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二十六哩(露を吐く)
空色のスケッチブックは捲 っちゃだめ。
♂
木曜の休み時間。校舎三階の廊下で、背中から生あたたかい何者かに抱きつかれた。ぼくは変な声をだしてしまった。笑い声。
「何エッチい声だしてんのよ、キタ」
二年C組の芝賢治だった。やつの坊主頭に、ぼくは軽く拳骨。
「エッチいのはおまえの頭んなかだ、タワケ」
シバケンは陽気に笑った。「どこ行くの」
「便所だよ」
「おゝ奇遇。おれもションベン」
「つれションかよ」
ぼくらは男子便へとぶらぶら向かった。狭い磨りガラスから淡い日差し。小便器 のまえに二人ならんだとき、シバケンがいう。
「キタ。勝負しねえ? どっちが長くションベンできるか」
ぼくは笑った。こいつのおバカな言動ってぜんぜん嫌いじゃない。シバケンはスクールズボンの前をひらく。
「イッセーノセでスタートな」
ぼくもチンコをつかみだした。「おう」
「いっせーのぉー……せっ」
セラミックの便器に二本の水が鳴り響く。音だけならせせらぎだ。ぼくは放物線が崩れないギリギリの力でだした。朝に家のトイレに行ったきりだから、けっこう溜まってる。十秒を超え、十五秒を超えた。
「くそっ、終わる」
シバケンが舌打ちした。片方の水音が弱くなって、途切れた。
「やった、勝ったぁ」
「なんでそんな出んの。ズルしてねえ?」
シバケンは雫を切りつつ覗きこんでくる。ぼくは焦った。
「ズルってどうやってすんだよ。でるもんはしょうがないだろ。見んな」
はみださないようにぼくは背中を向けてガード。シバケンは反対側から覗いてくる。ぼくはまた背中を向ける。やつはひっついて肩口から見おろしてきた。
「あー、ほんとに出てら。キタの膀胱オトコマエなのな」
ぼくは急いでだしきってしまいこんだ。トランクスがちょっと濡れた。
「なんだよ、もう。変態かよ」
「否定はしねえ」
「つうか、チンコしまえよっ」
シバケンは笑ってファスナーをあげた。ぼくはいささか腹を立てた。黙って手を洗って、廊下をつれだって歩く。C組よりも手前にぼくのF組の教室。そこでお別れだ。でも、あいつは何故か一緒に立ち止まる。ぼくを眺めて楽しそうにしてる。
「なんだよ」
「べつに」
「じゃ、行けよ」
「行くよ」
「行けよ」
「行くよ。そんじゃあな」
あいつはダッシュで離れてった。変なやつ。
♂
やわらかき放物線よ しろたえの紳士トイレの便器は泉
♂
学活の時間。窓際準最後尾の席で、ぼくはため息をついた。進路希望調査アンケートの空欄が、ひどく広大に見えた。進学する気ではいる。でも、志望校は決まってなかった。さんざん悩んで、不明とぼくは書いた。
矢嶋健は高校に受かったし、清水俊太も志望校は決めている。ぼくは菊池雪央の回答が気になった。さりげなく先頭の席を訪ねる。
「なあ、なあ。菊池はなんて書いた」
「未定って書いた」
あ、しまった。未定って書かなきゃだめだったのか。ぼくは苦笑する。
「将来とかいわれたって、漠然としすぎてるもんな。おれ、一年後のことも想像できない」
「うーん、あたしも志望校とかはわかんないけどね」菊池はいいよどんで、恥ずかしそうに告げる。「将来の夢はあるんだ」
「どんな」
「あたし、警察官になりたくて」
「警察官!」
「おかしい? 似あわないかな」
想像してみた。小学生に交通安全指導をする菊池。おとり捜査で痴漢を逮捕する菊池。街の不良少女に全力でぶつかっていく菊池。
「いや、意外と似あってる」
「ほんと?」
「いいじゃん。かっこいいよ」
菊池は照れたふうに笑った。ぼくはじゃっかんの焦りをおぼえた。ぼんやりしてそうな菊池でさえ、ちゃんと将来の夢があるのに。ぼくは何をやってるんだろう?
♂
希望ってことばが進路をかたぐるましちゃったとたんちぢこまる夢
♂
金曜の放課後、北・南校舎連絡路の南出口にシバケン。うんこ座りで、膝に頬づえついてる。春の物思い。煙水晶の目に狭い空の青。ぼくは片手をあげ挨拶した。
「めずらしいな、一人で」
「ヨイチもミズノもバックレやがってさ」
ぼくは苦笑した。あの二人のことだ。どちらかの家にしけこんで、アレに励んでいるにちがいない。
「キタこそ一人じゃん」
「矢嶋はニューヨーク」
「ニューヨークぅ?」
「入学申請手続きっていってたな。あいつ、もうあっちの学校受かっててさ」
「ほお」
通りすがりの女子たちがシバケンをチラ見して手を振る。小泉沙織と大久保弥生だ。シバケンは小さく指先を振りかえした。ぼくは尋ねる。
「仲よかったっけ?」
「なんか、バレンタインに告られた」
「どっちに」
「でかいほう」
背が高いのは小泉のほうだ。
「やったじゃん」
「やだ、あんなブス」
「もったいねー」
シバケンはうさんくさそうにいう。「キタは、あんなのがいいの?」
「ぜんぜん許容範囲内。だいたい、おれみたいなのは、そうそう相手が見つかんねえんだよ。顔のいいやつにゃわかんないだろうけど」
ぼくは自嘲を込めて笑った。シバケンは暗い表情。
「自分の顔きらい」
一〇〇%の意外。そんなきれいな顔に、なんの不満があるというのだ。「なんでっ」
「女顔っていわれんだもん。あゆに似てるとか。もっと男らしい顔がよかった」
「贅沢だな。取り換えてほしいわ」
シバケンは不思議そうに見あげた。「キタの顔、かっこいいじゃんか」
「は? どこが」
「ミッチーみてえじゃん。おれはすき」
「浅香光代?」
「及川光博!」
「ファンに袋叩きに遭うわ。おだてたって何もやらないからな」
顔が火照ってきて、ぼくは手で扇いだ。シバケンは八重歯を覗かせる。
「赤くなっちゃって、か・わ・い・い」
「そうやって、からかってりゃいいだろ」
「キタはマヂかっこいいんだからさ、もっと自信持ちゃいいのに」
シバケンはまじめな顔でいった。どうしていいかわからなくて、ぼくは話を逸らす。
「そういやさ、芝は進路希望、なんて書いた?」
あいつはため息をついて、ポケットから何かよこした。そのちいさく小さく折りたたんだ紙をひらくと、進路希望アンケートの欄に眠る子猫、超リアルな毛並み。
「オフクロがさ、高校行けって」
「まあ、ふつうはそういうよね」
「だって内申って二年の二学期で決まるっつうだろ。手遅れじゃね? まあ、程工 なら名前だけ書きゃ受かるってハナシだけど。それにしたってタダじゃねえしさ」
「奨学金とか」
「奨学金って、ようは借金だぞ。もったいねえよ」
「でも、高校は行ったほうがいいと思う。おれ、父さんに求人誌見せてもらったけど、高卒以上って条件のとこ、けっこう多かったよ」
シバケンは自分の股間を見やって、ぼそりとつぶやく。
「なんで努力しなきゃいけねえの」
「え?」
「だって、どんなにガンバったって最後は無になるだけだろ。なのに、なんでわざわざきらいなことやって、時間をムダにしなきゃなんないの。おれ、わかんねえ。なんで、みんな、xとかyとか意味のないことアタマ入んの。なんで、みんな夜に平気で眠ったりできるの。目が覚めないかもしれないって、おもわない? おれは自分のすきなことだけ、やってたいよ。命のムダ使いなんか、したくない。ねえ、なんで意味ない努力して、ベンキョーしなきゃなんないの」
やつは本気でわからないようだった。だから、ぼくも本気で考えて、言葉を紡いだ。
「たとえば、芝が鏡を持ってるとするだろ」
「鏡?」
「そう。小さいけど、すごくきれいな。でも、その鏡はしょっちゅう磨いてやらないと、脂や埃で曇っちゃう。磨いても、どうせ曇るからって芝が手入れをしなかったら、そのせっかくのきれいな鏡は、だんだん、くすんで、錆びて、何も映らなくなる。だから、磨きつづけなきゃいけないんだ。その鏡が、いずれは割れてしまうとしても。努力するって、そういうことじゃないかな。おれは、そう考えてるよ」
シバケンは、ぽかんとしていた。ぼくのたとえ話は通じなかったのかと思った。しかし、あいつの表情は次第に、ゆるやかに変化していった。ひどいショックを受けたふうに。
「わかった! それ、すごくわかった。なんだ。そーだったんだ。そおやって、ちゃんと教えてくれりゃ、ちゃんとわかったのに。どーしよう。ねえ、おれの鏡、まだ映る? 鏡磨くのって、どうすりゃいいの? ねえ、おれ、何したらいい?」
シバケンは短い髪を掻きむしって、ぼくの足を揺すった。ぼくは小さく感動した。ぼくの言葉は伝わったのだ。シバケンはものすごく純粋なやつなのかもしれない。ぼくは笑って、やつの肩を叩いた。
「大丈夫だよ。今からでも、ぜんぜん間に合うから。おれも手伝うしさ」
人の出払った二年C組の教室、廊下寄りのシバケンの机は落書きでいっぱい。ぼくは国語を手にした。やつの教科書はまるで新品だ。
「まずは国語からだ。国語は、ぜんぶの教科の基礎なんだよ。文章の意味を読みとれなかったら、英語だって理解できないし、数学の文章題だって解けないだろ」
小学生のころ、河合省磨と一緒にかよった夏期講習の塾講師の受売りだ。受講料が高くて続けることができなかった。有翼の悪魔の落書きのうえに、ぼくはページをひらいた。
「これ、音読してみて。読めない漢字や、意味のわからない言葉があったら印をつけて、あとで辞書をひくんだ」
「声だすの?」
「黙読だと、なんとなくで流しちゃうだろ。声にだして読むのが大事なの。はい」
シバケンは手に持って、小学生みたいにはきはきと読みあげる。ヘルマン・ヘッセ《少年の日の思い出》。読みまちがいや読めない単語に、ぼくはいちいち傍線をひいてやった。
「……エーミールは激したり、ぼくをどなりつけたりなどはしないで、低く、ちえっと舌を鳴らし、しばらくじっとぼくを見つめていたが、それから『そうか、そうか、つまりきみはそんなやつなんだな』と言った……あゝ、なんだ、これだったのか」シバケンは一人でうなずく。「クラスのやつらが、つまりきみはそんなやつなんだな、っていいあって笑ってるから、何かと思ってたんだよ」
「授業で読んだよな?」
「寝てた」
「芝って夜に寝ないの?」
シバケンの視線がさまよって、ぼくの胸もとで止まった。
「教室で眠ってりゃ、死んでもすぐ見つけてもらえるだろ。おれ、夜には死にたくない。あの煙の色だから。おれは光んなかで死にたい」
こいつって詩人なのかも。「……光を、もっと光を」
「え?」
「ゲーテの言葉。臨終の間際に、いい遺したんだって。あのうつくしい女が見えないのか? 窓を開けてくれ! 光を、もっと光を! ゲーテと同じようなこというなんて、おまえ、けっこう大物かもしれないよ」
ぼくは笑いかける。おだてて伸ばす作戦だ。しかし、ぽかんとしたままのシバケン。
「ゲーテって、誰?」
ぼくは椅子から転げ落ちそうになった。「えっとね、昔のドイツの文豪だよ。音楽の時間に、シューベルトの《野ばら》って習ったろ」
「〽ザーアイン クナーバイン レースラインシュティーン……だっけ?」
「それは覚えてんだな」
「音楽室は机ないから寝られねえんだよ」
「その詩を書いたのがゲーテだよ」
「そおなんだ。じゃ、すげえんだ?」
「まあ、世界的偉人だと思うよ」
シバケンはにこっと笑って、続きを口ずさんだ。「〽レースライン アゥフ デア ハーイデンッ ヴァル ゾー ユング ウント モルゲンシェーン」
ぼくも歌おうと思ったけど、うろおぼえだった。《野ばら》を習ったのは一昨年だ。
「芝って記憶力いいんだな。おれ、もう忘れちゃったよ」
シバケンはにこにこしながら教科書を持ちあげた。
「このエーミールってさ、メリケンみてえな」
「矢嶋?」
「カネ持ちでイヤミったらしいじゃん」
矢嶋なら、もっと直接的に怒りをぶつけてくる気がした。ぼくは指先で教科書を叩く。
「はい、いいから続きを読んで」
「トイレ」
ぼくは頭を片手でかかえて、教室のドアを指差した。「早く行って帰ってきて」
♂
備品の三省堂の辞書を捲りながら、シバケンは眉間に皺を刻んだ。左耳のバーベル型ピアスをいじる。
「あのさ」
ぼくは顔を近寄せた。「何、わからないことあった?」
「トイレ」
「さっき行ったろ」
「こんどはウンコ」
「いっぺんにしてこいよ!」
シバケンは笑って、教室の出口へ急いだ。ぼくはため息をついて、椅子にもたれた。
シバケンの机の鉤 にトートバッグ、はみだしたF4スケッチブック二枚、空色と夕焼け色。ぼくは気なしに夕焼け色のほうを抜きだした。
シバケンの落書き帖だった。きれいなお菓子の包み紙が貼ってあったり、それっぽい英単語がレタリングしてあったり(ただし大文字小文字ちゃんぽんで、Sが鏡文字)。見ているだけで目に楽しかった。絵はシバケンお得意の、包帯だらけの有翼の人物が多かった。
ぼくは空色のスケッチブックを手にとった。Kと表紙に群青色のレタリング。賢治のKかな、と思った。
最初のページは、ぼくの顔だった。シャーペンの細密画。頬づえをついたぼくは、退屈そうで、ちょっぴり生意気そうで、遠くを見つめてる。シバケンの目から見たぼくって、こういう感じなのか。ぼくはページを捲った。次のページも、ぼくだった。ぼくは気恥ずかしくなって、ページを繰った。その次のページも、ぼくだった。ページを繰った。その次も、ぼく。その次も、ぼく・ぼく・ぼく・ぼく……全部、ぼくだった。
教室のドアの音。シバケンは目を見ひらいて、スケッチブックをひったくる。沈黙。これは見ちゃいけないものだった。それだけはわかった。シバケンはこわい顔で凍ってる。ぼくはおずおずと声をだす。
「ごめん、勝手に見ちゃって。でも、それ、なんで」
「なん……で?」
「いや、おれの顔って描きやすいとか」
やつの顔面から力が抜けた。「……わかってねえんだ」
「わかってないって?」
シバケンは泣きそうな目で、ハッと笑った。
「おまえじゃ一生わかんねーよ」
あいつはスケッチブックを膝で叩き折って、ごみ箱に突っこんだ。目を乱暴にこすって、走っていなくなった。
ぼくは呆然と座っていた。わかってないって、何を?
ぼくはごみ箱から空色のスケッチブックを拾った。K。もういっぺん、ひらく。横に大きな皺の入ってしまった、ぼくの顔。
キタはマヂかっこいいんだからさ。キタの膀胱オトコマエなのな。いっしょにいてくんねえんだ。ぜってえ連れていかせねえ。おれが助けてやる。キタがあんな目ぇあわされてんの見たくなかった。イイコト教えてやろっか。キタは夢かなえろよ。キタって歌うめえのな。なあ、キタもいっしょに来ねえ。
あいつのハスキーな声が耳の奥にあふれて、震えた。教室の窓はインディゴブルーに暮れていた。
♂
空色のスケッチブックめくっても捲っても愛しか描いてない
♂
土曜の放課後、ぼくは空色のスケッチブックを小脇に二年C組へと向かった。芝賢治はいなかった。ぼくは髙梨与一にきく。
「芝は?」
「きょうは来てねえよ。メールも返ってこねえし。寝てんのか、あいつ」
髙梨は電話した。ぼくは腕時計を読んだ。一時十三分。あ、メール、と髙梨。
「なんか、おまえに来てほしいみたいだぜ、ケンジ」
髙梨は液晶画面を見せた。FROM:賢治。キタがそこにいたら俺んち来るようにいってくんない。
シバケンちなら行ったことがある。春雨のなか、ぼくは萌葱色 の傘を肩に乗せ、坂になった跨道橋 をくだって、不ぞろいなアパートと戸建の路地を歩いた。空地に面した青いトタンの平屋。その呼鈴を押す。ピイィ~ン・ポオォ~ン。壊れたように甲高い音。
ドアが静かにひらいた。顔をだしたのはシバケンじゃなく、ロン毛の若い男。家をまちがったかと思った。男はやおら笑みを浮かべた。
「ひさしぶり」
「失礼ですけど、どちらさまですか」
「賢治の兄だよ。いっぺん会ってんだけどな。ほら、サンクスで賢治がカネ借りたとき」
記憶が甦った。あの白い特攻服(悪行上等/絶命上等)を着ていた男だ。男の容姿は、弟に似ていなかった。瞳の暗い色が共通してるくらいだ。
「賢治、今でてるけど、すぐ帰ってくるから、あがって待てよ。雨降ってるし」
男は笑顔だ。タバコで弟の尻を焼くタイプにはとても見えなかった。でも、この男と二人きりになりたくない。
「いえ、出なおしてくるので……」
「賢治がさ、キタくんに話があるんだって。なんかせっぱ詰まった感じだったから、きいてやってくんないかな」
きのうのことだろうか。気は進まなかったが、ぼくは家に入った。
家の間取は2DK。とりこんだ洗濯物が散らかった居間の、ちゃぶ台の前にぼくは正座した。空色のスケッチブックを、ぎゅっと抱きしめる。タバコが山の灰皿。シバケンの兄は、なんといったっけ……そうだ、シバゴだ。シバゴは駄菓子屋の粉末ソーダを溶いたものを持ってきた。コップの底に溶け残った粉、毒々しいブルー。ぼくは手をつけなかった。
「芝は……賢治くんはどこへ」
「さあ、コンビニかどっかじゃない?」
すぐ帰ってくるといったのに、行き先を知らないのか。シバゴは断りもなくタバコに着火し、煙を吐いた。変に甘ったるいニオイ。
「賢治くん、ケータイは」
「そこにあるぜ」
DoCoMoのケータイが、ちゃぶ台のすみ。ぼくは落ちつかず、正座の足の裏を組み替えた。シバゴは灰を灰皿に落として笑う。笑っても目がこわい。
「足、ラクにしなよ。かしこまるような家じゃねえしさ」
ぼくは頑なに正座を続けた。シバゴの品定めするような視線が嫌だった。
「飲みなよ」
「いえ、すきじゃないので」
「せっかくつくったのに」
そういわれると固辞もできず、ぼくは一口だけ舐めた。何か変な味だった。ぼくは腕時計を読んだ。一時十三分。あれ? さっきも一時十三分だったのに。棚のデジタル時計の表示時刻は、13:45。
鈍い物音、隣の部屋から。びりびりの襖紙 。
「誰かいるんですか」
「あゝ、ネズミだろ。うち、ボロいからさ」
鼠にしては音が大きかった。なんだか変な動悸がしてきて、ぼくは腰を浮かせた。
「あの、やっぱり帰ります」
「それは、困るな」
シバゴが立ちあがって、手をかざした。見あげたぼくの目へ、赤い滓がばらばら降った。激痛。瞼をあけられない。ぼくはスケッチブックを手放した。
笑い声、のしかかる大の男の体重と体温。凄まじい力で、制服のボタンがぶちぶちと千切れた。ベルトのバックルを外されて、いきなりチンコを鷲づかみにされる。首をべろりと舐められた。ようやく男の意図を悟った。こいつ、変態だ。ぼくは死ぬ気でもがいて、めくらめっぽう手を伸ばした。ストラップの束、シバケンの電話。ぼくはフリップをひらいて、適当にボタンを押し、声を張りあげた。
「警察ですか。すぐ来てください。住所は仏向町一三五八……!」
ぼくは突き飛ばされ、頭をちゃぶ台に打った。激しい足音と、玄関ドアの音。そして、あたりが静かになった。春の雨音。
ぼくは手探りで台所へ行って、蛇口をつかんだ。目を念入りに、なんべんも洗う。ひりひりした感じは残ったが、目はあけられた。玄関をしめて、鍵をかけた。タバコの残り香の甘ったるさに、吐き気がした。動悸が収まらなかった。全身がどうしようもなく震える。
居間の畳には小瓶と、散らばった赤い滓。七味唐辛子だ。こんなもんを人の目にかけるって、あの男、どんな神経してんだ。
また、物音。ぼくは隣の襖をあけた。適当に半分に畳んだ布団・学習机・段ボール製の棚。誰もいない。物音は押入れからだ。その襖をあけた。
押入れの上段は段ボールだった。下段には半透明のプラスチックの衣装ケース、そのなかの肌色の物体。初め、脳がそれをうまく認識しなかった。人だ――全裸の。尻の黒ずんだ瘢痕 。ぼくはケースをひきずりだした。
「芝っ!」
ぼくはケースの留具を外して、蓋を投げ捨てた。シバケンはガムテープの巻きついた体を、ゆっくりと起こした。怒りに燃える煙水晶の目。ぼくは鋏を持ってきて、顔や胴体の幾重ものガムテープを慎重に切った。
自由になったシバケンは、ケース内に立ちあがり、尻から何かを抜き捨てた。半透明のシリコン、グロテスクなほどリアルなチンコの形状、薄くついた血。ぼくは目を背けた。
シバケンはしゃがみこんで、みずからを抱きしめ、洟をすすった。シバケンの尻の黒ずんだ瘢痕が、バカと読めた。
♂
光源のイエローが撃つコンクリに影絵のドギースタイルいびつ
♂
シバケンに服を着せた。ぼくは制服をはだけたまま、畳んだ布団に一緒に座ってた。いろいろ問いただしたかったけど、無理にききだすことじゃなかった。ぼくは空色のスケッチブックを差しだした。K。あいつは黙って受けとった。
「おれ、たぶん、意味がわかったと思う。芝は、おれを、その……す、すきなんだよな?」
「だったら何?」
あいつはぼくを見なかった。バーベル型ピアスの硬い光。ぼくは頭をさげた。
「だとしたら、ごめん」
「それは、どういうごめん?」
ぼくは途惑った。あいつは張りつめた表情。
「おまえとはもうつきあえないって意味のごめん?」
「ちがう。おれ、ぜんぜんわかんなかったから、おまえが傷つくようなこと、いったりやったりしてたと思うんだ。そのことだよ」
シバケンは長い睫毛を伏せて、息を長く吐いた。「最初って、カンジンなのよ。物心ついたときから、あいつにケツいじられたり、チンポなめられたりしてた。遊びの延長みたいな感じでさ。それがおかしいことだってわからなかった。八歳のときにはザーメン飲まされて、九歳のときにはケツに突っこまれた。女はきらいじゃないけど、男のほが気になっちゃって。自分でもいやだし、気持ちわりいんだけど、どうしようもない。
去年コンビニで会った夜さ、キタは来なくて大正解だよ。あの走りのあと、おれ、アンパンかがされて……輪姦 されたの。さみいガレージでさ、石油ストーブがんがん|焚《た》いて。十二人くらい参加してたかな。穴あいてりゃオッケーみたいなケダモンばっかだよ。一人最低一発がノルマなとかいって、ひたすら口とケツに突っこんでさ。口に出されたらぜんぶ飲まなきゃいけないし、ケツにだされたのは外に漏らしちゃいけない。漏らすと、汚えって罵声が飛んでくる。十二人が一周すると、もう初めのやつらは復活してる。朝まで終わらない。もう外にださないなんて無理で、ケツからザーメンどろどろこぼれて。痛えし、気持ちわりいし。でも、だんだん麻痺して、よくなってくんのね。勝手にチンポ勃つし、イっちゃうし。そうすると、淫乱っていわれる。
おれはキタとはちげえんだよ。手も口も腹も、汚れきってんだ。キタのこと、汚したくない。巻きこみたくねえよ。だから、もう、おれにかかわんな」
「でも、おれは、芝と友達でいたい」
悲しいほどきれいな目で、シバケンは笑った。剝きたての葡萄のような眼球に、ぐっと力がこもる。ぼくのはだけたワイシャツをつかんで、あいつは舐めるように啖呵を切る。
「おれを選ぶ覚悟なんざねえくせに、ハンパな情けかけてんじゃねえよ」
動物的恐怖、ぼくは目をつむった。男の手が、胸を突き飛ばした。ぼくは布団から転げ落ちた。シバケンのまばたきしない目から、涙が静かにこぼれた。
「帰れ。二度と来んな」
♂
隔てられ咬みあう犬よ清潔な檻に構わず埃は光る
♂
月曜の朝の教室で、ぼくはブレザーと針を手に悪戦苦闘した。銀のシャンクボタン。家庭科で習ったはずなんだけど、縫いつけたあとの糸口の処理がわからなかった。
「おっはー。大丈夫?」
菊池雪央が声をかけてきた。ぼくはブレザーと糸と針を示した。
「このあと、どうすればいいんだっけ」
「ううーん?」菊池は首をひねった。「ママならこういうの得意なんだけどな。テキトーでいいなら、やってみるけど」
「お願い」
菊池は針とブレザーを手に、ぼくよりも数段器用にくるくると糸を丸めた。ぼくは感心して眺めた。結局、もう一つのボタンも菊池が縫いつけてくれた。
「ほんと超テキトーだからね。取れちゃったらごめんね」
「いや、助かったよ。マジでサンキューな」
ぼくはなんべんもお礼をいった。きっと、この子はいい奥さん、いいお母さんになって、幸せな人生を送るのだろう。なぜだか、ぼくは泣きたくなった。
♂
ハローワーク帰りの父の顔は浮かなかった。失業して、もう一年になる。失業保険が切れそうなのに、父は何社も面接に落ちつづけていた。リビングでスプリングコートを脱ぐ父を、ぼくは手伝う。
「時計、受けとってきてくれた?」
ぼくの腕時計は電池交換のため父に預けたのだった。父は眉をさげた。
「それが、おまえの時計、電池切れじゃなくて機械の故障らしいんだ。だが、補修部品がとっくに生産を終了していて、修理できないそうだ」
「そんな……」
言葉を失った。父は時計をぼくに返した。古いセイコーアルバ。白い文字盤にアラビア数字で、ついでに小窓に表示される曜日も漢字で読みやすかった。時計の日付は[土/17]で止まっていた。とても気に入っていたのに。じいちゃんの形見だったのに。
「父さんが新しいのを買ってやる。こんど一緒に二俣川にでも行こう」
ぼくはうわの空でうなずいた。もう動かない時計は、手のなかで冷たかった。
♂
春分の日の翌水曜、昼休み。二年H組の小早川瑞乃は――いや、もしかしたら坪井瑞乃かもしれない――百円ショップで売ってそうなカードスタンドを机に置いてた、[相談役]。廊下側の最後尾の席。髙梨が用心棒のように侍 っている。瑞乃はちっちゃなカードデッキを、一枚めくってため息。瑞乃の二つ名は、星川小の卑弥呼だそうだ。ぼくはいう。
「あの、料金って五百円だったよね?」
「それは初回サービス。通常料金は千円だよ」
「千円っ!」
高い、ぼくにとっては。しばし葛藤したものの、ぼくはお客の席についた。スヌーピーの財布から、くたびれた夏目漱石を差しだす。瑞乃は千円ぶんにっこり笑って、それを髙梨に渡した。髙梨はうやうやしく女物の財布に仕舞った。
「あの本命の子のことかな」
「うん、そう、当たってる」
ぼくは髙梨をちらりと見た。睨まれてると話しづらかった。瑞乃はいう。
「ヨイチ、とろけるプリン買ってきて。そこのローソンじゃなくて、あっちのミニストでね。走っちゃだめだよ。タバコはひと箱にしなね。あと車に気をつけて」
髙梨は不服顔ながら、財布を手に教室を出て行った。ぼくはほっとした。瑞乃は笑った。
「くわしくきかせてもらえる?」
「おれ、すきな子がいて。その子はすごくいい子で。たぶんだけど、おれのことすきでいてくれると思うんだ。ただ……」
「イニシャルか、頭文字だけ教えてくれる?」
「すきな子は、Y。それで、その……友達だと思ってた子がいて。でも、その子が、おれを……すきだってわかって。その友達が、S。それで、Sは家族と問題をかかえてて、すごくつらそうに見えて。Yは家族仲はいいみたいで、大事に育てられたんだなって感じがするんだ。おれはYがすきだけど、Sのことも放っておけなくて。どうしたらいいのか、わからなくなって。おれはどっちの味方についてやるべきかなって」
「どちらをとるかってこと?」
「うん、まあ、そういうことになるね」
「では、二者択一スプレッドをおすすめします。二つの選択肢に悩んだときに、その選択の結果がどうなるかがわかります」
Y/Sと付箋二枚に書いて瑞乃は机に貼った。カードの裏面は黒と青のチェック柄。
「これをきみの気のすむまでステアして。裏返したりこぼしたりしないように」
ちっちゃな七十八枚のカードを、ぼくはばらばらに混ぜた。瑞乃がカードをまとめてそろえた。上半分の束をとって、下半分と入れ替える。一枚目をぼくの前に置き、さらに二、三枚目を並列に置き、さらに四、五枚目を並列に置き、六、七枚目を瑞乃のそばに並列に置いた。ぼくから見て、カードがちょうどV字を描いた。ぼくのてまえから順に瑞乃は七枚を捲り、てまえのカードを指差した。
「ここはきみの現在の状況、聖杯の二の逆位置がでてる。きみの恋も友情も、両想い。でもタイミングが悪くて、気持ちがすれちがってしまった」瑞乃はYの側の三枚を指差した。「すきな子を選んだ場合、近い将来に隠者の正位置。きみは未熟で、Yを傷つけるでしょう。きみは根っこのところで、Yを信じてないの。未来に月の逆位置。二人は疑いと不安でいっぱいになって、幻滅していくかもしれません。最終結果に聖杯の八の正位置。たぶん、きみの気持ちが変わって、Yに背を向けることになるでしょう。けれど、きみにとっては必要な過程かもしれません」瑞乃はSの側の三枚を指差した。「友達を選んだ場合、近い将来に愚者の正位置。馬が合って、最初は楽しいでしょう。でも未来に金貨の五の正位置。きみとSはおたがいしか頼れない、苦しい状況に陥る可能性があります。たとえば寒い戸外に二人で取り残されるような。最終結果に死の正位置。良くも悪くも状況が一変し、生きかたを変えねばならなくなるでしょう」
「つまり、どういうことなんだろう」
「どちらを選んでも、きみの初恋はうまくいかないし、きみは別れを経験する。大アルカナが多めにでてるから、きみの努力だけで運命を変えるのは難しいみたい」
ぼくは迷子の気分になった。瑞乃は頬笑む。
「でもね、初恋はうまくいかないほうが普通だよ。恋愛はどちらか一方だけの責任じゃないし、きみがそんなに肩ひじ張らなくてもいいんじゃないかな」
「瑞乃ちゃんの初恋は?」
「今のところ、続いてる。でも、別れ話になったことも何度もあるの。いつもうまくいってるわけじゃない。それでも……うん、すきだからね」
瑞乃はきれいに笑った。ぼくはいう。
「恋の先輩として、一つだけヒントくれないかな」
「そこから一枚とって。上下はそのままね」
カードの束から捲った。蝙蝠の翼をつけた山羊と、鎖に繋がれた男女の絵。瑞乃は渋い顔でつぶやく。
「悪魔の正位置か」
「どういう意味なの」
瑞乃は悲しげな目。「今いえるのは、これだけ。自分の気持ちを、よく見つめて。もし、Sへの気持ちがただの同情なら、やめたほうがいい。かえって、かわいそうだよ」
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したことの結果の結果は見られない合わせ鏡の彼方のように
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矢嶋邸のキッチンで、ぼくはドイツ製コーヒーミルを回した。菊池とシバケンのことを交互に考えた。二人のことが、好きだった。でも、それはどういう好きなんだろう。ぼくはどうして菊池が好きなんだろう。ぼくはシバケンのどこを好きなんだろう。菊池はぼくのどこが好きなんだろう。シバケンはなんでぼくが好きなんだろう。そもそも好きってなんなんだ。考えれば考えるほど、わからなくなっていく。
ミルが空回りする。ぼくはミルの覆いをあけた。残った一粒。きょうの豆はニカラグア・ブエノスアイレスだが、大粒で挽きづらいのだ。ぼくはしぶとい豆を挽刃 のほうへ押しやって、どうにか始末した。
犬の絵のマグカップを両手に、地下室のドアを肘であけた。グランドピアノの横で矢嶋健はドライフードを手に、子犬のジャイロにお座りや伏せのコマンドを教えてるところだった。ジャイロは矢嶋を主人と認識したようで、飼い主への愛情を全身で表現した。舌をだした笑顔、メトロノームの尾っぽ。ぼくは頬笑ましくなって、コーヒーをテーブルに置いた。矢嶋が顔色を変える。
「その指」
はっと気づいた。右の親指から血。痛みはまったく無い。
「あれっ、なんで」
矢嶋はぼくの手をとった。親指の傷を観察する。
「薄いもので切ったな」
「あっ、たぶん、コーヒーミルの蓋だ。豆がうまく挽けなくて」
矢嶋は顔をしかめた。「あのミㇽだめだな。買い替える」
「捨てんの? もったいない。おれにくれ」
「ミㇽが欲しいのか。サーにピアーノを弾いた報酬はそれでいいんだな?」
「いや、もうちょい考える」
「めんどくさいやつだな」
矢嶋は救急箱を持ちだし、甲斐がいしくぼくの親指をピンセットと綿で消毒した。やつの太い指は、あんがい器用に動く。
「気をつけろ。おまえ、ピアニストだろ」
「いや、おれはピアニストなんて大げさなもんじゃ……」
「バカ。ピアノを弾けばピアニストだし、ヴァイオリンを弾けばヴァイオリニストだ」
「日本語でピアニストっていったら、ふつうはプロの演奏家のことなんだよ。ニュアンスがちがうんだ」
「そうなのか」矢嶋は驚いたみたいだ。「なら、やっぱりピアニストじゃないか」
「え?」
「演奏で荒稼ぎしたの、忘れたのか?」
矢嶋はからかうように笑った。たしかに、サー公への演奏代と称してカネは受けとった。でも、ぼくの思うピアニストの理想像とは程遠かった。
ぼくの親指に矢嶋は絆創膏を巻いた。肌色のテープの規則正しい穴。ありがとう、とぼくはいった。ジャイロが矢嶋にかまってもらおうと、ソファーの下をちょろちょろしてる。
「なあ、おまえはさ、本気で人をすきになったことある?」
矢嶋はしらけ顔。「ロォミオゥはおまえだろ」
「マジにきいてんだけど」
「あるような、ないような」
「なんだ、ないのか」
「キクーチさんのことか」
「まあ、そうね。考えたら、よくわかんなくなって」
「恋愛は考えるもんじゃない。人生と同じだ。恋は楽しめばいいし、人生は生きればいい」
「恋って楽しむもの?」
「まあ、楽しいばかりじゃないだろうけど、楽しくないなら、そもそもする必要ないだろ」
こいつって快楽主義者なのかな。ぼくはため息。
「自分が楽しめればいいとは、おれは思えないよ。それで人が傷つくのはいやだ」
「卵を割らずに目玉焼き ができるか。人の傷つかない恋なんてないぞ」
「経験ないくせに、わかったようなことばかりいうんだな」
「一般論だ」
「じゃ一般論でさ、同情と愛情って、どうちがうの?」
「たしかに区別しづらい。それはグラデイションで、明確なボゥダァラインは無いだろう。しいていうなら……」矢嶋は眉をしかめ、いいよどむ。「責任感を持てるかどうかじゃないか。その相手のために、面倒も苦労もすすんでひき受けられるなら、それは愛情かもしれない。《星の王子さま 》読んだことあるか。キツネが王子にいうんだ。あんたがバラの花を大切に思ってるのは……」
「そのバラの花のために、時間をむだにしたからだよ」ぼくは言葉をひき継いだ。病気のサー公のために、矢嶋が見せた忍耐と慈しみを思った。ぼくはうなずいた。「うん、なんかわかった気がするよ。ありがとう」
「わかったのか?」
「たぶんね」
ぼくはピアノの座について、パルムグレン《雨だれ》を鳴らした。矢嶋は根気強くジャイロにコマンドを教えこんだ。
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あどけないことを告げたいウェンディの声が含んだ波紋のゆらぎ
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木曜の昼休み。音楽室のヤマハで、ぼくはパルムグレン《雨だれ》を弾いた。まばらな雫がはらはら散るような寂しい曲。かたわらの菊池が急にいう。
「北浦のお母さん、今どうしてるの?」
ぼくはつい演奏の手を止めてしまった。菊池は早口にいう。
「ごめん。話しにくかったらいいよ」
ぼくは中音域のF#を叩いた。「知らない。ずっと連絡とってないし」
「ごめんね、変なこときいて。忘れて」
謝らないでほしい。ぼくはかわいそうなやつじゃない。
ぼくはまた弾きはじめる。こんどはメラルティン《雨》を。エルッキ・メラルティンはシベリウスの後輩。先輩よりも叙情的な作風。フィンランドの透きとおった水の大粒が真ん丸いままガラスを転がるようなアルペジオ。ずっと考えていた。話をどう切りだすべきか。弟の菊池光峰はぼくを元カレと呼ぶけど、そもそもぼくらはつきあってるんだろうか。好きといってないし、いわれてもいない。キスどころか、ハグもしてなきゃ、手も繋いでない。ただ菊池がぼくを好きみたいなそぶりをするから、ぼくも菊池が気になってしょうがなかったんだ。初めてぼくを好きになってくれた女の子。ぼくにとっての菊池雪央という存在は、そうだった。たぶん、それ以上でも、それ以下でもない。
「北浦、やっぱりピアノじょうずだね。いいなあ。あの《ダヴィッド同盟舞曲集》だっけ、あれも素敵だったし」
子犬の無邪気さで菊池はいう。透けて見える好意。ひどく苦しくて、ぼくは黙って鍵盤を見おろした。白と黒。
「北浦、怒ってる?」
「怒ってないよ」
ぼくは穏やかにいった。菊池は気をとりなおしたようにいう。
「おじいちゃんから冬のりんごが届いてね、もう畑に花が咲いたよって。りんごの花って桜に似てるんだ。それで、ママがりんごジャム煮てくれたの。すごく美味しいんだよ。きょうの帰り、うちに寄っていかない?」
「悪いけど、一緒に帰れない。これからも、帰れないと思う」
菊池の顔を、ぼくは見られなかった。菊池のぼくへの気持ちが、どの程度のものなのかはわからない。ぼくの言葉が、この子をどのくらい傷つけるのか、まったく測れなかった。菊池はおずおずという。
「あたし、何か悪いことしたかな」
「菊池は悪くない。ただ……」ぼくは言葉に迷って、いいよどんだ。「そばにいてやりたいやつがいる。おれが菊池といると、そいつが悲しむから。だから」
沈黙に皮膚がひりひりしそうだった。ぼくは続ける。
「菊池はおれじゃなくても、他にいいやつがいっぱいいると思うし……」
「何それ。あたしが誰でもいいみたいじゃん」
怒りを含んだ声。ぼくは顔をあげた。
「ちがう、そういう意味じゃなくて……」
「じゃあ、どういう意味」
潤んだ目に克ちあって、ぼくは言葉を飲んだ。菊池は普通のかわいい女の子だ。この先、幸せな恋をするチャンスはいくらでもある。けれど、シバケンはそうじゃない。この先、ずっと後ろ暗いところを歩いてかなきゃならない。だからだ。でも、そんなことを説明できない。
「……ごめん」
ぼくはうつむいた。五分まえの予鈴が鳴った。菊池は淡々という。
「あたしはね、北浦、誰でもいいわけじゃないんだよ。将来の夢のハナシした男子なんて、北浦が初めてだよ。火曜と金曜、家に来てくれてたとき、すごくうれしかった」
菊池の血色のいい頬、涙がゆるやかに伝った。指先でぬぐって、菊池は笑った。
「だけど、もう、いいや」
ちびたポニーテールが、ふいっと揺れた。去っていく丸い肩を、ぼくはただ見送った。菊池の涙に胸が痛みながらも、どこかでほっとしている自分に気づいた。
♂
ぼんやりと待つな負け犬いそげよ、と8ビートで鳴る警報機
♂
「芝。話がしたい……」
「なんだよ」
シバケンの眼光。思わずたじろいで、ぼくはかっこ悪くつけたす。
「……んだけど、だめ?」
「もう話すことなんかねえよ。あっち行け」
シバケンは手先を振った。下校時間の正門前。まわりの生徒がおかしそうに見やる。まじめっぽいぼくとヤンキーのシバケンの取り合わせは、きっと、ちぐはぐに映るんだろう。
「おれにはあるんだよ。大事な話なんだ」
シバケンは無視してずんずん行ってしまう。ぼくはついて歩いた。あいつはちらとふりかえって、いきなり駆けだした。ぼくは追いかけた。シバケンの足は砂漠のチーターみたいに速い。鈍足のぼくは必死だった。右の足を蹴りだし、左の足を蹴りだす。右の足を蹴りだし、左の足を蹴りだす。
警報音。天王町二号踏切、春空の青から遮断機が下りた。シバケンはたたらを踏んだ。ぼくはぜえぜえ息を切らし、あいつのXLのトレーナーの裾をつかんだ。ぼくは足は遅いけど、スタミナはあるんだ。ぼくは中腰であいつを見あげた。シバケンは咳きこんで、ふいっとそっぽを向いた。
横浜ビジネスパークのベリーニの丘は、橙色のコロッセオみたいな構造物だ。その丘のてっぺん、針葉樹のあいだから、ぼくは中心部の水のホールを見おろした。今はもう、あのクリスマスツリーはない。シバケンはベンチからこわい目で見あげた。ぼくは隣へ腰をおろし、親指の絆創膏を見つめた。
「その、おれさ、やっぱり、芝と一緒にいたい」
「で?」
シバケンの返事は冷ややかだった。ぼくは怯みそうになる。
「芝といたいから、菊池と終わらせた」
「なんでだよっ!?」
シバケンの大声にびっくりした。
「なんで……って」
「んなことされたって、おれはうれしかねえよ。なんであんないい子フッたりすんだよ。おめえはバカか!」
シバケンの唾しぶきが顔に飛んできた。こいつにバカっていわれた。あいつは右近中の方角を指差した。
「いますぐ、キクティんとこ行って、謝ってこい。土下座する勢いで、謝ってこい。急がねえと誰かにとられちまうぞ。早く!」
「……あ、あのさ、もしかして、おれって、今、おまえにふられてる?」
「へ?」
目が点になるシバケン。ぼくらは顔をまじまじ見あわせる。……だんだん、ぼくは自分がひどい思いちがいをしてたんじゃないかって気がしてきた。火照ってくる耳と顔面。涙腺と尿道と、あらゆる毛細血管がじぃーんと痺れた。
「……そ、そっか、そうだよな。へ、変だと思った。そんな、わけが、な、な、な、ないよな。ごめ……なんか、おれの、勘ちがいだった、みたい」
ぼくはふらりとベンチを立つ。……な、なんじゃこりゃあ! かっこ悪っ。かっこ悪すぎるぞ、北浦竜也。この場から一刻も早くいなくなりたい。今にも涙が落ちそうだ。
右手首をつかまれた。熱っぽい掌。ぼくは強引に進もうとした。あいつはどうあっても手を放さない。ぜんぜん振り払えない。ちくしょー。
「待ってよ。カンちがいって何」
「……な、なんでも、な……」
「なんでもなくねえっしょ。なんで泣くのよ」
「……泣い、てな……」
かろうじて表面張力で保っていた両目のダムが、決壊した。とりつくろいようもない大粒の雫。いやだ、見られたくない。ぼくはしゃがみこんだ。みっともない顔を膝のあいだに突っこむ。
「……もう、だめ、だ……土下座し、たって、菊池は、も……おれを、信じ、てくれな、い」
シバケンは手をつかんだまま一緒に屈んで、うなじのあたりを見つめている感じがした。
「……お、おれが、そばに、いたら、おまえは……う、うれしい、のか、と思っ、たんだ……か、勘ちが、い、だったんだ、な」
「カンちがいじゃないよ。キタがそばにいてくれたら、おれはうれしい。すげえうれしい」
ぼくは顔をあげた。シバケンは困ったように笑ってた。
「うれしいけどさ。でも、やめとけよ」
「なん、で。悪いことじゃ、ないのに」
煙水晶の目が睨んだ。「んなこたわかってんだよ。おれは愛してるだけだ。世間はおれを叩くだろうけど、そんなの世間がおかしいんだ。でも、世間は強えから、おれは勝てねえ。おまえにいっしょに負けてくれなんて、おれはゆえねえよ。ゆえるわきゃねえ。なあ、キタ、だからさ……」
「負けてもいいよ、おれは」
「……」あいつは口をひらいた。けれど、何もいわずにとじた。
「芝が、いてくれるなら、負けてもいいのに」
じれたように髪を掻きむしって、シバケンは腰をあげる。ぼくはやつの裾をつかんだ。あいつは不安な目をした。
「なんでキクティじゃなくて、おれなんだよ」
「芝は、おれと、同じだから」
「同じって?」
「人に、やさしい」
「キクティだって、やさしいだろ」
「自分のことが、すきじゃない」
「そんなやつ、いっぱいいるだろ」
「それで、家族に……虐待されたことがある」
え、とシバケンは小さな声を立てた。
「ピアノ弾くとき、ミスタッチすると、かあさんに竹の定規で手ぇ叩かれた。おれは、おれが出来が悪いから、しょうがないんだと思ってた。それがあたりまえなんだって。他の子の親は、そうしないんだってわかったときには、おれ九歳んなってた」
シバケンは唇を結んで、大きく息を吸って吐いた。ぼくは片手をポケットにつっこんだ。体温でぬくもったそれを見せる。束になった六つの安全ピン。自然教室の夜までシバケンの左耳を飾っていた。
「キタは、おれんこと、すき?」あいつは泣きだしそうな目で笑う。「ふられたとおもったら、泣いちゃうくらい、すき?」
ぼくは強情に黙っていた。ちがう。菊池にわざわざ嫌われて、シバケンにまでふられたんじゃ、自分があまりにも惨めだと思っただけだ。ただの自己憐憫。そんな気持ちを露知らず、シバケンはぼくの掌を握りなおした。
「すきんなってくれて、ありがと」
温かい左手を握りしめると、心臓のリズムできゅうきゅう弾んでた。春の風は湿気を含んで、濡れた頬をくすぐった。どこか遠くでコジュケイが騒いでいた。シバケンはぎゅっと手に力を込めた。
ぼくらはずっと、ただ手を繋いでいた。
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野の風をその手この手に閉じこめる people prayと騒ぐ春鳥
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