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二十七哩(取扱注意)
初めて手にしたヴァイオリンは、大きな鳥のように軽かった。中心から外側へと細くなるスクロール・四本の太さの異なる弦・8の字のくびれの四本角・かろやかな輪郭のf字孔・表板の丸っこいアーチ、その曲面の集合体の温かみある飴色の照り。どこか民芸品めいた素朴さを感じさせる楽器だ。矢嶋邸のピアノの前、ぼくはぎこちなく構えて、左手で弦を適当に押さえて、右手で弓をひいた。一応、きれいに音はでた。うぉー、と子犬のジャイロがいっちょまえに遠吠え。矢嶋は笑い声を立てて、太い指でヴァイオリンを差す。
「ようするに木の箱だよ。なかは空洞。弓 で弦 を擦ると、その振動がこの駒 に伝わって、ボディが共鳴して、このf字孔 から音がでる。機能的にはアンプと一緒だ」
「原始的なアンプ?」
「原始的なもんか。ヴァイオリンはどうしてくびれていると思う?」
「弓がぶつからないようにだろ?」
矢嶋の銀の歯列矯正器。「それもあるけど、それだけじゃない。もっとシンプルな形だったら、音によって共鳴にバラつきが出るだろ。このふくらみとくびれの組みあわせは、どの周波数でも対応して共鳴を均等にするんだ。このfホールズだけをとっても、ただ美しいだけじゃない、ものすごく合理的にできてる。中央はブリッジを支えなきゃいけない。必然、穴は両脇にあける事になる。強度を保つために、とりのぞく木目はなるべく少なくしたい。それでこの細さだ。両端でカァヴが円を描いているのは、裂け目がこれ以上ひらかないようにするため。下のカァヴが外向きなのは、音の拡がりをできるだけ邪魔しないため。上のカァヴは、くびれのせいで内向きになるしかない。このfの横棒は、ブリッジやソウルポストの目印になってる」
目をひらかされる思いがした。この不思議なかたちに、ちゃんとした理由があったのだ。そのf字のほんのささやかな横棒を、ぼくはしげしげと眺めた。
「ソウルポストって?」
「日本語じゃコンチュウていって……蝶とかカブトムシじゃないぞ、魂の柱って書く」
ぼくはその字をはっきりと思い浮かべた。魂柱。
「なかで表板 と裏板 をつないで、音を全体に伝えやすくする棒だ。ここから覗けるだろ」
あいつは右のf字孔を示す。その一センチに満たない隙間から、細い白木の棒が窺 えた。
「この棒は、接着はされてない。微調整ができるようにだ。この小さなパァトの太さ・長さ・位置・安定感で、音の響きかたがまるで変わってくる。すごく繊細なんだ。ソウルポストだけじゃない。全てのパァツがそうだ。全てにちゃんと意味がある。無駄が一切なくて、独立的で、だから美しい。おれが弾いてるのは、そういう楽器だ」
矢嶋はヴァイオリンの発明者のように誇らしげだった。ぼくはピアノについて、そこまで深く思いを馳せたことがなかった。やわらかい照明を撥ねかえして、そのヴァイオリンの色は歳月を経た深みがあった。ところどころに細かな傷。
「すごく古そうだけど、もしかしてストラディヴァリウスだったり?」
矢嶋はあきれ顔。「これのどこがストラドなんだ。音をきいたろ」
「そんなバカ高いヴァイオリン、ナマで拝んだことないし」
「ストラドは澄みきったハイトゥンが特徴なんだ。形はもっとクッキリしてて、何よりも仮漆 の光沢がちがう」
矢嶋はヴァイオリンの先細りの棹 をつかんで、手もとをテーピングした弓を振った。足もとでジャイロがぐるぐる回る。
「まあ、こいつはストラドと同じくらい年寄りだけどな」
「そんな由緒正しいもんなの?」
「ピエトロ・グァルネリの作で、マントゥーア公国最後の一七〇七 のものだ」
二九四歳の老嬢か。ぼくの二十一倍の齢だ。
「ガルネリってストラドの次くらいに高いやつ?」
「それはグァルネリ・デル・ジェズ。ピエトロは、デル・ジェズの伯父だよ。残された作品は多くないけど、腕のいい職人で、副業でガンザァガ家の宮廷楽団のヴァイオリニストをしてた。それから、このヴァイオリンに関する記録はしばらくない。そのころのイタリアは戦乱のなかにあったし。このヴァイオリンがどうやって生きてきたのかは、もう想像するしかない。たとえば、どこかの村の教会の持ちものだったのを、ルイジ・タリシオあたりの愛好家が見いだしたのかも。それをジャン・B・ヴィオゥムあたりが手を加えたのかもしれない。とにかく、このヴァイオリンがとても大事にされてきたのはわかるんだ。たしかなのは、こいつがあのフリッツ・クライスラァのコレクションの一つだったこと。クライスラァの死後、一九 六七 にヒル商会 があつかってる。そのあと長いこと、ジュリアード 四重奏楽団 の第二 ヴァイオリンだったおじいさんが弾いてた。その人に譲ってもらったんだ。J.F.ケネディに似たハンサムな人だったよ。まだ元気にしてるかな」
矢嶋は四角い顎に、つややかな楽器を添えた。予備動作なしに弓をひく。摩擦音は春の風のなめらかさ。ベートーヴェン《ヴァイオリンソナタ第五番》のアレグロの出だし。窓のない地下室の空気が急に日ざしを浴びたようだった。ぼくは自然と目をつむった。音がやむ。目をあけた。光のなごり。あいつは弓をタクトみたいに振る。
「手始めはこのソナタだ。スコア持ってこい」
ぼくは忠実な犬のように駆けた。ビルトインの壁一面に犇 めく楽譜。一番上の段、Bの音楽家のゾーンから、ぼくの指先は《Frühling/Spring》の楽譜を見つけた。誰からともなく《春 》と呼ばれだしたこのソナタは、どこまでも朗らかでフェミニンな曲想。この曲は当初《ヴァイオリンソナタ第四番》とセットで一作品として出版された。第四番のソナタは内向きの暗い情熱を感じさせて、《スプリングソナタ》とは対照的だ。当時、三十歳のベートーヴェンはすでに難聴に苦しめられていた。深く苦悩しながら、それでも光を求めたということだろう。すべてには表と裏がある。ヴァイオリンの板のように。
♂
ピノッキオになるはずだったヴァイオリンかかえて鼻の高い少年
♂
ヴィアーノかヴァイアーノかは措 くとして、VIANOというユニットを矢嶋と組んだ。その第一曲として矢嶋が選んだのが、《スプリングソナタ》だった。
「CDできいたんだよな?」
「うん、オボーリンとオイストラフ」
「あのジジイたちか。あれは忘れろ」
そういって矢嶋はマッキントッシュでフリッツ・クライスラーの音源をきかせた。オボーリン&オイストラフ盤を忘れろといったわけがわかった。速い。じいさんたちの演奏が小川の淀なら、クライスラーのそれは清流の瀬だった。清く冷たい春。
ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェンはピアノ弾きだった。《スプリングソナタ》はヴァイオリンソナタだが、ヴァイオリンとピアノが対等の存在感を持つ。ぼくは力負けしないよう、楽譜を熟読した。難易度の高い曲じゃない。矢嶋のヴァイオリンに合わせるのは、それほど難しくなかった。
「一二一から一二三小節んとこ、遅い。もう一度。いいか、おれをよく見てろよ」
矢嶋は小節ごとに弓を変えて、適切なタイミングを教えてくれる。音楽祭での指揮者の経験が活きてるんだろうか。ぼくは小さな段差を一つずつあがるように上達していく。
「あのさ、サー公にピアノを弾いた報酬って、まだ有効?」
ペットボトルの水を飲んで、矢嶋は笑う。
「あゝ。決まったのか?」
「《悪魔のトリル》ってわかる?」
ジュゼッペ・タルティーニが夢のなかで悪魔に教わったといういわくつきの曲だ。タイトルは有名だけど、ぼくはきいたことがなかった。
「《The Devil's Sonata》のことか?」
「たぶん、そう。それがききたい」
矢嶋は嫌そうな顔。「あんな難曲」
「難しいの? じゃあ、いいや」
どうしてもききたいわけじゃなかった。ぼくの態度を悪くとったようで、矢嶋はムッとした表情。
「やる。ただ、練習期間をくれ。きょうはこれで我慢しろ」
矢嶋はヴァイオリンを構えて、弓をひく。せつない調べは、たぶん、J.S.バッハ《無伴奏ヴァイオリンソナタとパルティータ》のうちのどれか。シャコンヌに似ているけど、シャコンヌじゃなかった。あいつは丁寧に奏でた。ぼくはありがたく目をとじた。
言葉でたりるなら、音楽はいらない。
♂
私道のヤマザクラは四分咲き。わが家の物置小屋は、春の日差しにぼんやりと明るかった。広さは三坪ほどだけどガラス戸になってて、その気になれば住めそうな建物だ。古い木と布と紙のにおい。ぼくは岩波文庫の《古事記》を読みかえした。じいちゃんの遺品だ。芝賢治は古ぼけた茶箱の蓋をよけて、中身をあさってる。
「ねえ、キタ。これ何」
シバケンが何かを差しだす。小判型の錆びついた真鍮、両端に穴があいてる――東・歩二二〇という刻印が、かろうじて読めた。見おぼえがあった。
「認識票だよ。兵隊が身に着けて、戦死したとき身元がわかるようにする札 。ほら、よく戦争映画で兵士が首から下げてるやつ」
「キタのじいちゃんの?」
「いや、なんか戦友のだっていってたよ」小屋の埃のせいか、裏山の杉林の花粉のせいか、ぼくはくしゃみした。「骨壺に一緒にいれてくれっていってたんだけど、誰のだかわかんない遺品なんて気味悪いって父さんいやがって」
「じゃ、こっちは?」
あいつはミニジップバッグを差しだす。なかに金色の欠けら。ぼくは袋をあけて、掌に乗せてつついた。日差しにきらりと光るそれは、臼歯のようなでっぱりとくぼみがあった。
「こりゃ、金歯だな」
「十八金?」
「わかんないけど、純度は高そう」
「カネんなるかな」
シバケンの目が輝く。お手柄を褒められたがってる犬みたい。ぼくはつぶやく。
「もしかして、ばあちゃんのだったのかな」
「キタのばあちゃん?」
「おれが三つのときに、くも膜下出血で死んじゃったらしくて、なんにも憶えてないんだ」
シバケンは急に神妙な顔。「じゃ、売らない?」
「いや、売ろう。ただしまっとくより、役に立てたほうがいいだろ」
「一六銀行に売りに行こっか」
「……どこ?」
シバケンは得意顔。「丸滝って、おれんちがよく世話んなってる天王町の質屋、貴金属の買取もしてくれるはずなんだよ。いまから一緒に行こ」
「今から?」
「デートしようぜ、デート」
「いや、今もデートなんじゃ?」
「春だから、歩きてえじゃーん」
シバケンは駄々っ子みたいな口調。やっぱり、末っ子って甘え上手なのかな。ぼくはあいつの頭を撫でた。ざらりとした短髪。
「案内してくれる?」
シバケンはにんまり笑った。「売れたら一割おれのぶんな」
「はいはい」
♂
さくら花あかるき地より散りそめて好きな本からぼろぼろになる
♂
保土ヶ谷区西端の今井町のぼくんちから、東端の天王町までは、だいたい五キロ。バス代の節約を兼ねてぼくらは歩いた。シバケンが右側/ぼくが左側。シバケンの腰で揺れる手錠。あいつは鷹の刺繍の青いスカジャンを着てた。どこかで見たと思ったら、あのユーヒのおさがりだそうだ。
「キタのお父さんさ」
「うん?」
「その、具合どう?」
「たいぶ良いみたいだよ。毎日ハローワーク行ってるし」
「お父さん、やさしそうだな」
「やさしいけどさ、弱いんだよ。おれを置いて死のうとするしさ。そんなに死にたきゃ死ぬまえに、おれを殺せっつったら、おれの首に手ぇかけやがって」
「でも、絞めなかったんだろ?」
「絞めようとはしたんだ。度胸なくて絞められなかっただけ」
シバケンは首をかしげた。「フツーじゃねえかな、それ」
「ふつうかな」
「フツーだよ」
「芝はびっくりしないできいてくれるから、ありがたい。みんなはひいちゃうでしょ、こういう話。矢嶋や清水には話せないよ」
「だから、キクティじゃなくて、おれなの?」
シバケンはかわいらしく小首をかしげた。ぼくはあいつの頭を撫でた。
「芝といるの、楽だ」
あいつはにこっと笑って、ぼくの肩を抱いた。花奢だが強い腕。
「こないだ、三人でニュー京浜いったのよ」
ニュー京浜は、地元の老舗ラブホテル。ぼくはめんくらった。
「3P?」
「おれはそれでもよかったんだけどさ、そのへんヨイチってお堅いっつうか古風なトコあって、絶対だめだって。で、あいつとミズノがフツーにやって、おれはそれを見ながらシコシコ」
シバケンはオナニーの手真似。ぼくは噴きだした。
「おれの母親さ、不倫したんだ。保険会社の上司と」
シバケンはまばたきした。「へ?」
「浮気したら捨てるからな」
ぼくは真顔でいった。あいつは途惑いがちにうなずいた。
天王町は保土ヶ谷一の繁華街だった。ハマのアメ横と呼ばれる洪福寺松原商店街をお隣の西区と分割し、シルクロード天王町のストリートを中心に店が点在する。
[丸滝]の看板のビルは、帷子川 沿いの袋小路にあった。上階はマンション、一階が質屋。目立たない狭い入口、宝石の写真が貼られたカウンター。金歯の欠けらを鑑定し、責任者らしき五十がらみのおばさんはいう。
「二十金だね。でもね、申しわけないけど、ここは十八歳未満の子は利用できないルールなのね。法律で決まってるの。こんど、おうちの大人に頼んで、換金してもらいなさいな」
「おれの親、芝真由美 ってここの常連なんだけど、それでも顔パスききませんか」
「うーん、個人的には換金してあげたいけど」
「カネにするとしたら、いくらですか」
おばさんは金歯を電子秤に乗せた。「今なら四二八八円ね。でも、相場は毎日変わるから、もっと高いときに売りにおいで。ね?」
親切な店だった。シバケンとぼくはポケットティッシュだけもらって質屋をでた。あいつは諦めがつかないようで、袋小路の途中で店を振りかえる。
「ちゃんとカネになるってわかっただけでよかった。一割は、えーっと、四捨五入して四二九円か」
ぼくはスヌーピーの財布をひらいた。シバケンは手を振る。
「いいって、カネになんなかったんだから。おれはヒモじゃねえよ」
「そうだ。おまえの借金、あと五二三円だぞ」
「やなこと思いだすなよ」
「そういえばさ、なんであのとき千円が必要だったの」
「ガソリン代って名目だったけど、とにかく借金しろってゆわれた」
「兄貴に?」
シバケンは石を蹴って、うなずく。「借金して、それでなるべく小だしに返せってゆわれたんだ。そおすりゃ仲よくなれるって。ほんとになれた」
「いいところもあるんだ?」
「そおやって仲よくさせといて、キタんことどおにかするハラだったんだよ。おれが大事にしてるモン、みんな壊すんだ、あいつは」
シバケンはハッと顔をあげて、袋小路の入口へと駆けていった。赤ん坊をおんぶした女の人が、近寄ってきた男子中学生に身構える。
「お姉さん、もしかして丸滝に用事?」
ええ、と女の人は途惑いがち。
「それなら、ひとつお願いがあって……」
そして、ぼくらは四二八八円を手に入れた。シバケンは四三〇円を女の人に渡した。
「これでおいしいモン食べてください」
女の人は何度もお礼をいった。手を振るシバケンに、ぼくはいう。
「いいのかよ、一割あげちゃって」
「いいって。あのお母さん、大変そうだろ」
あいつは照れくさそうだった。ぼくはこの不良少年を好 もしく思った。ぼくらは小路をでて、表通りに佇んだ。シバケンがいう。
「どっち行く?」
「これで決めよう。鷲だったら右、大統領だったら左」
ぼくは白銅貨を投げあげた。左手の甲で受け、右手でぱしりと押さえる。ワシントンの横顔だった。
「よし左だ」
「何それ、どこのカネ?」
「アメリカの二十五セント」
ふと真顔になるシバケン。「もしかしてメリケンにもらった?」
「うん。矢嶋がやっぱり財布にいれてたんだ。お守りになるんだって」
「ちょうだい」
「え」
「おれにちょうだい」
シバケンは左手をひらいた。あいつの真剣な目。ぼくは鷲の白銅貨を眺めた。気にいっていたのだけれど、まあ、いいか。ぼくはその手に乗せてやる。
「ほらよ」
硬貨を握って、あいつは駆けだした。帷子橋のうえ、サウスポーのエースピッチャーのように振りかぶる。止めるまもなかった。シバケンは全身を使ってぶん投げた。小さな白銅貨は弾丸のごとく三十メートル以上すっ飛び、川面のどこかへ失せた。あいつは得意げに笑う。ぼくは呆然とした。
「……なんで」
シバケンは駆け戻ってきて、不敵にいう。
「いいじゃん。おれがもらったんだから」
「そうだけど……」
声が詰まった。そうだけど、大事にしてくれると思ったから渡したんだ。捨てさせるためにあげたんじゃない。
「あいつ、きらい。むかつくんだもん」
シバケンがいった。こいつは矢嶋に妬いてるんだろうか。バカげてる。
「おれだって、あいつのことはむかつくよ。そういうやつなんだから、しょうがない」
「むかつくなら、なんでつるんでんだよ」
ぼくはいらいらしてきた。「芝にはわからない理由だよ」
「なんだよ、それっ」
シバケンは声を荒げた。ぼくはおもいっきり顔をしかめた。
「おれ、もう帰る。じゃあなっ」
ぼくは背を向けて大股に歩きだした。右の足を繰りだし、左の足を繰りだす。右の足を繰りだし、左の足を繰りだす。環状一号線を西へ。同じリズムでついてくる靴音。振りかえってやるのも癪で、そのまま速度をあげてずんずん歩きつづけた。左手首を見やって、つい舌打ちする。腕時計はもうないのに。長年の習慣は、なかなか抜けなかった。気をとりなおして、ぼくは口笛。ベートーヴェン《失くした小銭への怒り》。楽聖らしからぬコミカルな四分の二拍子。出版者のアントン・ディアベッリが手を加えたって話だけど、ぼくはお気に入りだった。エアピアノを弾いて、ヴィルヘルム・ケンプを気どる。
洟をすする音。ぎょっとして後ろを見た。泣き濡れたシバケンの顔。ぼくの二の腕をつかんでくる。
「キタは、あいつがすきなの? むかついても、いっしょにいたいくらい、すきなの?」
あいつはしゃくりあげる。ぼくはため息をついて、シバケンに向きなおった。
「ちがうよ。おれは矢嶋の人格はきらいだ。すきなのは、あいつじゃなくて……まあ、しいていうなら、あいつの弾くヴァイオリンの音だ。そんだけ。それとこれとはちがうよ。ぜんぜん別もんだ。今、おれがすきなのは、おまえだ。人間のなかで一番、すきだ」
シバケンの目がじわりと潤んで、やつはトレーナーの袖でこすった。
「わかった?」
……うん。かぼそく鼻で鳴いて、あいつはこっくりとうなずいた。ちっちゃい子みたいに。ぼくは息をついて、質屋のティッシュを二、三枚わたす。
「おまえ、ヤンキーのくせにピーピー泣くなよ。洟たれてんぞ。みっともない」
「だってぇ」
シバケンは音を立てて洟をかんだ。ぼくは上を向いた。
「おれ、腹へった。なんか奢って」
「え?」
「人のコイン捨てやがったうえにクソ恥ずかしいセリフいわせたんだから償えよ。高いもんじゃなくていいからさ」
シバケンは財布と相談の末、オリジン弁当で鶏カツを買った。二人で齧りながら、ぶらぶらと帰る。
「こんどさ、キタんこと描いていい?」シバケンがいった。「いつも思いだして描いてたから、こんどはちゃんと見て描きたい」
「脱ぐの?」
シバケンの横顔が緊張した。やや赤らむ。
「いや、脱がなくてもいいよ。ガマンできなくなるかも」
「我慢する必要あるの?」
あいつは目を伏せて、そっぽを向く。「キタとは、しなくていい」
「あんなキスしたくせに」
自然教室の夜のあのキスは、しばらくひきずった。シバケンは気まずげに黙りこんだ。違反センター交差点の信号にひっかかる。春のきれいな朱鷺色の夕焼け。
「ぜったい無理だと思ってたから、思い出がほしかっただけ。悪かったよ」
「べつに、おれは、そうしてもいいのに」
「ゆうのとやるのじゃ、ぜんぜんちげえよ。キタが思ってるようなモンじゃねんだよ。おれ、キタんこと壊しちゃうよ。だからいやだ」
信号が青になって、シバケンは歩きだす。つきあってはいても、ぼくとシバケンの関係はプラトニックなものだった。ものたりないような、心地いいような、どっちつかずな気持ちを、ぼくは持てあました。つい、また左手首を見て、ぼくはため息をつく。自分自身がわからなかった。
ぼくはこいつと抱きあいたいだろうか?
♂
川風に湿った髪を掻き混ぜてちゃんちゃららしくないことをいう
♂
山下和仁の弾くムゾルグスキー《展覧会の絵》。クラシックギターの超絶技巧は、果たして一人の仕業なのかと疑うほどオーケストラ的だ。紙に走るシャーペンの音。ときどき、ペンをノックする音が混じる。二階の窓から暗い光・遠雷・雨の気配。ぼくは自分のベッドに腰かけて、絵を描く男をぼんやりと見つめた。シバケンは回転椅子にあぐらをかいて、ぼくとスケッチブックを交互に見やった。煙水晶の目の光。こんなに真剣に観察されることって、一生に何度あるだろう。
五十四分のCDが終わった。システムコンポのリピート機能で、再び《展覧会の絵》が始まる。スケッチを一枚仕上げて、シバケンがあくびした。ベッドへ乗ってきてぼくを押しのけ、目をつむった。
「キタんちだと、よく眠れんだ。いきなり誰か来て襲われる心配ないからな」
一〇分もしないうちに寝息を立てる。人の寝顔ってあどけないものだと思うけど、シバケンの場合はかえって険しい表情だ。
あいつの寝顔を見つめながら、ずっと考えていた。シバケンは何もしてこなかった。さわってくれと口にするのはためらわれたし、ぼくからさわるのはなおさらだった。シバケンに輪姦の経験を告白されたとき、ぼくは勃起していた。あいつを犯したやつらと、ぼくとは何がちがうのか。もしシバケンが女の子なら、ぼくは深く考えずに寝ているだろう。そして、矢嶋健でも清水俊太でも自慢なり相談なりしまくるだろう。でも、ぼくもシバケンも男だ。誰にも自慢できないし、誰にも相談できない。
愛情と欲望は何がちがうのか。頭を撫でる行為と、アレを肉の底にねじこむ行為は何がちがうのか。今、こいつにふれてみたかった。ぼくは息を詰めて、顔を顔へ寄せた。血の色の唇を、軽く吸う。あいつは目覚めなかった。
シバケンのトレーナーをたくしあげた。インナーシャツは着ていなかった。瘦せてはいるが、腹筋が割れてる。張りのある皮膚を、そろそろと撫でる。すべすべで気持ちいい。ローライズジーンズから覗く陰毛。下着が、見えない。ノーパン派なのか、こいつ? ぼくはファスナーをひらいて、ホックを外した。やっぱり、ノーパンだった。黒ぐろした陰毛と、白っぽいチンコ。両手でつつむと、むくりと膨らんだ。庚申薔薇色の亀頭。べつに、なんてことなく思えた。ぼくはおそるおそる口を近づけた。
胸への衝撃、息が止まった。ぼくは背中から床へ落ちた。シバケンが半身を起こして睨んでる。蹴られたんだ、と遅れて理解した。胸から涙腺がじんと痺れる。ぼくはうつむいて、胸をさすった。
「芝はさ、おれにさわられるの、いやなの?」
「だめだ。おれは汚いから、キタが汚れる」
「汚いとか、きれいとか、どうでもいいよ。おれとしたくないなら、そういえばいいだろ」
涙があふれそうになって、ぼくはシャツの腕で目をこすった。シバケンは苦しげに眉根を寄せて、顔を片手で覆った。
「……だって、おれ、いろんなやつとやってるし、変なビョーキもらってるかもしんねえじゃん。エイズとか。あれってなめただけでウツるんだろ? キタにウツしたら、やだよ。ぜってえいやだ」
こいつのいう汚いの意味が、やっとわかった。ぼくは立ちあがって、ベッドに正座した。
「うつるとしたら、もううつってると思う」
「え……?」
「おれ、おまえの血ぃ舐めたじゃん」
ぼくが屋上のへりを歩いたとき、こいつの肘から流れた血を舐めた。シバケンは目を見ひらいて、木彫りの像のようにこわばった顔で固まった。とりかえしのつかないことをしたとでもいうように。
「謝って、蹴ったこと。深ぁく傷ついたから謝って」
あいつはまばたきして、小さな声でいう。「ごめん」
「だめ。口先だけじゃなくて、体で謝って」
「土下座……?」
「ちゅーしなさい」
ぼくは人差指でちょいちょい招く。あいつの相好がくしゃりと崩れる。
「チュー⁉︎」
「ちゅー」
「チュー⁉︎」
「ネズミかよ?」
「シバケンです」
笑った。ぼくは掌を差しだした。
「お手」
「うぉんっ」
へたくそな犬の鳴き真似、あいつは手を乗せる。ぼくはひき寄せて、ぎゅっと肩を抱きしめた。あいつもしがみついた。あたたかい、かわいい生きもの。ぼくはいう。
「あのさ、キスのときって、息どうしたらいいの」
「フツーにしたらいいだろ」
「だって、あんまり鼻息かかると」
「おれの鼻息そんな荒い?」
「いや、おれの鼻息が」
ぼくらはくすくす笑って、しばらくキスの練習をした。
骨ばった手がぼくのファスナーをあけて、下着ごとジーンズをずりおろすのを、いたたまれない気分で見てた。勃起したそれの、むず痒い感覚。シバケンは恍惚とつぶやく。
「……おっきい」
こいつ、マジにホモなんだ、と思った。ぼくは仮性だった。あいつは皮を剝いて、亀頭をじっくりと観察した。ぼくは小声でいう。
「あの、やっぱ、恥ずかしい」
「おれのなめようとしたくせに」あいつは笑った。「目ぇつむってろよ。そしたら女と変わんねえから」
「目ぇつむっても、恥ずかしい」
「くそ。あいつ、むかつく」
「え?」
「キタのチンポさわったチビ」
葛󠄀城力の腰巾着くんのことだろう。ぼくはすっかり忘れていた。
「おれが最初にさわりたかった」
シバケンは親指で亀頭をこすった。変な声が飛びでて、ぼくは口を押さえた。声は殺しても、腰が勝手に跳ねる。自分でさわるときの三十倍くらい感じた。パイプベッドが小さく軋む。恥ずかしい。あいつの顔つきは冷静だった。目の光だけが妖しく、美しい。
「なめていい?」
「や、汚いから」
「きれいだろ、童貞だし」
「そうじゃなくて、衛生的に……あ」
シバケンは首をかしげて、舌を這わせた。そこを小さな火で焙られるみたいだ。濡れた音。ぼくは親指の付け根を嚙んだ。
「下にお父さんいるもんね?」
あいつは意地悪く笑って、咥えこんだ。ぼくは呻いて、足をつっぱった。硬い上顎・ぼつぼつした舌・低温火傷しそうな熱――口ってほとんど内臓みたいだ。鼓動が加速して、体温が一度くらいあがった気がした。伏せられた睫毛の震え。骨ばった手が、ざりざりと陰毛を撫でる。《展覧会の絵》は終わって、カップリングのストラヴィンスキー《火の鳥》が流れていた。ぼくは意識を逸らそうと、目を閉じてギターの旋律に耳を澄ませた。それでも、あまり持ちそうになかった。
「……芝。もう……でそう」
シバケンはぼくの顔をうかがって、目で笑った。腰から背骨へ電撃。頭が白熱して、ぼくは筋肉をこわばらせた。声を殺しきれなかった。射精は数秒つづいた。でも、あいつは余さず飲みほして、赤い唇を舐めた。
「ごちそうさま」
チンコがすうっとして、背すじが震えた。「む、無理しなくていいのに」
「慣れてるよ。みんな味ちげえんだよ。キタのはうめえ」
腰が重だるかった。あいつのジーンズの下半身、ファスナーが張って皺が寄ってる。ぼくはそのベルトに手をかけた。やんわりと手を外された。
「イイコはそおゆうことしちゃだめなの。はい、きょうはおしまい」
ぼくの髪をくしゃくしゃとかき混ぜて、シバケンはいつもの顔で笑った。
♂
チープな《主よ、人の望みのよろこびよ》。ぼくは目をあけた。電話だ。階下の父が対応したようで、音が途切れる。まもなく内線の呼出し音が鳴って、父の声がした。
『矢嶋くんだぞ』
ぼくは跳ね起きた。しまった、矢嶋邸に行く約束だったのに。隣でシバケンが目をこする。窓の外は雨の宵闇だ。ぼくはコードレスホンの子機を手にした。矢嶋の低い声。
『なんで来なかったんだ』
「ごめん。芝の絵のモデルしてたら、寝ちゃって」
『つまらない絵のモデルしてる暇があったら、ピアノ弾けよ』
矢嶋の声が漏れきこえたのだろうか。シバケンが憤然と子機を奪った。
「おい。見てもねえモンをつまんねえとかゆうんじゃねえよ。つまんねえかどおか見てから判断しろよ。おぼえてろよ、てめえ」
シバケンは子機を充電器に叩きつけた。スケッチブックの一ページを破りとり、ぼくに突きだす。あいつは不敵に笑った。
「あいつに見せろ。それでもつまんねえってゆえるか、試してやろうじゃねえの」
♂
この街をそれぞれに蹴る靴底の表裏のように隔たりながら
♂
「なるほど。わかった」
シバケンが描いたぼくの素描を見て、矢嶋はいった。褒めはしなかったが、貶しもしなかった。絵をぼくに返却する。
「第一楽章 、春休み中に完成させるぞ」
「完成させてどうすんの」
「録音する」
「録音してどうすんの」
「あとで考える」
ぼくはため息をついた。こいつのワンマンぶりは慣れてるけど、意味もわからずつきあわされるのはかったるかった。
「二三二小節目以降は、もっと右手を控えめにしろ。二三六小節目のクレッシェンドが際立たなくなる」
《スプリングソナタ》第一楽章は仕上げ段階だった。ミニチュアの重箱のすみをつつくような指示が飛ぶ飛ぶ。ぼくはやる気がでなかった。鍵盤を叩きながら、ぼくのを咥えたときのシバケンの顔が浮かんだ。ちょっとまぬけで、でも一生懸命な。ぼくは勃起した。
「魂がどっか行ってるだろ」
矢嶋がいった。手を抜くと、すぐにバレる。面倒くさい。ぼくは大げさに頭をかかえた。
「ごめん。疲れてて」
「おまえ、おれに隠し事してないか」
矢嶋の眇めた三白眼。見透かされるようで、ぼくはどきりとした。
「ごめん。二十五セント 失くした」
「失くすなっていっただろ」
「だから、ごめん」
こいつといると謝ってばかりだ。矢嶋は一度だってぼくに詫びたことなんてないのにな。ぼくは左手首を見て、顔をしかめた。もう時計がないのを忘れて、ついなんべんも手首を見てしまう。
「ほら」矢嶋が右手をだす。Ⅶから中央へ走るガラスの罅、いつか宿場まつりで買った懐中時計。「やる。飽きた。これ、ゼンマイが十時間しかもたないから、マメに捲いてやんなきゃだめだぞ」
「……」ぼくは時計を見つめて待った。その代わり……と何か交換条件を持ちだしてくるにちがいない。
いつまでも手を出さないぼくにじれたように、矢嶋は無理やり時計を握らせた。
「もともと、おまえが先に見つけたんだ。こんどこそ失くすなよ。休憩したら、続きだぞ」
矢嶋は水を飲んだ。結局、なんの条件も示されない。ちらちら回る歯車の光。うれしい、というよりは釈然としなかった。
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花冷えの街の底なる根の国へ走るか時計仕掛の兎
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ドビュッシーが流れていた。ぼくの好きなモニク・アースの演奏。芝賢治が回転椅子でスケッチして、ぼくはベッドに座ってた。使い勝手の悪い回転式CDラックはほとんど埋まってて、ラックの屋根にもCDが積んである。いらないやつを父に売ってもらわなきゃ。
六十八分のCDが終わった。システムコンポのリピート機能で、再び演奏が始まる。《ベルガマスク組曲》の《前奏曲》。じっとしてるだけのぼくは、睡魔に襲われた。春眠、暁を覚えず。かくりと倒れそうになるぼくに、シバケンがいう。
「寝ててもいいよ。勝手に描くから」
お言葉に甘えて、ぼくは横になった。目はつむったけど、眠りこむ気はなかった。
《夢》が流れていた。妙に気持ちがよかった。シバケンが音もなく立ちあがる。猫のように忍び寄り、左の拳をぼくの胸へ振りおろした。シャープペンシルが、深ぶかと突き刺さった。痛い。そして、ひどく悲しかった。
ぼくは飛び起きた。《夢》の続きが流れていて、シバケンは椅子のうえ目を丸くした。ぼくは胸を撫でた。傷なんてない。夢だ。でも、ほんとうに刺されたみたいに痛かった。
「どしたの、キタ」
「おまえがシャーペンで刺した」
「え?」
「痛い」
ぼくは目をこすった。夢の悲しさが消えなかった。おまけに、なぜか勃起していた。
あいつはスケッチブックを置いて、近づいた。ぼくの胸をやさしく撫でる。
「おれが刺したの?」
ぼくはうなずいた。
「悲しかったの?」
ぼくはうなずいた。
「それ、正夢にしていい?」
意味がわからなくて、あいつを見つめかえした。シバケンは跪いて、血の色の唇を左右に伸ばす。
「一度だけで、いいからさ」
何か恐い。けれど、抗いがたい光が、煙水晶の目にあった。ぼくは唾を飲みこんだ。
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夕飯はキーマカレーと、冷しゃぶサラダにした。シバケンはカレーの具を危なっかしく切って、サラダを盛りつけて、しゃぶしゃぶの灰汁をすくってくれた。父よりもよっぽど役に立つ。
夕食の席で父はいう。「芝くんのお母さんは何をなさってるのかな」
「いろいろです。弁当屋とか、スナックとか。だから、あんまり家にいなくて」
シバケンは、なぜか父の顔を見なかった。そのせいで父が悪印象をいだいているのが、ぼくはなんとなくわかった。シバケンはいう。
「キタの料理、すんげえうまいです。こんなの毎んち食えるお父さんうらやましいです」
ぼくは苦笑した。「こんなの切って煮て茹でただけだぞ」
「でも、うまい」
シバケンは料理を一〇分でたいらげた。
あいつの連泊に、父はいい顔をしなかった。ぼくは玄関でシバケンを見送った。
夜中、懐中電灯をポケットに、ぼくは傘を差して庭へでた。私道の満開のヤマザクラが闇にほの白い。花の雨だ。懐中電灯はいらなかった。すぐ横の国道十六号線の柑子色の街灯で、物置小屋は薄明るかった。茶箱の隙間、大判のバスマットのうえで、シバケンはケータイをいじってた。ぼくはいう。
「芝が妖怪のように照らされています」
シバケンは顔へ画面を近づけて、わざと白目を剝いた。笑いをこらえるのが大変だった。古ぼけたレースカーテンを、ぼくはしめた。
「灯火管制みたいだな」
「トーカカンセーって?」
「ほら、戦時中、空襲の標的にならないように明かりを隠すんだ。じいちゃんはラバウルで、やっぱり灯火管制してたんだけど、気持ち悪いくらい星が見えたってさ。南十字星を探したけど、どれだかわかんなかったって」
どちらからともなく寄りあって、キスした。吸ったり、舐めたり、絡めたり。合間に、きちんと息継ぎする。そうしながら、おたがいに服を脱いだ。裸に三月の雨の夜は寒かった。ぼくらはひっつきあった。
シバケンは紙袋を探って、ちらりとぼくをうかがった。「手ぇ縛っていい?」
「なんで」
「暴れないように」
「おれが暴れるようなことするの?」
「なるべく痛くしないけど、念のため」
「なんか、こわいんですけど」
後ろ手に手錠を嵌められた。ひやりとしたステンレス。素っ裸で両手を封じられてしまうと、ひどく心もとなかった。シバケンは小瓶の蓋をあけて、とろりとした透明な液体を掌にだした。
「ぬるぬるさせるとイイから」
胸に塗られた。冷たさに肩が跳ねる。シバケンはぼくの両乳首をぬるぬると撫でた。くすぐったい。
「シコるとき乳首いじる?」
「乳首あんまり感じない」
ぼくの股間は重たくなっていた。乳首よりもチンコをさわってほしかったけど、恥ずかしくていえなかった。ぼくの反応の鈍さに、シバケンはあきらめて次の段階へ移った。
ポリプロピレン製のバスマットが、きゅっと鳴った。ぼくは肩幅の膝立ちで、頬と胸を壁に持たせかけた。尻の割れ目に、とろりとした液体が垂らされる。震える。やつの指先がケツの穴の襞をなぞる。シバケンは笑う。
「懐中電灯で見ていい?」
「絶対いやだ」
指先がケツにめりこんだ。奥が攣 れるような感覚、体がこわばる。
「痛い?」
「少し」
「なかまで濡らすね」
また液体を垂らされて、ぬるぬるの指を押しこまれた。痛みは消えたが、異物感がすごい。意識がすべてそこへ行ってしまう。自分でもさわったっことのない箇所。二本指で、入口から奥へとじわじわとこじ拡げる。シバケンはまどろっこしいほど時間をかけた。そこがだんだんと柔らかくなるのがわかった。キンタマの裏側をぐりぐりと押されると、呼吸が跳ねる。
「ふやけちゃった」
あいつは指を見せてきたけど、薄暗くてよくわからなかった。饐 えたようなニオイがして、ぼくは顔を背けた。
ぼくはバスマットに横たわり、あいつがゴムをつける音をぼうっときいた。男がうしろから寄り添った。ぼくの腰をつかんで、先端を宛がって、ぐっと押しひらく。体が裂けると思った。息ができない。ぼくはもがいたけど、それは楔のように容赦なく内臓を抉った。
「……いっ……てえ……」
「ごめんな。でも、なじんでくるから」
あいつはぼくをぎゅっと抱いた。しだいに痛みが薄れて、どうにか息をつけるようになる。不思議だった。体の外にも、中にも、シバケンがいる。こんなに安心したのは、いつ以来だろう。あいつの腕に、ぼくは頬を寄せた。
あいつが慎重に小刻みに動きだす。内側からくすぐられるような微妙な感覚。かすかに身悶えて、ぼくは歯を食いしばる。やつは徐々に徐々にストロークを長くしてゆく。気づかわれているのがわかる。抱きしめられて、あやされている気分になる。やさしく揺らされるたび、押しだされるみたいに女々しい声が飛びだす。抑えられない。とりつくろえない。どうにもならない。ほんの十数センチのことなのに喉の手前まで犯されているみたいだ。無理やり拡げられてこすられている粘膜がひりひりする。けれど、その疼きがしだいに甘ったるさをおびてゆく。背すじがぞわぞわする。これって、もしかしたら、官能なんだろうか。ささやき声。
「どお、キモチい? それともキモチワリい?」
「……わかんね、なんか……ヘ……ン」
「おれはむちゃくちゃキモチい。すっげえギュウッてしまってさ、あったかくてさ、奥がうねってんの。キタのお尻、サイコー」
羞恥心だけで死ねそうな気がした。「……この、ヘンタ……イ」
「変態じゃねえし、ド変態だし」
余裕そうな声に、むかつく。でも、そんなのは感覚の洪水にまぎれて、すぐ消える。ぜんぜんよくない、ってことはない。すごくいい、ってわけでもない。イけそうでイけなくて、もどかしい。あゝ、自分のチンコにさわりたい。やや黒ずんだぼくのそれは半勃ち。先っぽから透明な液が糸をひいてる。だだ漏れだ。これをいじって、もっと手っとり早くイってしまいたい。どうして腕を縛っちゃうんだよ。何十回ってこすられているうちに粘膜の疼きは耐えがたくなってくる。ぼくは泣き声になる。
「……も、やだ、むり、しぬ……それ、ぬいて……」
ちうっと耳に濡れたキス。注がれるハスキーな声。「ごめんね。もうちょい、ガマンして。キタんなかで抜くから」
「……そういうイミじゃな……」
ぼくのチンコを握りしめる硬い掌。手荒い愛撫が始まる。扱きあげられながら激しく突きあげられた。脳が電気分解しそうな感覚のラッシュ。いたい、いい、いや、こわい、しんじゃう、すごい、だめ、あつい、あゝ、もう――高熱に浮かされた人みたいに口から無意味な言葉があふれだす。体と体での会話。ずっと憧れていた。あゝ、そうだ。ぼくは、だれかと、こういうふうに、してみたかったんだ。父の部屋でエロ本を発掘して、隠れてこっそりオナニーを覚えた日から、ずっと、ずっと、ずっと、ずっと、ずっと――
苦痛に、歓喜が勝った。
達した瞬間、子犬の遠吠えのような自分の声をきいた。
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のら犬のまぬけな喘ぎリフレインしてリフレインしてリフレイン
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