29 / 31
二十八哩(思春の森の喜多)
横浜AIDS市民活動センター、と印字された検査室のガラス。ぼくは長椅子に深く座りなおした。隣の芝賢治は言葉少なだった。ここに来るのは二度目だ。検査結果はでているはずなのだけど、少し待ってくれといわれたのだ。ぼくはあいつの左膝を握った。
「きっと、大丈夫だから」
二一六番のかた、と呼ばれた。無料の検査は匿名だった。二十代なかばの女性職員は白衣じゃなくセーターとパンツ姿だ。検査室まで、ぼくはつき添った。シバケンは緊張しすぎて人相が悪くなってた。
「一週間まえ、おこなったのはHIVと梅毒の検査でしたね。結果はどちらも陰性、つまり感染は認められませんでした」
「ほら、大丈夫だったじゃん」
ぼくはシバケンの肩を叩いた。あいつは涙ぐんで、うなずいた。
シバケンは避妊具のレクチャーを受け(釈迦に説法)、アンケート用紙を書かされた。あいつの浮かない顔が、ぼくは気になった。
JR関内 駅周辺は春の夕暮れだった。夕風が肌寒くて、ぼくは身震いした。シバケンは鷹のスカジャンに両手を突っこんで、うつむき加減に歩いた。ぼくが右側/シバケンが左側。
「どうしよう」
「何が」
「キタんことガマンする理由なくなっちゃった」
尾上町 通りの交差点で、ぼくらはまじまじ顔を見あわせた。短いクラクション。
「だから、我慢する必要ないでしょ。なんなら、今からラブホ行く? 小遣いもらったし、あの金歯のカネも残ってるし」
しゃべりながら、ぼくは顔が熱くなった。シバケンは笑って、ぼくとハイタッチした。
伊勢佐木 町 周辺の閑散とした通りを、ぼくらはラブホテルを求めてうろついた。それっぽい看板を見つけた。
「ばあさんが店番してるトコと、無人のトコがあんだよ」
シバケンは訳知り顔でいった。ぼくは小声で返す。
「無人のとこがいい」
「このへん縄張りじゃねえからな。ちょっくら覗いてきてやんよ」
あいつは片手をあげて、気負いなくゴシックアーチのエントランスへ入ってった。
ぼくはどうしていたらいいかわからなくて、ポケットに手を入れた。長い鎖の懐中時計をとりだす。六時をすぎたばかりだった。ぜんまいをきりりと巻きあげる。街明かりに暗く罅 の風防と歯車が光った。
「だめだ、ばあさんいるわ」
シバケンは戻ってきて、不思議そうにぼくの手を覗きこんだ。
「どうした、それ」
「物置からでてきた」
ぼくは噓をついた。矢嶋にもらったといったら、また捨てられるかもしれない。シバケンは笑った。
「いい時計だな」
ぼくらは別のラブホを探して、夕闇の裏通りをぶらぶら歩いた。徐々に闇の青が濃くなって、街の光が鮮やかになっていく。
三度目の正直。三軒目のラブホで、シバケンは手招きした。ぼくは人目がないか確認し、小走りでエントランスへ。
天井のすみに防犯カメラ。ぼくは気になった。
「あれって録画してるかな」
「事件でもなきゃ、いちいち見返さないだろ」
シバケンはなんでもなくいった。三×六マスのパネルは二階を中心に半数ほど点灯していた。どの部屋も休憩五〇〇〇円。狭いエレベーターを降りて四階の部屋につくまで、誰とも会わなかった。ぼくはほっとした。
ベッドとソファーがあるばかりの、普通の部屋だった。ラブホらしいのは鎧窓なことと、壁に精算機と自販機があること。大人のおもちや中身商品五〇種類、四〇〇円。高級スキン二ケ入、三〇〇円。
「ゴムもタダで置いてあるトコもあんだけど、おもしろがって穴あけるやついるから、自販機のが安全なんだよ」
「芝は、慣れてんだな」
「慣れてねえし。四、五回しか来てねえよ」
シバケンは笑った。こいつは今まで何人と寝たんだろう。ぼくはだんだん憂鬱になって、ベッドに座りこんだ。そこはかとなくタバコの匂い。あいつも腰をおろして、ぼくの肩にもたれかかった。ぼくは唾液を飲みこんだ。
「あのさ、おれ、もう童貞じゃないの? それとも、チンコ使ってなかったら童貞なの?」
煙水晶の目がまばたきして、笑った。「おれで筆おろししとく?」
♂
青春の光よ白き手よホテルリバーサイドよわが童貞忌
♂
あいつのシャワーの音をききながら、セミダブルベッドに一人。ぼくは落ちつかなかった。大人のおもちや中身商品五〇種類、四〇〇円。ガチャポンみたいに当たりハズレがあるんだろうか。
ぼくは好奇心に逆らえず、スヌーピーの財布から百円玉を四枚投入し、金属のレバーを下までぐっと押しこんだ。ごとん、と取出口にブツが落ちた。
バスルームのドアから湯気、腰にタオルを巻いたシバケンがでてきた。
「何してんのよ」
とっさにぼくはオモチャを隠した。あいつはぼくをベッドに突き飛ばして、ブツを奪った。ビニール袋のそれを掲げる。
「わー。こんなの使う気なの、キタ?」
中国製みたいなピンクの紐つきローターだった。ぼくは首から耳まで熱くなった。
「どんなか見たかっただけだよ。いいよ、こんなの」
奪いかえして、ぼくは部屋のすみへぶん投げた。バスルームへ行こうとしたけど、シバケンが肩を押してベッドに座らせた。
「浴びなくていいから」
「ふつう、浴びるんじゃないの?」
「キタはいいの。匂いが落ちる」
あいつは首筋をすんすん嗅いだ。半裸の男に抱きつかれて、ぼくはどぎまぎした。
「おれ、クサい?」
「キタの匂い、めっちゃすき」
あいつは息を深く吸って、ゆっくりと吐いた。首筋がそわそわする。あいつはいう。
「脱いで」
ぼくは銭湯で脱ぐようなフラットな心持ちで裸になった。じゃないと緊張しすぎて倒れそうだった。シバケンは腰のタオルに手をかけて、ぼくをうかがった。
「ちょっと恥ずかしい」
「芝でも恥ずかしいんだ?」
「おれをなんだと思ってんの。すきな子にケツ見せんだぞ。おれのケツ、アレだし」
尻の瘢痕 を気にしてるのだと思った。あいつの濡れ髪を撫でて、ぼくはこめかみにキスした。
「平気だよ、おれ」
「マヂゆるゆるだし、キタがっかりするかも」
ぼくの予想と心配の方向性がちがうようだ。ぼくはあいつの手に手を添えた。
「とにかく見せてよ。見たい」
タオルが落ちた。ぼくはあいつをベッドに転がして、肩固めをやさしめに決めた。恥ずかしすぎてまじめに向きあえなかった。二人ひとしきりげらげら笑った。
シバケンはうつぶせになった。きれいな背中と、しなやかな手脚。こいつの尻を見るのは、これで三度目。丸い、かたちのいい尻だ。それだけに、なおのこと瘢痕のバカが痛いたしかった。その尻っぺたを、ぼくはそろそろと撫でた。かすかな凹凸 。
「芝は、体の格好がいいよな」
「おれ、AV男優になろうかと思ったのよ」
「AV?」
「向いてる気がすんだよな。見られんのきらいじゃねえし、持続力あるし。でも、このケツじゃな。プールの着替え、いやだったな。林間学校とかの風呂は、いつもサボってた。女はたいてい同情してくれっけど、気持ち悪いっていう子もいるしさ」
感情は、痛みに近かった。ぼくはその尻っぺたにキスして、べろべろ舐めた。あいつがびくんと跳ねた。
「たんま! それナシっ。ストップ、ストップ」
あいつは喚いて、体を裏返した。反りかえったチンコが濡れそぼってた。庚申薔薇色の亀頭。ぼくはやつの足首を握った。他の体毛は薄いのに、すね毛の生え具合は男前だ。
「筆おろし、させてくれるんでしょ? ちゃんと協力してよ」
シバケンは泣きそうな目でうつむいて、ぼくに尻を向けなおした。
ぼくは自分の指をしゃぶって濡らした。あいつのケツはやわらかくて、指一本ならすんなり入った。なめらかな直腸。おそるおそる動かして、あいつの反応をうかがう。身じろぎ・吐息・喘ぎ声。三日まえの抱かれるセックスとは、また別の興奮。ぼくは夢中で探った。そこが乾いたら、また唾液で濡らした。
二本の指でそこをめちゃくちゃに掻くと、あいつは掠れた声で鳴いた。どんな顔をしているのか見たくて、こっちを向かせた。潤んだ葡萄の目・濡れた唇と前歯・女々しい表情……もっといじめたくなる。
ぼくはやつの膝裏をかかえあげ、その尻を丸だしにした。あいつは両腕で顔を覆った。みなぎってるチンコとキンタマ。その下の穴は臍みたいに小さくて、ほんとうに入るのか不安になった。庚申薔薇色の粘膜。唾液を塗りつけて、ぼくは体重をかけて押しいった。掠れた悲鳴。なめらかで硬い内臓の弾力。ぼくを握りしめるみたいに締まって、低音火傷でも起こしそうに熱い。大きく蠢く粘膜。咥えこんだ部分を凝視した。ぼくのかたちに拡がってる。
あいつは苦しそうだった。そのチンコが萎えかけてる。ぼくは動かずにじっと待った。ぎゅっと抱きしめて、髪を撫でて、頬を寄せる。三日まえにあいつがしてくれたみたいに。
「……いいよ、動いても」
あいつがささやいた。ぼくは激しくしたい衝動を殺して、ゆっくりと小さく動いた。
あいつの様子が変わってきた。いつのまにかチンコがすっかり膨張しきってて、目の玉がゼリーみたいにとろんととろけてる。やばいドラッグでも決めたみたいに。やつは右の親指をしゃぶって、左手で自身のチンコを握りこむ。その先っぽから滲みでる透明な液が腹のうぶ毛に絡んでてらてら光る。
「……いいの?」
「……ん、キモチイくなってきた……キタは?」
「……いい」
あいつは頬笑んだ。キャンディーでも舐めているように幸せそうに。
「……キタ、もっと、おもいっきり、動いていいよ……」
狂おしいほどの感情。ぼくはその体を折りたたんでのしかかった。衝動のままに深く抉って、底の無さにこわくなってひき戻す。腰の骨が分解しそうな快楽。肉と肉がはじきあう間抜けな音。潤った粘膜がぬかるみのように鳴った。ぼくが動くたび、やつは鼻音で鳴く。甘ったれた子犬。血の色の唇を夢中で吸って、舌先で口んなかを犯す。
やつは口を塞がれているのが苦しくなったのか、ぼくの額を押しのけて顔を背けた。軽く咳きこむ。
「……ツバがすごい」
「……ごめん」
「……もっと、やって」
あいつが腰をゆする。ぼくはお望みどおりにしてやった。
「……あゝ、いい。キタのデカチンいい。もっと、もっと!」
廊下にきこえてしまいそうだった。ぼくは唇に人差指を当てて、ゆるゆると尻を突いた。
「……あの、芝、ごめん」
「……うん?」
「……これって中に出せばいいの、外に出したほうがいいの?」
「……空気読んで」
「……ごめん」
「……奥に出して、種つけして」
とろけた目で、あいつが尻を押しつける。血が沸騰しそうだった。ぼくは一番奥まで貫いて、イった。あいつの名前を叫んだ。脈打つような長い射精。あいつがうわごとみたいに何かいった。あそこがひときわ締めつけられたかと思うと、やつのチンコが暴発した。漂う青臭さ。あいつは大きく息をして、両腕と両脚でぼくをかかえこんだ。
二個の心臓が心地よく打っていた。生きてる、と無性に思った。
♂
かじかんだ命がゆるりかえりゆく湯船にあつくたもつ羊水
♂
ラブホの白いバスタブ。湯を溜めながら、ぼくらはほうけていた。緊張と運動で疲れた。ぼくの肩にしがみいて、シバケンがぼやく。
「キタんこと、食っちゃいたい。キタが親指姫なら、いますぐ食っちゃうのに」
「そういうこといわれると、重い」
「うざい? ごめんな」
「……」
「でも、ほんとのことなんだ。おれがほんとのことゆえんのは、キタだけなんだ。おれんこと、すき?」
「……」
「うざくても、こおやってくっついててくれるくらい、すき?」
鬱陶しい。それと同じくらい、可愛い。頭を撫でてやる。ぼくを見あげる、不安げな煙水晶の目。安心させてあげたくて、その丸みのあるかたちのいいおでこに、そっと唇を寄せた。
「言葉が欲しいなら、あげるけどさ。言葉は燃えないゴミだよ。たくさんあっても、しょうがない。言葉よりも、おれのしぐさとか行動を見てよ。そしたら、わかるから」
あいつは恨みがましくぼくをじっと見あげてから、猫みたいに額をごしごしこすりつけてきた。
「なんか、幸せすぎて、こええ」
精算機に夏目漱石を五人いれた。部屋をでるとき、シバケンが何かを押しつけた。
「はい、忘れモン」
ピンクのローターだった。ぼくは押しかえした。
「いらねえよ、こんなもん」
「せっかく買ったんじゃん」
「使いみちねえよ」
「使おうよ」
「やだよ」
やいやい大騒ぎしながら廊下へでて、エレベーターに乗った。箱のなかでもローターの押しつけあいを続けた。
ぼくの予想よりも早くエレベーターのドアがひらいた。まだ途中の階だった。若い大人の男女が乗りこもうとして、ぼくらの存在にぎょっとした。シバケンは凍った。ぼくはローターをジャンパーに押しこんだ。男は薄ら笑いを浮かべた。なに、ホモ? と女の声。シバケンは恥ずかしそうにうつむいた。
ぼくはシバケンの左手を握った。あいつはびくっとしたけど、振り払いはしなかった。ぼくは本気で男女を睨みつけた。それ以上、ぼくらを笑ったらぶちのめしてやる、と思った。殺気が伝わったのか、男女は一階につくまで顔を背けて何もいわなかった。ドアがひらくと、そそくさとおりていく。
「もう、はなして」
ラブホのエントランス前で、シバケンがいった。ぼくの手を、あいつの手がすり抜けた。ぼくは余計なことをしたのかもしれなかった。
街は春の夜だった。西に中途半端な朧月。バス停へ向かって歩いていると、シバケンが体当たりしてきた。なんだよ、とぼくはいった。べつに、とあいつはいった。シバケンはくすぐったそうに笑って、体当たりを繰りかえした。ぼくはよろめいた。
♂
猫舌のざらつきがちな俺のまま掬ってやりたい悲しみがある
♂
モニク・アースのピアノが流れてた。イ長調、四分の四拍子。装飾音と多様なリズム変化。ぼくは弾きこなす自信がなかった。狭いパイプベッド、胸のあたりでシバケンがいう。
「これ、なんて曲?」
「《喜びの島》。ドビュッシーが不倫旅行のときに作曲したんだってさ」
「不倫かよ」
「ドビュッシーってクソ野郎なんだよ。十代から人妻と不倫して、同棲相手が自殺未遂。自分が結婚してからも不倫して、こんどは奥さんが自殺未遂。ただ、次の奥さんとのあいだの一人娘のことはめっちゃ可愛がった。そこが、おれの母親よりはマシ。でも、ドビュッシーが癌で死んだあと、娘のシュシュも病気で死んじゃった。だから、ドビュッシーの子孫はいないんだ」
「ヤリチンのわりに成果がでなかったんだな」
「まあ、そういうこったね」
シバケンはぼくの寝間着のボタンをはずして、べろりと乳首を舐めた。こそばゆい。
「キタの利き乳はどっち」
「利き乳って?」
「感じやすい乳首。だいたい右か左か偏ってんだよ」
「芝は?」
「ナイショ」
あいつは左右の乳首を交互にちゅうちゅう吸った。授乳ってこんな感じか。
ピアノの旋律に、《主よ、人の望みのよろこびよ》が混ざって濁った。父がでたらしく、すぐに内線の呼出音。
『矢嶋くんだぞ』
めんどくせえな、と思った。ぼくはベッドを離れて、子機をとった。
『練習してるか?』
いらついた。こいつはなんの権限があって人の時間の使いかたに口だしするんだろう。ぼくは投げやりに返す。
「弾いてない」
『コージョーシンのないやつはきらいだ』
コージョーシンが向上心だとわかったとき、ぼくはキレた。
「ただヴァイオリン弾いてりゃいいご身分のやつにいわれたかねえよ。おれはやることが山のようにあんだよ。おまえは魚焼きグリルの掃除のしかたなんか知らないだろ」
一拍のまがあった。『そこにシーバいるだろ。代われ』
ぼくはシバケンに子機を渡した。シバケンは耳に当てて、あゞ? と眉間を皺にした。通話はすぐ切れたらしい。
「なんだって?」
「なんか」シバケンは首をひねった。「キターラをシャンハーイするな、って」
「シャンハーイ? 中国の上海のこと?」
「マヂ意味わかんねえし。なんなのあれ」
シバケンは頭を差して、指をくるくると回した。
ぼくは学習机からユニオン英和辞典を拾った。父のおさがりだ。sのページを繰る……shampoo・shamrock・Shanghai、シャンハイ(上海)、中国東部の海港都市。それ以外の説明は何もなかった。
シャンハーイって?
♂
グリーングリーン青空に歌い言霊 の幸い薄き国の父と子
♂
相鉄二俣川 駅南口は相変わらずの田舎くささだった。相鉄バス後部ドアのステップをおりたぼくは、父をふりかえらず駅ビル(グリーングリーン)へと向かった。春休み最後の日、ぼくと父は買物のためにでかけてきたのだ。でも、父といるくらいなら、芝賢治に会いたかった。ぼくはほんとは第二反抗期なのだ。ぼくに並びながら父がいう。
「どんな時計がいい」
「だから、懐中時計あるから、べつに無理して買わなくていいよ。どうせならケータイのほうがいい」
「ゼンマイ式なんて不便だろう。太陽電池のを買ってやる。セイコーがいいか、それともカシオがいいか?」
なんでもいいよ、ってぼくはため息をついた。北口のペデストリアンデッキを通って、長崎屋へ。時計売場は四階。ショーケースを覗きこんだものの、ぼくは気乗りしなかった。じいちゃんのあの時計ほど使いやすいものはないだろうと思った。父だけが積極的に店員としゃべり、次つぎにぼくに勧めてきた。
「これなんかどうだ。太陽電池で、しかも電波式だって」
「電波?」
「電波を受信して、自動的に正確な時刻に合うんだそうだ。これなら一生モノだぞ」
シチズンの、四万円近い時計だった。わが家からすると分不相応な品。でも、ブルーブラックの文字盤がかっこいい。日付の小窓もある。悪くない気がしてきた。店員が試着させてくれた。ベルトが金属なのに軽い。
「アレルギーを起こしにくく、傷にもなりにくいスーパーチタニウムです。今なら七年保証をおつけできます」男性スタッフはにこやかだった。「こちらは日本・中国・アメリカ・ヨーロッパの電波送信所に対応しています。電子時計の精度は十万年に一秒の誤差です」
狂わない、止まらない時計か。ロマンを感じてしまった(営業トークに乗せられたともいえる)。
「おまえが気にいるのが見つかってよかった」
父はいった。駅構内の銀だこの前で、ぼくらはひと舟のたこ焼きをつついた。父が四コ/ぼくが六コ。外はかりかりで、中はとろっとしてる。ガラスの内で職人が鮮やかな手さばきでたこ焼きを転がしていた。鉄板に激しく跳ねる油。手は火傷だらけだろう。
「無理してくれて、ありがとね」
父は春の空のように穏やかに笑った。もう大丈夫、とぼくは思った。もう大丈夫なんだ、と思ってた。
♂
目が覚めた。何も覚えていないが、夢を見ていた気がした。びっしょりと寝汗。目覚まし時計は三時四十三分を差していた。
喉が渇いて、ぼくは一階へおりた。リビングダイニングは静かだった。いつもなら気にしなかっただろう。でも、なぜかぼくは隣の和室を覗いた。父の鼾 がきこえなかったので。
「……父さん?」
ぼくは手探りで布団をさわった。空っぽだった。
電気をつけた。トイレは空だった。まさかと思って風呂場を覗いた。父はいなかった。
父は夜中にコンビニに行ったりしない。無性に嫌な予感がした。ぼくはスニーカーの踵を踏んで、玄関をでた。
「父さん?」
国道十六号線の柑子色 の光。ぼくは庭へ。父はいない。もしかして、と物置小屋を覗いた。いない。心臓が暴れていた。ぼくはハッとした。裏山の林。
「父さーん!」
ぼくは斜面を這い登った。杉の人工林だ。逆剝けの幹と幹のまをすり抜けて、ぼくは見た。柑子色の光のなか、宙に浮く黒い人影。足元に倒れた脚立。
「父さんっ!」
そのあとのことはぐちゃぐちゃだった。とにかく枝切鋏でロープを断った。どさりと父はうつぶせに落ちた。父の喉を空気の通る鼾のような音がして、息はあるんだとわかった。家に戻って、一一九番にかけた。救急車をお願いしますといったけど、オペレーターのいっていることが全然ききとれなかった。なんとか住所だけは告げて、通話状態の子機を手に裏山へとってかえした。
『できたら、まっすぐに寝かせて、まず気道を確保してください』
山の比較的平らなところまで、父をひきずった。父の顔は鬱血で暗かった。小学校の避難訓練で気道確保や人工呼吸を習ったけど、ぼくは河合省磨とふざけててよく見てなかった。ぼくは半べそになった。
「息はしてますが、脈は弱いです。どうしましょう」
『落ちついて。救急車が向かってますからね。毛布か何かで体をあたためてあげてください』
遠くサイレンがきこえはじめた。近所のあらゆる犬が呼応し、遠吠えが夜に響いた。
私道は狭くて救急車が入れない。狭い階段を父は担架で運びあげられた。近所の人が寝間着で様子を見に来てる。父の財布とケータイと保険証とを持って、ぼくは救急車のうしろに乗った。主治医はいますか、と救急救命士にきかれ、草薙為比古先生の名を告げた。救命士は父のケータイで先生にかけた。
脈拍さがってる、エピナフリン、と指示が飛ぶ。救命士がいった。
「大丈夫だからね。きょうは水曜だから、そんなに道は混んでないからね」
草薙先生の指示で、父は横浜市大病院に搬送された。偶然だけど、じいちゃんが死亡宣告された場所だった。嫌でも五年まえの秋雨の夜を思いだした。
医師に事情をきかれた。ぼくはなんべんもなんべんも同じ説明をした。まるで尋問だった。実際、事件性の疑わしいケースもあるだろうからしかたないのだけど、今はほうっておいてほしかった。ぼくの話が変わらないと見ると、医師は看護婦にうなずいた。
父のいる処置室のまえで、ぼくはスリッパの足を眺めた。靴下が左右ちんばだ。黒と紺。もし父が死んだら、ぼくはどうなるんだろう。あの母と暮らすのだろうか。それとも、児童養護施設に入るのだろうか。
父の容体が安定したのは明け方だった。回復室で、ぼくは眠る父に対面した。心電計の規則正しい音。曇った酸素マスクの下の、紫色に腫れあがった顔。学習性無力感、と思った。ぼくの存在は、自殺を思いとどまるなんのよすがにもなりはしないのだ。丸椅子からぼくは静かに腰をあげた。
「あんたさ、もう親でいてくれなくていいよ。そんなに死にたきゃ、死ねよ」
父の財布だけ手に、ぼくは廊下へでた。病院の前でタクシーを拾って、告げた。
「今井町へ」
♂
病室が雪ほど白くないことを夜を見てきた目でたしかめる
♂
明るくなったころ、今井町についた。北浦って表札を掲げたポストを覗くと、請求書とダイレクトメールが詰まってた。それから、クロッカスの絵の封筒が一枚。宛先は、北浦竜也様。差出人は、望月 久美子 。望月は、母の旧姓だった。指が震えた。小学生のころ、母に何度か手紙を書いた。一度だって返事は来なかった。なんだ、今さら。
クロッカスの封筒を、学習机に置いた。父が買ってくれた腕時計の箱。狂わない、止まらない時計。父はこれを自分の形見にする肚 でいたのだ。この時計を見るたび、ぼくがどんな気持ちになるかなんて考えもせずに。最低だ、最低だ、最低だ。
時計と手紙を、机の一番下の抽斗 にほうりこんだ。そこに別の白い封筒の束。矢嶋健がぼくに払った報酬だった。十一月の終りから十二月の終りまで弾いたから、二十枚以上ある。あいつは千円札をいれたはず。二万円ちょいだ。
ぼくはペーパーナイフで白封筒を一枚いちまい開封した。日付順に並べておいたそれは、途中までは夏目漱石だった。ところが、途中から新渡戸稲造になった。さらに途中から福沢諭吉になった。ぼくは啞然とした。千円札が十九枚・五千円札が二枚・万札が四枚、計六万九千円。
演奏で荒稼ぎしたの、忘れたのか。矢嶋のからかうような笑いが浮かんだ。きっと、一銭も使ってないというぼくの言葉がほんとうか、あいつは試したのだ。こんな大金、もらえるだけの演奏を、ぼくはできていたろうか。
ぼくは倒れこんだ。パイプベッドがぶっ壊れそうに軋んだ。疲れていたけど、一睡もできなかった。
ぼくは黒いシステムコンポの電源をいれた。[再生]を押すと、ブレーキ音とサイレン。BLANKEY JET CITY《ロメオの心臓 。シバケンの好きな、去年解散したばかりのバンドの、ラストから二番目のアルバム。ヴォーカルが耳障りでぼくは好きじゃなかったけど、そのときはなんとなくその雑味のある声が落ちついた。シバケンの声にこころなしか似ているからだと気づいた。
目覚まし時計を見ると、朝の七時すぎだった。きょうから新学期だ。清水俊太んちの番号なら暗唱できる。ぼくはコードレスホンを拾って、かけた。高校生のお姉さんがでて、すぐ弟に変わった。
「早くにごめん。芝のケータイ教えてもらえない?」
『オクレサクハナハサクラ』
「え?」
『09039……だよ。そうやって教えてくれたよ』
ぼくは清水に礼をいって、シバケンに電話した。
「おれ、北浦。すぐうちに来て」
あいつは眠そうな声。『今?』
「今。すぐに来て」声が震えて、ぼくは目をこすった。「お願い」
『すぐ行く』
やさしく通話が切れた。ぼくは子機を握ったまま、ベッドでほうけた。唸るギターリフ。机のうえの六万九千円。
♂
電話から一時間以内にインターフォンが鳴った。玄関ドアからシバケンが顔をだすと同時に、ぼくはしがみついた。あいつの腰で鳴る手錠。酒のニオイ。
「飲んだの?」
「ヨイチとな。大丈夫?」
「芝はさ、父さんに黒い煙、見えてた?」
シバケンの大きな目が、潤んだ。「うん、見えてた」
「なんでいってくれなかった」
「うつ病だから、しょうがないのかと思ってた。お父さんに、なんかあったの」
「裏山で首吊った」
「それで、お父さんは?」
「死んだ」
ぼくのなかでは、死んだも同然だ。あんなクソオヤジ。凍りついたシバケンの肩に、ぼくは額をつけた。
「……なんでいってくんなかったんだよ、なんで」
スカジャンのレーヨンサテンの肩に、涙が滑った。ごめん、ごめんな、とシバケンはいった。こいつのせいじゃない。わかっていた。ぼくが鈍感だっただけだ。父が弱かっただけだ。けれど。
「……どっか遠くへ行っちゃいたい」
「つれてってやろうか」
煙水晶の目の、強い、恐い、澄みきった光。いつか同じ光を、校舎の屋上で見た。
「つれてってやるよ。うんと遠くへ」
♂
準備するから待って、とシバケンはでかけてった。BLANKEY JET CITYをききながら、ぼくはまどろんだ。BJCのはずなのに、なぜかシューベルト《魔王》にきこえた。変だな。きっと、うんと疲れてるからだ。
まいふぁーた、まいふぁーた、へーれすと、どぅー、にひと……ぼくの意識はそこで途切れた。
♂
螺旋なす林檎の赤を断ち切りて 親指に父など思わない
ともだちにシェアしよう!