね」ぼくは首をひねった。「みんなはさ、詩の意味はわかんないで歌ってんだよ。意味がわからなきゃ、気持ちの込めようがないだろ。そういうところで入りこめないやつ多いんじゃないかな。あれはドイツ語じゃなきゃだめなの? せめて英語にするとか」 「《Joyfull, Joyfull We Adore Thee》は、ただの賛美歌(ヒムナンバー)だ。ぜんぜんちがうんだ」 「ドイツ語でがんばるにしてもさ、きちんとシラーの詩の意味を説明して、改めて曲の魅力をプレゼンテーションしたらいいんじゃない? みんなもやる気になってくれるかも。それでだめなら、いっそ曲を変える。どう?」 「いやだ」 「なんでよ」 「一つ譲ると、百奪われる。おれが育ったのは、そういう場所だった。だから、おれは譲らない」  矢嶋の三白眼の光は硬かった。たしかにニューヨーカーって主張が激しそうだもんな。ぼくはため息をつく。 「詩の意味を説明するくらいは、いいんじゃないの? あんまりつっぱると、また(ひと)りになっちゃうぞ。まあ、おまえは孤りのが気楽なのかもしんないけど」  矢嶋は考えこむように顎に手を当てて、マグカップのあどけないビーグル犬を睨んだ。きょうはエチオピア・ジマ・ゲラだ。あいつは不意に鋼色(スチールグレー)の目をあげた。 「おれってハゲると思う?」  ぼくは笑った。「急になんの話」 「おまえ、いったじゃないか、そんなヘアカラーじゃ将来ハゲるって」  いったような気がするけど、冗談だったのに。ぼくは苦笑した。 「ビッグタケシさんハゲてないし、大丈夫だろ。あれってほぼ遺伝らしいぜ。……あ、そっか。おまえって養子か」  矢嶋はそっぽを向いた。あいつは無表情だったけど、ぼくは申しわけない気持ちになった。自分のルーツがわからないのは、きっと不安なことだ。親の顔も素性もはっきりしない。もしかしたら遺伝病の因子だってあるかもしれない。ぼくだったら自身の不出来をぜんぶ遺伝子のせいにして、ひねくれていただろう。矢嶋はぽつりという。 「音楽祭、三月のいつだっけ」 「十四日。ホワイトデーだよ」 「ホワイトデイって?」 「そっか、あっちにはないか。日本だとバレンタインデーに女子にチョコをもらったら、ホワイトデーに男がお菓子を返すんだよ。まあ、おれは関係ないけどな」 「キクーチさんがくれるだろ」  菊池がぼくにチョコ? 首筋が痒くなって、ぼくは火照ってくる頬を押さえた。 「も、もらえるかなぁ?」  矢嶋はしらけた顔。「さあ」 「そこは前向きな言葉をくれよ」 「おまえがあげればいいじゃないか。シュゥマンのCD渡してないんだろ?」矢嶋は歯列矯正器を剝きだした。チェシャ猫の笑み。「二月十三日は予定入れるなよ」 「なんで」 「なんでも」矢嶋はソファーから腰をあげて、ぐっと伸びをしてから、すとんと肩を落とした。「まずはシラァを訳すのを手伝え」 「話をころころ変えないでくれます?」      ♂  冬の朝の光。昇降口前に人垣、クラスの知った顔が何人か。囲まれていたのはチビの清水俊太。いや、清水の腕の茶色い子犬だ。垂れた耳に、尖った黒い鼻、小さな尾っぽを一二〇のメトロノームみたいに振ってる。ぼくは近寄った。 「どうしたんだ、それ」 「捨て犬だと思うんだけど、ぼくんちクリリンいるからだめなんだ。飼えそうなやつ知らない?」  クリリンは清水家のゴールデンハムスターだ。ぼくは子犬の耳もとを撫でた。ジャーマンシェパードのような、シバイヌのような、正統派の雑種だ。やつは気持ちよさげに黒い目を細めた。真っ先に鋼色(スチールグレー)の三白眼が浮かんだ。 「矢嶋にきいてみたら? あいつ、犬を亡くしたばっかりだから」 「そうだね。あいつんち、庭広いもんね」  清水は小魚みたいな目を輝かせた。  ぼくと清水は北・南校舎の連絡路で待ちかまえた。 「かわいいー!」  叫んだのは菊池だ。菊池の手を子犬はサラミ色の舌で舐めた。菊池はくすぐったそうに笑った。 「わー、イヌ!」  こんどは芝賢治だ。シバケンは子犬を抱っこして、やさしく優しく撫でた。子犬はうとうと眠りかけた。ぼくらは白い息を吐いて、わちゃわちゃとしゃべる。 「なあ、イヌのチンポって骨あんだぜ。なんかずるくねえ?」 「こら、女子いるんだぞ」 「名前、どうしよっか」 「小さいからチビで」 「すぐ大きくなるよ」 「ネコのチンポは格納式でさ、ニンニクの芽みたいなひゅっとした形で……」 「黙れ、エロヤンキー。もう口をひらくな」 「コロとかムクとか」 「もっと凝ったのがいいよ」 「イヌなんか、タローかジローでいいだろ」  とうとう現れた矢嶋は、シバケンを認め足を止めた。ガンの飛ばしあいになったものの、子犬がくんくん鳴くと二人ともそれどころではなくなった。ぼくは笑顔で指差す。 「矢嶋ぁ、こいつ飼わない?」 「サーが死んだばかりだ」  そういいながらも矢嶋は、シバケンの腕の子犬から目を離さない。何かもう一押しあれば……ぼくは説得の材料を探した。シバケンがいう。 「あっ、センパイ。おはようございます」  昭和なリーゼントコンビ。般若と鷹こと、目黒とユーヒだった。茶髪の目黒は矢嶋にガンを飛ばしたが、黒髪のユーヒは子犬を撫でて話しかける。 「なんだおめえ、そのうるうるおめめはよ。かわいいな、こんにゃろ。よーしよし」  いままでで一番長くしゃべったな、この人。ぼくは笑いそうになった。清水がいう。 「名前、どうしたらいいですかね」 「うーん、そうだな」  ユーヒは子犬を抱きあげて、あやすようにゆさゆさ揺すった。目黒が仏頂づらで後ずさった。 「こっちにやんな」 「なんでよ、かわいいじゃん」 「犬は(でえ)っきれえなんだよ。しっ、しっ!」 「いい子だなぁ。おれ、もらっちゃおっかな」  ユーヒの言葉に、矢嶋が反応した。 「だめだ、おれのだ」  矢嶋は子犬を奪った。ユーヒはにやりとした。 「なら、名前はおめえが決めろ」 「じゃ、タローかジローで」  シバケンが茶々をいれた。矢嶋の腕の子犬はゼンマイ仕掛けのように尾っぽを振った。ふふっと矢嶋は笑いかけた。 「ジャイロォ! ジャイロォがいい。シッポがよく動くから」  目黒はじりじりと後ずさりつづけた。矢嶋はにっこりして、ジャイロを差しだした。うわあっ、と目黒は叫んで全力疾走で逃げた。矢嶋は声をあげて笑った。 「毎日つれてこようかな」      ♂  次の学活の時間、教壇に立ったのは学級委員長・工藤じゃなく子犬づれの矢嶋だった。ぼくも補佐として隣にいた。矢嶋はすうっと深呼吸し、片手をあげた。 「おっすオラ悟空!」  沈黙が教室を支配した。人は理解できないものに遭遇したとき、驚くよりも固まるという。あの孤高のレインボー矢嶋サマが、なんとおっしゃった?  矢嶋の白い頬が、じわりとピンクに染まった。やつは厚焼きパンケーキみたいな手で顔を覆って、でかい図体をねじった。 「……スベったぁー」  あちこちで噴きだす気配。女子のくすくす笑い。矢嶋は顔をジャイロの背中にうずめてから、ぼくを睨んだ。涙ぐんだ三白眼。 「どうすんだ、笑われたじゃないか」 「おれのせいかよ」 「おまえが絶対うけるっていったんだろ」 「絶対とはいってねえよ。人のせいにすんな」 「おれのイメージを返せ」 「返せるか、そんなもんっ」  教室が大爆笑の渦に(おちい)った。菊池も工藤も榊も清水俊太も、担任の香西博文でさえ笑っていた。ぼくは笑いの渦の中心を指差す。 「ほら、うけたじゃん」 「うけてるんじゃなくて、笑われてんだ」 「同じだろ」 「ぜんぜんちげえよ」 「それよりも、本題」  矢嶋は咳払いして、いつもの真顔に戻った。 「今回、司会を譲ってもらったのは、ほかでもない。《歓喜の歌(オード・トゥ・ジョイ)》について、説明不足の点があったので、改めて理解を深めてもらう機会にしたいと思います」  矢嶋は各先頭の席のやつに人数ぶんのプリントを配った。ぼくは《歓喜の歌》の訳を、白いチョークで板書した。ぼくは清水みたいに字はうまくないけど、読みやすいねっていってもらえるんだ。黒板には次のような言葉がならんだ。 〝友よ このような音ではないのだ!  われらはもっと快い  もっと喜びにあふれた歌を  歌おうではないか  歓喜よ それは神々の閃光  うつくしきエリュジウムの乙女だ  われらは炎のように酔いしれて  天上なる喜びの聖地へと歩み入ろう  時流が過酷にも引き裂いたものを  その魔力は再び結びあわせる  そのやさしき翼に抱かれ  すべての者は兄弟となる  友にとって真の友となるという  快挙をなしとげた者  心通わす伴侶を得た者は  その歓声に声を合わせよ  そう 地上にたった一人でも  わが魂といえる者があるなら  その歓声に声を合わせよ  そして それがついにできなかった者は  涙してこの仲間の輪を去るがいい  すべての存在は自然の御胸にて  乳房から歓喜を口にし  すべての善人とすべての悪人は  神々の薔薇の小径をたどる  口づけと葡萄の木と  死の試練を受けた友を  彼女はわれらに与えたもうた  快楽は虫けらにも与えられ  智天使は神の御前に立つ  天の壮麗な計画どおり  かの太陽たちが喜ばしく翔けるように  兄弟たちよ 勝利を得た英雄のごとく  喜びとともにおのが軌道を走れ  万人よ 抱きあおう!  この口づけを全世界へ!  万人よ ひれ伏すか  世界よ 創造主を予感するか  星々の天蓋にあの方を求めよ  星の果てに必ずやあの方は住みたもう〟  黒板を眺めて、ぼくはふうっと息をついた。矢嶋と一緒にライナーノーツや辞典と首っぴきで練りあげた訳詩だ。そのころにはプリントはみんなに行きわたってた。ドイツ語の原詩と、日本語の訳文が併記されている。なんか聖書みたいだね、と誰かがいった。段ボール箱から出たがるジャイロをなだめつつ、矢嶋はとうとうと解説する。 「第九は、日本じゃサントリーの年末コンサァトで有名だけど、有名すぎて逆によく知られてないんじゃないかと思う。《交響曲第九番》は、ベイトゥーヴェン最後のシンフォニィだ。ちなみに第十番は未完で終わってる。第九の全四楽章をフル演奏すると、七〇分くらいかかる。CDの収録時間は約七十四分なんだけど、これはCDが開発されたとき、第九を一枚できけるといいってヘルベルト・ヴォン・カラジャンが意見したからだって話が伝わってる。《歓喜の歌(オード・トゥ・ジョイ)》は、おしまいの第四楽章が半分すぎたころに、やっと始まるんだ。〽O Freunde, nicht diese Tone! Sondern last uns angenehmere anstimmen und freudenvollere……友よ、このような音ではないのだ。ここはシラァの詩じゃない、ベイトゥーヴェンの完全なオリジナルだ。否定しているのは、それまでの演奏じゃなく、教会による何世紀にもわたる冷たい支配と迫害だ。エリュジウムは、ギリシア神話の楽園の名前で、他にもベイトゥーヴェンはギリシア語を多用して、中世キリスト教的な価値観と一線を画そうと苦心してる。それと、〽Deine Zauber binden wieder, Was die Mode streng geteilt; Alle Menschen werden Bruder……すべての者は兄弟となる。ここがベイトゥーヴェンが一番いいたかったことなんじゃないかと、おれは考えてる。主題(ティーム)は博愛、人類愛だ」  矢嶋は赤いチョークでカッカッカッと力強く板書した。威喝い筆跡の、。それを丸で囲む。ジャイロが首をかしげた。 「そういう大きなティームの歌であるから、コォラスにも壮大さが必要なんだ。協力してほしい」  矢嶋は教卓に両手をついて、グリーンの頭をさげた。たっぷり五秒。みんなはしんとした。矢嶋は顔をあげて、ぎこちなく笑みをつくった。 「何か意見や質問のある人は?」  清水が手をあげた。なんでもいいから発言してくれと、ぼくが頼んでおいたのだ。矢嶋に指名され、清水は席を立つ。立っても小さかった。 「キリスト教の歌かと思ってました。ちがうんですか?」 「ここでいう神は、舞台装置みたいなもんだ。さっきもいったとおり、ティームは人類愛で、主役はおれたち、人間だ」  矢嶋はうなずいた。榊が手をあげた。潤んだ垂れ目。 「すごくかっこいい歌だったんだなって思いました。これからはもっと誇らしい気持ちで歌いたいです」 「ありがとう」  バスリーダーの萩山大輔が手をあげた。太鼓腹に布ベルトをずりあげる。 「この出だしんとこ歌うの、ぼくなんですけど、音楽祭でこれやっちゃうと、なんか他の組の歌を否定してるっぽくきこえませんかね」 「大丈夫だ、ドイツ語だから」  矢嶋は笑った。みんなも笑った。河合が手をあげた。額に横皺が寄ってた。 「そもそも、この曲じゃなきゃいけない意味がわかりません。ぼく、《夜空ノムコウ》がよかったんですけど」 「そう思うなら、どうして課題曲を決めるとき意見しなかったんだ。今さら別の曲にすれば、それだけ他の組に遅れをとるんだぞ。おまえは責任とれるのか」  矢嶋は冷たくいった。河合はふてくされた顔で着席。責任は河合の一番嫌いな言葉だ。  ターミネーター矢嶋のキャラ変とプレゼンに対し、クラス一同は歓迎ムードに見えた。ぼくはジャイロを撫でつつ、親指を立てた。矢嶋も親指を立てて、その拳をぼくの拳にぶつけた。      ♂ 愛よ愛に愛の愛とか愛ならば愛が愛って愛は愛だろ      ♂  校舎二階の音楽室に、二年F組の合唱が響いた。まえよりぐっとまとまりが良くなってる。けど、河合はハナから試合放棄で、音羽以下四人組は口パクだった。一生懸命、矢嶋が指揮してるのに。グランドピアノを打鍵しながら、ぼくは顔をしかめた。弾き終えたとき、矢嶋が手を肩に置いた。 「何をそんなにイラついてんだ」  ぼくは両手をマッサージした。「べつに」 「右手、どうかしたか」  矢嶋のでかい手が、ぼくの右前腕をつかんだ。演奏のしすぎで手首が薄っすら痛かった。見抜かれて、ぎょっとした。 「いや、少し()りそうなだけ。湿布貼っときゃ治るだろ」 「すぐ保健室でテイピングしてもらってこい。きょうはもう弾くな」  有無をいわさない感じで矢嶋は命令した。大げさだと思ったけど、ぼくはいわれたとおり一階の保健室へ向かった。ぼくが無理に弾かなくても、カセットテープの録音で練習は可能だった。  三笠裕子先生に湿布を貼ってもらって、ぼくは音楽室へとって返した。《歓喜の歌》のテープレコーダーの伴奏が流れ、しかし合唱はきこえなかった。人垣の中心で音羽が声もなくぼろぼろ泣いていた。演技じゃない、ほんとの泣き顔。樋口と長谷川法子と堤香織が慰めてた。矢嶋と河合がおっかない顔を突きあわせてる。矢嶋は低い声をだす。 「おまえの頭じゃわからないか。王子は襤褸(ぼろ)をまとっても王子だ。サルは冠を戴いてもサルだ。おまえはおとなしくバナァナでも食ってろよ」 「てめえっ!」  河合がつかみかかる。矢嶋は手の一振りで往なした。 「さわんじゃねえよ。ハゲがウツんだろ」 「ハゲてねえよ」 「おまえの親父ハゲだから、おまえもハゲるぜ。もう分け目のあたりヤバいんじゃねえの」  河合の目に怯えの色が走る。河合の父親の髪型は、灰色のカヴァーをしたU字型便器と遜色ない。なぜ矢嶋が知ってるんだろう。このあいだ授業参観に来てたのは、あの母親のほうだったのに。矢嶋は鼻で笑う。 「せいぜい今のうちに楽しんどけよ、髪も女もな」  クラス一同が笑う。冷たい笑いだった。なんでだろう、みんなの気持ちが河合から離れたのがわかった。河合は負け惜しみのように喚いた。 「ふん、たかが音楽祭でマジんなって、バカじゃねえの。おれはぜってえ歌わねえかんな。優勝なんかクソくらえだっつの」  音楽祭まで、あと四週間と六日。      ♂ 「北浦が保健室行ったあとね、河合が北浦の悪口いったんだ。んーと……怒んないでね? 片親の貧乏人だから栄養状態がどうのこうの……みたいな。それで、矢嶋がキレて。いくら人の妨害したって無駄だ、おまえの底の浅さは変わらない、って。ほら、北浦の机にブラジャー入ってたことあったじゃない。あれもカウアイがオダワァに命令してやらせたんだもんな、って矢嶋がいって。河合の目ぇ泳いでたよ。なんで、あたしがわざわざそんなことすんのよ、って音羽さんが反論したんだけど。すきだったんだろう、でもこの男にそれだけの価値はない、こいつはおまえを利用してるだけだ、って。そしたら、音羽さん、泣きだしちゃって。で、矢嶋が河合にいったんだ、王子はボロをまとっても王子だけど、サルは冠をいただいてもサルだ、って。英語のことわざなのかな?」  保健室の長椅子で、清水はの縫いぐるみを投げてよこした。ぼくはキャッチした。 「王子って?」 「北浦のことじゃないの?」  ぼくは首をひねった。ぼくのどこが王子なんだ? 矢嶋のほうが、よっぽど王子らしい。ぼくはたれぱんだを投げかえした。 「なんで今さら蒸し返したんだろ」 「チャンスをうかがってたんじゃない? 今、矢嶋の好感度あがってるから」清水はたれぱんだをぐにぐにと押しつぶした。「女子がファンクラブつくろうかって相談してたよ。ぼくも背が高かったらな」 「身長以前に、女子としゃべれるようになろうぜ」 「菊池さんとは、少ししゃべれるようになったよ。あの子、やさしいよね」  清水の大ぶりの耳が赤らんだ。ぼくは無言でやつにチョークスリーパーをかけた。  菊池は何も知らず、榊と篠崎由江と山岸希望と一緒に三笠先生の肩叩きをしてた。花ある君と思いけり、とぼくはつぶやく。菊池はいい笑顔を見せている。      ♂ 真打ちの少年漫画のヒーローはいいやつなのになぜかモテない      ♂ 「なんで河合の父親がハゲって知ってたんだ」  矢嶋邸の地下室のソファーで、ぼくは尋ねた。きょうはピアノは休み。子犬のジャイロは大興奮で歯磨き用の骨を齧ってる。ちょっとばかり(のみ)がいたくらいで、まったくの健康体だと獣医は太鼓判を押したらしい。矢嶋はコーヒーをすすって、なんでもなくいう。 「超領域(スーパーフィールド)のこと、話したろ?」  去年の秋、ファミレスできいたけど、信じたわけじゃなかった。ぼくは腕組みした。 「親の顔が見えちゃうわけ?」 「べつに親にかぎらないけどな」一見、酷薄そうな鋼色(スチールグレー)の三白眼。それが、ぼくの目の奥にしばし焦点を結んだ。「おまえの母親、ティンクに似てるんだな」  ぼくはたじろいだ。は竹宮朋代のことだ。そう、似ているのだ。色白なところや、髪の長いところ、何よりも笑ったときの顔が。矢嶋の威喝い手が、ぼくの右手の湿布をさすった。 「痛かったか、定規」  ぞっとした。母に叩かれたことは、父にすら話してなかった。矢嶋のグレーの目は、曇天の湖のように静かだった。 「なんで? どうして? っておれがきくたびに、母親はいったよ。そんなの、あたりまえでしょ、って。それで反対にきくんだ。なんで知らないの? どうしてわからないのよ? って。おれが四つや五つのころだぞ。知識が無いのも、道理が呑みこめないのも、あたりまえなのに。この人は、ぼくがすきじゃないんだな、って思った。それから、こう思った。まあ、しょうがない、おかあさんだって人間だからすききらいくらいあるよね。けなげだと思わない?  おれはじいちゃんと仲よくすることにした。父親は仕事人間で家にいなかったし、じいちゃんちはすぐ近所だったから。じいちゃんはひとりで住んでた。ばあちゃんは、おれが三つのときに亡くなってて、何もおぼえてない。おれが行くと、おぅ、八尋、来たかぁ、ってじいちゃん、顔面しわくちゃにして笑うんだ」 「ヤヒロ?」 「よくわかんないけど、子供のうちはちがう名前で呼ぶ風習が昔はあったみたい。おれがいろいろ質問責めにしても、じいちゃんはいやな顔せずに答えてくれた。じいちゃんは、なんでも知ってたよ。まあ、インチキもいっぱい教わったけどな。たくさん、お話してくれた。おれを膝に乗っけてさ。  じいちゃんの生家は東京の本所(ほんじょ)洗張(あらいは)り屋だった。洗張りって知らないだろ? 上等の着物をいったんほどいて洗濯して、板に張って皺を伸ばしてから、元のかたちに仕立てる仕事。早い話が、着物のクリーニング屋。けっこうな大店(おおだな)だったらしい。その店の屋号が、辰屋(たつや)っていったのな。おれのファーストネームはそっから来てるわけ。ちなみに、じいちゃんのじいちゃんが龍右衛門(たつえもん)、じいちゃんの父親が龍之丞(たつのじょう)、じいちゃんの兄弟が上から順に龍彦(たつひこ)龍房(たつふさ)龍巳(たつみ)龍良(たつよし)っていうのね。名前の音が、ひぃ、ふぅ、みぃ、よぉになってんの。じいちゃんは三男坊だった。長男の龍彦はすごく頭が良くて、帝国大学に進学したがったんだ。でも、じいちゃんの父親は、商人(あきんど)に学問はいらねえって頭の古い人で。龍彦は父親と大喧嘩して家を飛びだして、女んとこで梅毒をもらって、それが脳に回って狂い死にした。次男の龍房は店を継ぐ気でいたみたいだけど、関東大震災で家の梁の下敷きんなって、火に巻かれて死んだ。四男の龍良は生まれてすぐ養子に出されて、その後の消息はわからないって。  関東大震災って大正十二年にあったすげえでかい地震ね。西暦に直すと……えーっと、一九二三年。そんとき、じいちゃんは尋常小学校の六年生だ。九月一日の正午ごろ。じいちゃんは二学期の始業式をすませて帰る途中だった。その瞬間、めまいみたいな気味の悪い感じがして立ち止まったって。ズンズン地面が響いて、激しく縦に揺れだした。道がバックリと長く裂けて、建物は(きし)んでひしゃげて崩れた。それから、大きな揺り返しが何度も来た。昼どきだったせいもあって、あちこちで火の手があがった。当時は(かまど)だろ。そのうえ、その日は風が強かった。火災はみるみる拡がった。ヒフクショウへ行けー、ヒフクショウへ行けー! って駐在さんが叫んでたって。みんな、われ先にヒフクショウへ急いだ。じいちゃんもそこへ走った。ヒフクショウってなんなんだか、おれはわかんないんだけどな。とにかく、だだっ広い空地みたいな場所だ。いちめんに避難者が家財道具とともにひしめいてたって。そのうちに、そこにも火が迫ってきた。持ちこまれた唐傘やら箪笥(たんす)やら大八車やらが燃えだした。でも、人間がめちゃくちゃ密集してたもんだから、みんなまともに逃げることもできなくて、あぶられるように焼かれてった。あっというまに育ちきった炎が、まるで竜巻みたいにグルグル回りながら、ゴウゴウ轟きながら吹き荒れた。凄まじい熱と煙だ。じいちゃんはほうほうのていで地べたを這って、運よく大きな水たまりに行き当たった。あついよぅ、あついよぅ、って泣きながら泥水をかぶってすごした。それだってお湯になってたけどな、必死で髪と着物を濡らしつづけた。さもなきゃ燃えちまう。火の粉が雨あられって降ってくんだから。それは長い、長い、長い時間だったって。ふと気がついたとき、その一帯は見わたすかぎり焼け焦げて(ただ)れた死体が折り重なってた。震災の死者十万人のうち、四万人がそのヒフクショウで死んだんだ。隅田川も溺死した人たちの体でいちめんに埋めつくされてた。もし熱さに負けて川へ入っていたら助からなかったろうな、って思ったって。  太平洋戦争って今はいうけど、大東亜戦争っていう呼びかたを当時はしてた。じいちゃんは徴兵試験に甲種合格して、ニューギニアのラバウルに送られた。南海の激戦地だ。じいちゃんは炊事班長をつとめた。最初はよかったんだ。輸送船で物資がたっぷり届いたから。そのうち日本の戦況が悪化して、船が撃沈されるようになった。深刻な食料不足。じいちゃんは島の土人たちと仲よくなった。軍のなかには彼らをいじめる連中もいたらしい。でも、じいちゃんは全然えばらなかったから、ハンチョーって呼ばれて慕われた。蛇の(さば)きかたとかのサバイバル術を教わったって。蛇の首まわりに切れ目をいれて、頭を押さえて皮を尾っぽへ向けてひっぱるとキレイに剝けるんだってさ。そんで蛇やら蛙やらをミンチにしてコロッケをつくった。みんな、うまい、うまいって食ったけど、何でつくったもんか教えたら吐きそうな顔したってさ。もちろん、戦闘もあった。じいちゃんは敵兵に肩を撃たれた。焼け火箸を突っこまれたような激痛だったって。足手まといになりたくなくて、置いてけってみんなにいったけど、仲間はじいちゃんを担いで連れてった。ほら、飯が食えなくなるからさ。弾は貫通してたおかげで大事には至らなかった。じいちゃんの左肩には弾の痕のケロイドが残ってたな。知ってのとおり、日本が負けて戦争が終わった。そのとき、土人たちにえばってひどいことをしていた上官は、彼らに袋叩きにされて半殺しの目にあったって。でも、じいちゃんは何も悪いことをしなかったから無事に帰ってこられた。だから、おまえもどんな場合でも人には親切にしておくんだぞ、状況が変わるかもしれねえからな、っていうのが、じいちゃんの教訓だった。  終戦からしばらくして、じいちゃんは小田原の宿屋で働いた。(まき)を割ってると女の悲鳴がきこえた。見にいくと庭先で(あるじ)の娘が転んでた。それが、おれのばあちゃんだ。足もとにヤマカガシがいた。そのころはヤマカガシに毒はないって一般的には考えられてた。でも、じいちゃんは、あんな派手な蛇が無害なわけはないって思ったって。じいちゃんは蛇の首を鉈で切り落として、ばあちゃんの足の咬み痕から血を吸い出した。あとで、ばあちゃんはお礼に手縫いの手甲をくれた。それをじいちゃんの手に嵌めてくれながら、ばあちゃんは真っ赤んなってたって。女学校でたての十七のばあちゃんは切れ長の目をしっとり潤ませて、妙に色っぽかったってさ。ふたりの恋は燃えあがった。明治の末に生まれたじいちゃんと、昭和の頭に生まれたばあちゃんは、ひとまわり以上も齢が離れてた。ふたりは家の者の目を忍んで逢引を重ねた。でも、やがて主の知るところとなった。じいちゃんは即刻クビ。ばあちゃんはよそへお嫁に遣られそうになった。ふたりは手に手をとりあって駆け落ちした。そのとき、ばあちゃんのおなかにはもう、じいちゃんの子がいた。上大岡に小さな土地を借りて、じいちゃんが自力で小屋を建てた。大工の心得なんてなかったけど、手先の器用さだけでやってのけた。風呂もない掘っ立て小屋の六畳一間での、二人とおなかにもう一人暮らしは大変だったけど、楽しかったって。そして、その夏の終りに、おれの父が生まれた。  おれはじいちゃんが大すきんなった。幼稚園から帰ると、黄色いかばん放りだして着替えもそこそこに、じいちゃんちへ飛んでった。ところがさ、おれがじいちゃんになつくと、母親が不機嫌になった。じいちゃんのこと話したりすると、あからさまにいやな顔して、ひどいときは口も利いてくれなくなった。おれはわけがわかんなかったよ。なぜ、この人はぼくがきらいなのにヤキモチなんて焼くんだろうって。かなしかったから、おれはじいちゃんの話題をさけて、じいちゃんちに行くの控えた。母親はおれの肩をつかまえて、目をジッと覗きこんで、こうきいてきた。わたしとおじいちゃん、どっちがすき? おれはいつだって噓ついた。母親は満足そうに笑ってた」  ロングヴァージョンの思い出話を終えて、ぼくはコーヒーで口を湿した。ジャイロは骨に飽きて、矢嶋の膝で舌をだしてた。ぼくはウェルシュコーギーのマグカップを置く。 「おれの母親は、そういう身勝手な女だった。それでも母親だからさ、すきだったよ。じいちゃんの二番目にな。その当時は。今は大っきらいだけどな。ヤキモチ焼くくれえなら、もっと可愛がれって話だよ。なあ、同情してほしくていってんじゃねえよ。正直に話しただけだ」 「おまえは、まちがってる」  ぼくは隣の男を見た。矢嶋はジャイロに豚毛のブラシをかける。 「何が」 「おまえの母親は嫉妬してたんじゃない。おまえをコントロールして優越感にひたってたんだ。愛情や愛着とは関係なしに」  ぼくは錆びた釘で胸をえぐられたように感じた。母親のささやかな愛執だと思っていたものを全否定されたから。 「おまえは地球人だ」矢嶋は真顔で手を動かした。「おまえの母親はエイリアンだよ」 「何いってんの」 「もちろん、たとえとしてだ。エイリアンにはトカゲ並みの心しかない。罪悪感とか、克己心とか、思いやりとか、愛とか……そういう深い感情は持たない。ただ、やつらは地球人の真似がうまい。擬態して、まぎれこんでる。そのほうが生きやすいから。エイリアンは地球人のことがよくわかってる。地球人はエイリアンのことがわからない、そもそも存在することすら。そして餌食にされる。おれのいうこと、わかるか」  いつかのシバケンの言葉を思いだした。ああゆうのは、いつの時代にも、どこの国にも、たくさん生まれてくんだ、工場の欠陥品みてえにさ、キタはこれから何人ものカツラギチカラに出会う。ぼくはうつむいた。 「たぶん」 「エイリアンは地球人を利用する、(さげす)む、(おとし)める、(しいた)げる。ただ勝利感にひたるためだけに。それが、やつらの唯一の強い感情だから。カツラギみたいな脳みそのないやつは、それほど危険じゃない。見ればわかる。ほんとうにこわいのは、頭が良くて魅力的なエイリアン。やつらはうんと巧妙なやりかたをする。どいつが地球人で、自分の思いどおりにできる相手か、きちんと見抜く。おまえは見抜かれたんだ、カウアイに」  ぼくは頭をあげた。矢嶋の真顔から、感情は読めなかった。 「あいつはエイリアンだ。おまえの母親と同じ」 「あいつも母親に似てるっていいたいのかよ」 「おまえへの態度がだよ。おまえはどう思う」  似てる……かもしれない。母親も口をひらけば自慢と悪口ばっかりだった。自分の都合や理想ばかり押しつけて、ぼくが思いどおりにならないと不機嫌になって無視した。急に底抜けに心細くなった。ぼくはこれから何人もの河合省磨に出会うのだろうか。 「おれはどうすりゃいい」 「おまえの得意なことに集中しろ。やっちゃいけないことは二つ。自暴自棄になるな。あいつの思うつぼだ。それから、悪意で張りあおうとするな。エイリアンと同じリングにあがったら、必ず負ける。やつらは痛みを感じない。地球人のおまえは消耗するだけだ。あいつのできないことで闘えばいい」  矢嶋は頬笑んで、ジャイロをぼくの膝に乗せた。あたたかい小さな生きもの。 「おまえは高いところに立って、あいつを哀れんでやらなきゃいけない」      ♂ ラバウルの蛇を捌いたつわものの明治の祖父も逝きて雪降る      ♂  寒い晴天の放課後、ぼくはドビュッシー《パスピエ》を口笛しながら正門へと向かった。せつなくて軽やかな四分の四拍子。前を行く矢嶋の背中がいう。 「きょう、暇か」 「暇といえば暇だけど」 「髪切りたい。つきあえ」 「そういえば、十三日も予定空けとけっていってたよな」 「考えたら、十三日は火曜日だろ。美容室(ビューティーパーラー)がやってない」  ぼくは自分の髪をさわった。だいぶ伸びてきてる。去年の秋、バリカン目黒に刈られてそのままだ。 「あんまり持ちあわせないや」 「立て替えてやるよ」  矢嶋はいった。ぼくらは保土ヶ谷駅前までぶらぶら歩いた。ぼくはまた《パスピエ》を口笛した。右の足を繰りだし、左の足を繰りだす。右の足を繰りだし、左の足を繰りだす。途中、矢嶋はケータイで予約をいれた。  第二金曜の午後、三連休を控えて保土ヶ谷駅前は学生でにぎわってる。近所の私立女子高のセーラー服が目立った。お姉さまがたは矢嶋を見て色めき立つ。かっこいー‼︎ ぼくは何も考えず、矢嶋の後ろにくっついてった。  矢嶋は環状一号線沿いの、とある美容室の短い階段をあがった。白っぽいガラス張りの店構え。ぶ厚いガラスに、Jamais Vu。たぶん、フランス語だろうが、意味はわからなかった。料金表には、CUT4,200~。ぼくの馴染みの理容店の倍の値段だ。ぼくは怖気づいた。 「ここ、高い。遠慮するわ」  階段上で矢嶋は苦笑した。「じゃあ、奢ってやるから」 「おごられる理由がない」 「クリスマスプレゼント」 「二ヶ月前だよ」 「お中元」 「五ヶ月先だよ」 「サーにピアーノを弾いた報酬ってのは?」 「いや、それはカネもらったし、菊池のために録音させてもらったし」  矢嶋はいらだったようだ。片手を腰に当てる。「おれのいうこと、きくっていったよな?」 「そりゃピアノに関してだ。それ以外は知るか」 「ごちゃごちゃうるさい。いいから来いよ」  矢嶋は顎をしゃくった。片びらきの自動ドアから現れる髭の顔。お兄さんとおじさんの境界線の年の頃だ。整ったツーブロックの茶髪で、着てるものもおしゃれっぽかった。ぼくはなおさら気後れした。 「ケンくん。待ってたよ。入りなよ」 「予約の二名で。そいつはカットのみ、おれはヘアカットとダァイング」  矢嶋はさっさと入店した。髭の人に笑顔で招かれ、ぼくは逃げるきっかけを失った。  白ずくめの広びろした店内に、十名ほどのスタッフ。その一人に待合席で質問票を渡された。髪質やアレルギーは? 要望や注意点は? 最後に切ったのはいつ? ぼくはいちいち悩みながらボールペンで記入した。矢嶋はでかい鏡の前に座って、髭の人と施術の相談をしてる。ぼくは自分のぼろぼろのスニーカーが気になった。  冬の透きとおった鏡。矢嶋の隣のスタイリングチェアに、ぼくは座った。ぼくの担当は、ベリーショートの背の高い女の人。イブカです、と彼女は名乗った。、と左胸の名札。それは胸の膨らみにそって斜め上を向いていた。よろしくお願いします、とぼくは鏡に目礼した。井深さんは頬笑んでから、質問票に目を落とした。 「カットですね」 「はい、つかめるくらいの長さで」 「希望のイメージはありますか」 「えっと……流行りとかよくわかんないんで、おまかせします」  井深さんは鏡ごしに笑った。アビシニアンっぽい、エキゾチックな雰囲気。彼女は櫛でぼくの髪を梳いて、毛の流れや癖をチェックした。女の人の花奢な手。シャンプーやカラーリングのせいか肌荒れしてる。ぼくはどぎまぎしてしまった。菊池とだって手も繋いでないのに。スニーカーが臭ったりしないかと気になった。  井深さんはぼくに霧吹きを使って、ヘアピンで毛を分けて、小気味いいリズムで鋏をいれた。毛が銀のケープに落ちる。このヘアカットのときの、鏡に向かってる時間が苦痛だった。自分の顔は嫌いだ。長らく向きあっていると、嫌でも造作の粗が目につく。それによく知らない大人と何をしゃべっていいかわからない。かといって沈黙も気詰まりだった。 「髪、ぜんぜん傷んでないですね」 「染めたことないので」  井深さんは世間話を試みたけど、ぼくが短い返事を繰りかえすと、カットに集中する方針にしたようだった。彼女の指先のやさしさにどきどきしながら、ぼくは自分の顔の不細工さにため息をついた。矢嶋みたいな、もっと凜々しい顔ならよかったのに。 「商売だからいいたかないけどね、化学染料ってのは体にいいもんじゃないんだよ。髪や頭皮にダメージが蓄積されるし、それは時間が経ってもなくならないんだ。これ以上は染めないことだね。どうしてもっていうなら、ぼくみたいに天然の染料を使ったほうがいい」  隣で髭の人に矢嶋が叱られてた。髭の人は店長らしかった。矢嶋は神妙にうなずいて、鏡ごしにぼくに笑った。 「友人を紹介すると一〇(テン)%OFFになるんだ」 「マジで染めなおすの?」  ぼくは尋ねた。髪を黒くしなければ舞台に立たせないと小ウザイがいったけど、本当に従うとは思わなかった。 「この色、飽きたんだ」  矢嶋はいった。きっと、やつにとっちゃ、ほんの気まぐれなのだろう。  髭の店長に髪をカットされながら、矢嶋はFMラジオのように饒舌だった。学校での面白おかしい話・両親への不平不満・進学先への期待と希望。こいつって、こんなにおしゃべりだったっけ? もう一年近いつきあいになるけど、まだ見てない顔がいくつもあるのだろうな。  先にぼくのカットが終わった。曇りない鏡のなかのぼくは、今っぽいスタイリッシュな髪型になってた。毛の癖を活かしたミディアムマッシュ。おかげで顔の不細工さも緩和されて見える。井深さんは三面鏡で後頭部を映してくれた。 「いかがでしょうか」 「超いいです」  ぼくは素直にいった。井深さんの尖った歯。やっぱりアビシニアンっぽかった。  矢嶋の髪にヘナが定着するまで、ぼくは待合席で音楽雑誌を読んだ。清水が好きだといっていた、のニューアルバムの記事。ぶ厚いガラスの外は明度が落ちはじめていた。  シャンプーとドライヤーののち、矢嶋の髪はごく自然なレッドブラウンに仕上がった。額を見せたサイドバック。トリートメント剤でつやつやだ。トリミングを終えたハンサムな犬に見えた。黒染めじゃないことに、ぼくはなんとなくほっとした。そんなの、矢嶋らしくない。ぼくは笑った。 「おれ、緑色がすきなんだ」 「今さらいうか」 「キャベツヘッドもよかったけど、それも悪くない」  矢嶋はにやりと歯列矯正器を見せた。  会計カウンターで、ぼくは肩身が狭かった。 「月曜日、ちゃんとカネわたすから」 「だから、返さなくていい」 「一割引きの意味ないだろ」 「じゃ、次回はおまえがおごれ」  矢嶋は鬱陶しそうにいった。代金をもってきても、こいつは素直に受けとらない気がした。ぼくはしぶしぶうなずいた。  矢嶋はパイソンの長財布から万札をだして、革のコインケースの中身をトレーへぶちまけた。余分な小銭をつまんでケースへ戻す。見慣れない十円玉大の白銅貨。ぼくはそれを拾った。 「これ、何」 「クォゥタァ」 「クォーター?」 「二十五(トゥウェンティファイヴ)センツ」 「日本円にすると、いくら」  矢嶋は肩をすくめた。「二十五(イェン)よりは高いくらい?」 「じゃ、三十円やるから、これちょうだい」  ぼくはスヌーピーの財布から十円玉を三枚差しだした。矢嶋は黙ってコインケースで受けとった。  二階のカウンター席の窓の下は、小汚い保土ヶ谷の夜の路上だった。光る窓と看板と車。生まれ育った街が、夜になると知らない国に見えてしまうのは、ぼくだけなのかな。マクドナルド保土ヶ谷駅前店で矢嶋にダブルチーズバーガーセットをおごり(カット代の八分の一だ)、ぼくは一番安いハンバーガーセット(ピクルス抜き)にした。有線で坂本龍一《Enargy Flow》が流れてた。高級美容室での気疲れが、襟足の軽さで相殺されて、悪い気分じゃなかった。  ぼくはポテトを咥えて、異国の白銅貨をためつすがめつする。片面が(かつら)のじいさんの横顔、もう片面が止まり木のハクトウワシ。いろんなアルファベットや数字、UNITED STATES OF AMERICALIBERTY1990IN GOD WE TRUST。 「イン・ゴッド・ウィー・トルストって、どういう意味」 「トスト」矢嶋は訂正した。「われらの信ずる神において」 「矢嶋は神を信じる?」 「神もサンタクロースも信じない。でも、そうだな、妖精(フェアリーズ)は信じたいかな」 「あなたは、妖精を、信じますか」  ぼくは芝居がかった声をだした。矢嶋は拍手で応じた。演劇版の《ピーター・パン》に、そんなくだりがあるのだ。 「おまえはいいな、どこへでも飛んでいけて」  なかば無意識のように、口からこぼれた。矢嶋は横浜とマンハッタンを行き来できて、自分の判断で好きな店に入れる。ぼくなんか関東からでたことがないし、何を買うにも家計と相談だった。それは時が経てば解決するのかもしれないけど、ぼくは大人になった自分自身を想像できなかった。 「返せ」  矢嶋が白銅貨を摘まみあげた。ぼくはオモチャをとりあげられた小さな子の気持ちがした。その硬貨を好きになりかけていたんだ。矢嶋はそれを両手でつつんで、祈りのように目をとじた。何してんだ、こいつ?  矢嶋は白銅貨をぼくに押し返した。ほんのりぬくもっていた。 「パゥワァを込めておいた。それ、失くすなよ」  矢嶋はSサイズのコーヒーをすすって、Yuckとつぶやいた。励ましてくれたんだろうか。ぼくは白銅貨を握りこんで、ポテトを三本いっぺんに頬ばった。      ♂ にっぽんのマクドナルドの飽食にきっちり塩を利かせてほしい      ♂  仏滅の二月十四日の朝、ぼくは髪のセットにいつもより時間をかけた。ぼくの小さなイメチェンは、矢嶋のヘアカラーの一新(黒染めじゃないのが小ウザイはご不満なようだったが、結局は諦めた顔をした)に隠れてしまったものの、すごくいいねって菊池はいってくれた。かっけえじゃんってシバケンも褒めてくれた。  ガラスに当たる雪は水を含んで重たげだった。窓際準最後尾の席で、ぼくはそわそわしてた。教卓のまわりで菊池は、榊と篠崎と山岸とお菓子の交換会をしていた。あれだ、ってやつだ。ぼくにもおこぼれがないかと熱い視線を送ると、菊池が子犬のように駆け寄ってきた。 「おっはー、北浦。収穫あった?」 「いや、皆無」  正直な申告に、菊池は笑い声を立てた。 「じゃあ、あげる」 「じゃあって何、じゃあって」  菊池は笑って、ラッピングされた手づくりクッキーの袋をくれた。榊たちと同じものだったけど、ぼくは思わず涙がでそうになった。だって人生初! のヴァレンタインデープレゼントだ。ぼくは捧げ持って菊池を拝んだ。菊池はおなかを押さえて笑った。  窓際最後尾の席のぬしがやってきた。矢嶋はリボンつきの紙袋を手にしていた。 「どうした、それ」 「知らない女子らがくれた。一年生かな」 「もてもてじゃねえか、ローミオ」  ぼくは小突いた。矢嶋は浮かない顔。 「食べたくない。手づくりなんて何入ってるかわからないじゃないか」 「潔癖症か。目ぇつむって口に放りこめよ。もったいない」 「じゃ、おまえが食べろ」 「なんでだよ。後輩、かわいそうだろ」  ロッカー側の戸口から、背の高い女子が登場した。竹宮だ。ベージュのダッフルコートに、カシミヤマフラーと水色の耳当てをしてる。教室中の視線がその子に集まるのがわかった。竹宮朋代という子には、そういう華があるのだ。 「矢嶋くぅーん、ハッピーバレンタイン」  竹宮はケーキボックスを差しだした。あの竹宮朋代にヴァレンタインデープレゼントをもらうなんて、全校男子の羨望と嫉妬を浴びるにちがいない。ぼくは他人事ながらテンションがあがった。しかし、矢嶋は矢嶋だった。 「これ、もしかして手づくり?」 「そうだけど」 「悪いけど、いらない」  竹宮の笑顔が曇った。「どうして」 「ほら、こいつ、アレルギーがあって」  ぼくはとっさに噓をついた。竹宮はぼくを睨んだ。 「なんで知ってるなら先に教えといてくれないの。ほんとオタウラって使えないんだから」 「アレルジィなんてない。人の友達の悪口いう子のプレゼントなんか欲しくないよ」  矢嶋はきっぱりといった。竹宮は顔をこわばらせた。矢嶋はやさしげな声をだす。 「それに、おれ、誰ともつきあう気ないから。迷惑だよ」  竹宮のきれいなアーモンドアイが潤んだ。涙をこぼすまいするふうに竹宮は唇を嚙んだ。 「ちょっとモテるからって、思いあがんないでよ。あんたくらいの男、いくらでもいるんだから」  竹宮はぷいっと長い髪を振って教室を飛びだした。かぐや姫がターミネーターにふられた。ぼくはため息をついた。 「あーあ、なんてもったいないことを」 「ティンクにおれのこと話したのか」  鋼色(スチールグレー)の三白眼が怒ってた。ぼくはあせって手を振った。 「たいしたことじゃないよ。おまえんちに芝刈り機があるとか」 「話したんだな」  矢嶋は片手を腰に当てた。ぼくは首をすくめた。 「ごめん。悪気はなかった」  矢嶋は三秒にらんで、破顔一笑した。後輩からの紙袋を押しつける。 「罰として、このケィクを食え」 「ええっ」  来週に学年末テストが控えてたけど、放課後も有志が残って合唱練習に励んだ。教室での練習は、もちろんピアノがないので、ぼくは雑用係だった。ラジカセの電源を入れたり、カセットテープを裏返したり。  指揮者の矢嶋は、この寒いのに袖をまくりあげ、額に汗していた。全身全霊の背中。みんなの神々しい合唱とあいまって、ぼくは涙ぐんだ。あの音楽室での一件以来、音羽以下四人組はきちんと合唱に参加していた。  いてててて、と萩山がみぞおちを押さえた。工藤が目を丸くする。 「どうしたの」 「なんか胃が痛くてさ。ゆうべのトンカツが当たったかも」 「揚げモンで当たるかよ。食いすぎだろ」  工藤はくしゃんと笑った。萩山もみぞおちをさすりつつ笑っていた。  二年C組のシバケンが顔をだした。偵察だろうか。噂じゃC組の合唱練習は一〇〇回を達成したという。シバケンがぼくに手招きする。ぼくは廊下へでた。やつはポケットから片手を抜いた。 「キタ。はい、これ」  箱ごとのアポロチョコだった。ぼくはびっくりした。 「ありがとう。まさか芝にまでもらうとは」 「誰かくれたの」 「矢嶋が」 「えぇえっ!?」 「あ、いや。矢嶋がもらいもんのケーキをいらないからって」 「なんーだ」 「あと、菊池が」  シバケンはふと真顔になった。「キタのすきな子ってキクティだったんだ」 「あ、いや、その」 「社会科見学の金がなくなって、犯人あつかいされたって話したじゃん」  去年の九月に話してもらった。話のオチが見えないまま、ぼくはうなずいた。 「そんとき、キクティだけかばってくれたんだ。ケンジくんはずっと絵ぇ描いてました、あたし見てました、って。すげえ良い子だよ、あの子」シバケンは急に笑顔になって、合掌した。「で、キタ。音楽祭、わざと負けて。お願い」 「絶対無理!」  音楽祭まで、あと四週間。      ♂ にがにがしき冬のショコラも粉飾しああ恋愛はからだにわるし

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