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二十五哩(鷲か大統領か?)
二月二十八日、音楽祭中間発表。体育館ステージで、二年生八クラスが本番さながら合唱を披露していった。A組の《流浪の民》、打倒矢嶋に燃える竹宮のソプラノソロは素晴らしかった(バスソロの五十嵐楓もなかなか健闘していた)。B組は《時の旅人》、だが男子がまったく歌ってなかった。シバケン擁するC組は《野生の馬》、声だけはでていたがハーモニーがてんで嚙み合ってなかった(大爆笑だった)。D組は《マイバラード》、ハーモニーは良かったがパンチがたりなかった。E組の《少年の日はいま》は過不足なく、完成度が高かった。体育座りの矢嶋はつぶやく。
「A組とE組が要注意だな」
われらが二年F組の番が回ってきた。ピアノの座について、ぼくは椅子の位置を微調整した。矢嶋がすっと手を構えると、みんながすっと足を肩幅にひらいた。矢嶋の合図で、ぼくは始めた。もう百回以上は弾いた曲だ。ぼくの演奏はなめらかだった。矢嶋はリッカルド・ムーティばりの自信で指揮した。萩山のレチタティーヴォとバスソロから、篠崎のソプラノ、榊のアルト、工藤のテノールへ。そして、全体合唱。
ひとり河合だけが横柄にポケットに手をつっこんで、横を向いていた。でも、ぼくらのハーモニーは朝日のように神々しく、完璧に近かった。ステージ下で他の組の生徒の声、やばい・すげえ・うめえ! だろ? と思った。河合ひとり歌わなくたって、勝てるんじゃないかって気がしてた。
ぶえっくしょい、と派手なくしゃみ。河合だった。矢嶋が眉をひそめて、指揮しながら後ずさる。河合は大声でくしゃみを連発し、ティッシュで洟をかんだ。ぼくは勘ぐった。河合のやつ、元カノの竹宮が矢嶋にプレゼントしようとしたからって、やっかんでるんじゃないか?
中間発表一位はA組で、二位はE組、ぼくらF組は三位だった。
教室に戻るなり、矢嶋は河合に詰め寄った。
「おまえ、本番当日休め」
河合の目が細くなって、額に横皺が寄った。矢嶋はまじろぎもせず告げる。
「おまえがいたら、本番がぶち壊しになる。みんなの築きげてきたものを壊す権利は、おまえにない」
「仲間の輪を去れ!」
工藤がテノールで怒鳴った。そうだ、去れ、と萩山もバスでいった。さーれ! さーれ! とコールと手拍子が一同に波及した。河合は歯を食いしばった。
「そうかよ、去ってやるよ!」
河合はロッカーからバッグをつかんで、教室を飛びだしてった。工藤が矢嶋に近づいた。
「おれ、矢嶋はすきじゃないけどな、河合はもっときらいだよ。なんだよ、北浦んちが父子家庭だからってバカにして。おれの母ちゃん、胃ガンでずっと入院してんの。おれんちも父子家庭みたいなもんだよ。マジ腹立つ」
工藤は顔を真っ赤にして嗚咽した。男泣きだ。ぼくも泣きそうになった。萩山が工藤の肩を抱いて、頭をわしわしと乱暴に撫でた。榊を筆頭に、女子たちの目が涙で光ってた。
ぼくらは一体感のなかにいた。でも、ぼくはいささか、あの意地悪な幼なじみのことが気になった。
音楽祭まで、あと七日。
♂
その朝、家じゅうの電話機が《主よ、人の望みのよろこびよ》を奏でた。工藤からだった。「北浦か。えらいことんなった」
♂
二年F組の教室の面々は、お通夜のように沈んでいた。担任の小ウザイも暗い顔でいう。
「連絡網できいたと思うが、ゆうべ萩山が腹痛で病院に搬送された。盲腸らしい。手術のために一週間ほど入院するそうだ」
音楽祭は、あさってだ。絶対、まにあわない。バスリーダーの不在は大きな痛手だった。窓際最後尾の席で矢嶋は腕組みする。
「しかたない。ハジャマ抜きでやるしかない」
初めのレチタティーヴォとバスソロを割愛して合唱を組みなおせば、できなくはないだろう。でも、うまくいく保証はない。ぼくは席を立った。ポケットの底の異国の白銅貨を握りしめる。河合はケータイをいじってた。
「河合。話があるんだけど」
三月なのに小雪のちらつく朝だった。三階体育館で卒業式をやっていて、エルガー《威風堂々》がかすかに届く。ぼくと河合は中庭のまんなかの、煉瓦の花壇に囲われた緑地に来た。公然の 秘密の園 。草は枯れていたが、橘の木は青かった。河合の額には不機嫌な横皺が寄っていた。
「なんだよ」
「提案があるんだ。萩山の代打をやらない?」
河合の額に横皺が増えた。「は?」
「おれが頼んだわけじゃなくて、河合のアイディアってことにすればいいよ。それなら、おまえの株があがるだろ」
河合の表情は硬かった。たぶん、何か魂胆があると勘ぐってるのだ。
あ、とぼくは声をあげた。河合のズボンに小さな蜘蛛がたかっていた。
わっ、と河合は叫んで、平手を振るった。ぼくはとっさに手をだした。河合の手がぼくの手の甲を打った。いたっ、とぼくは叫んだ。
蜘蛛は無事だった。ぼくはその蜘蛛を手に這わせた。まだらの茶色い蜘蛛。たぶん、オニグモの仲間だ。ささやかな爪の感触。脚が二本かけていた。自然教室のときのヤチグモを思いだした。生まれ変わって帰ってきたのだろうか。ぼくはそいつを花壇のパンジーに乗せた。
おののいたように見ていた河合は、急に怒鳴った。
「笑えよ!」
「なんで」
河合の額から皺が消えた。河合は背中を丸めて、ため息を長くついた。
「なんなんだよもう、意味わかんねえし」
「河合にとっては、おれはただの便利屋だったのかもしんないけど、おれは、おまえが八年間そばにいてくれたこと、ありがたかったよ。だから、最後に、友達として提案してるんだ」ぼくは紙を差しだした。《歓喜の歌》のカタカナとひらがな交じりの歌詞カードだ。「やるやらないは自由だよ。べつに期待はしてないから」
河合は伏し目がちに受けとった。ぼくはポケットで白銅貨を握って、足早に教室へと戻った。
音楽祭まで、あと二日。
♂
三月十四日、音楽祭本番。二年E組の《少年の日はいま》の合唱の響くなか、ステージ下のパイプ椅子で、ぼくら二年生は音楽祭プログラムの裏側の採点表に数字を書きこんだ。五段階評価、評価項目は発声・態度・表現・感動だ。最高で二十点満点。ぼくはフェアプレイ精神を心がけた。
E組がステージを退場し、ぼくらF組は移動を開始した。薄暗い舞台袖で清水がぼくに耳打ちした。
「きのう、ひさしぶりにオナった」
葛󠄀城力の強制オナニーショー以来、清水は自分のをさわれなくなっていたのだ。ぼくは笑って、清水とハイタッチした。
矢嶋はきょうのため新調したダックブルーの制服を着ていた(去年の制服は背が伸びすぎて着れなかったらしい)。イヤパッドで音楽をききながら、険しい顔でずっとぶつぶついってる、All is well, all is well……。ぼくは半分みずからにいいきかせるようにいう。
「あんだけ練習したんだ、自然体でやれば大丈夫だって」
「ヴァイオリニストに自然体 なんてねえんだよ」
矢嶋はいった。ヴァイオリニストの構えは、ヴァイオリンの尻を顎に挟んで、右腕を高くあげた不自然な格好だ。たしかに自然体じゃない。ぼくもピアノコンクールのまえは逃げだしたいくらい緊張したものな。ぼくはポケットに手をつっこんで、白銅貨を投げあげた。左手の甲で受け、右手でぱしりと押さえる。
「鷲か、大統領か?」
矢嶋は目を丸くした。「イーゴォ」
ぼくは右手をどけた。左手の甲の白銅貨は、止まり木の鷲の面だった。ぼくは笑った。
「当たりだ。きょうのおまえは冴えてる。大丈夫だって」
ぼくは矢嶋の肩を強めに叩いた。矢嶋はやっぱり不安そうだったが、ぶつぶついうことはもうなかった。
放送委員のアナウンスで、ぼくらは舞台へ登壇した。ターミネーターのような指揮者がすっと手を構えると、みんながすっと足を肩幅にひらいた。矢嶋の合図で、ぼくはfffで始める。河合が一歩進みでた。
「〽O Freunde , nicht diese Töne !
Sondern laßt uns angenehmere
anstimmen und freudenvollere .
Freude , schöner Götterfunken ,
Tochter aus Elysium
Wir betreten feuertrunken ,
Himmlische , dein Heiligtum !
Deine Zauber binden wieder ,
Was die Mode streng geteilt ;
Alle Menschen werden Brüder ,
Wo dein sanfter Flügel weilt .」
河合の歌唱はパーフェクトだった。やつはやればできる男なのだ。工藤と榊と篠崎のソロが続く。
「〽Wem der große Wurf gelungen ,
Eines Freundes Freund zu sein ,
Wer ein holdes Weib errungen ,
Mische seinen Jubel ein !
Ja , wer auch nur eine Seele
Sein nennt auf dem Erdenrund !
Und wer's nie gekonnt , der stehle
Weinend sich aus diesem Bund !」
そして、全体合唱。みんなの朝日のように神々しいハーモニーが体育館いっぱいに満ちた。音楽は空間作品だ。歌う者、奏でる者はもちろん、それを聴く者も作品の一部なのだ。伴奏しながら、ぼくは震えた。矢嶋の全身全霊の指揮。今、あいつが世界の中心だった。
「〽Freude trinken alle Wesen
An den Brüsten der Natur ;
Alle Guten , alle Bösen
Folgen ihrer Rosenspur .
Küsse gab sie uns und Reben ,
Einen Freund , geprüft im Tod ;
Wollust ward dem Wurm gegeben ,
und der Cherub steht vor Gott .
Froh , wie seine Sonnen fliegen
Durch des Himmels prächt'gen Plan ,
Laufet ,Brüder ,eure Bahn ,
Freudig , wie ein Held zum Siegen .
Seid umschlungen , Millionen !
Diesen Kuß der ganzen Welt !
Brüder , über'm Sternenzelt
Muß ein lieber Vater wohnen .
Ihr stürzt nieder , Millionen ?
Ahnest du den Schöpfer , Welt ?
Such' ihn über'm Sternenzelt !
Über Sternen muß er wohnen .」
生徒と保護者、五百人の万雷の拍手。それは雨のように響いた。その雨の甘さを、ぼくは嚙みしめた。ぼくのきいた一番素晴らしい音楽だった。
♂
アンコール合唱まえの舞台袖で、工藤が声を張りあげる。
「榊言美さん! ずっとすきでした。つきあってください」
工藤は頭をさげて、右手を差しだした。外野から歓声・奇声・口笛。榊は頬を赤らめて、工藤の手をとった。
「お友達から始めてください」
二人はうつむきあって、握った手をぶんぶん振った。みんなから拍手が起きた。
かたわらで矢嶋がヴァイオリンを調律した。あいつはいう。
「おれ、受かったよ」
「え?」
「ラ・ガーディア高校 。おれは行くよ」
ぼくは無意識に大きく息を吸った。なんだろう、ひととき面倒を見た鳥が巣立っていくような、一抹のせつなさ。
「おめでとう。いってらっしゃい」
「夏まではいるけどな」
「あ、そっか」
「さっきのやって」
「さっき?」
「コイントス」
ぼくは投げあげて、右手で左の甲を押さえた。「鷲か、大統領か?」
「Mr.プレジデンッ」
ぼくは右手をどけた。ワシントンの横顔。当たりだ。矢嶋の銀の歯列矯正器。
「何度やっても同じだよ。おれにはお見通しなんだ」
放送委員のアナウンスとともに、ぼくらは舞台へ繰りだした。雨のように拍手が響いた。
♂
幾たびもトスされ君の手へ翼ひろげて墜ちる鷲の硬貨は
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