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二十九哩(朱に交われば)

 庚申薔薇色の夜更け。      ♂ 父さんの正気の沙汰もカネ次第ロングウォレットのくたびれた革      ♂  父の財布には夏目漱石四人ばかり。それをぼくはスヌーピーの財布に移した。矢嶋健からの報酬と合わせれば、七万三〇〇〇円。財布のファスナーをしめるのに苦労した。  グレゴリーのデイパックに、三日ぶんの着替えと、MD数枚とウォークマンを詰めた。音楽がないのは耐えられない。あとは何がいるだろう。  そうだ。ぼくは思いだして、ベッドのヘッドボードから懐中時計を拾った。ジーンズのポケットにいれて、鎖の留具(フック)をベルト通しにひっかけた。インターフォンが鳴った。  芝賢治は額にびっしょり汗をかいて、左頬が腫れていた。ぼくはびっくりした。 「ど、どうしたの」 「兄貴たちがキタをよこせって。逃げよう」 「え?」 「鍵かけて、すぐ出発」  ぼくはデイパックを持ってきた。シバケンは顔をしかめた。 「そんなデカいの持ってくの?」 「着替えとか」 「置いてけ。あっちで買えばいい」  シバケンは鷹のスカジャンを脱いだ。下にもう一枚スカジャン、般若の刺繍の緑のそれは目黒(めぐろ)が着ていたものだ。シバケンはそれを裏返し、ぼくに羽織らせた。リバーシブルの裏側は黒の無地だった。シバケンもスカジャンを裏返して着た。そちらは濃紺の無地だった。ぼくは財布とMD数枚とウォークマンだけポケットに詰めた。  最寄りの美立橋(みたてばし)バス停に、ちょうど横浜駅西口行きの相鉄バスが来た。横浜行きは一時間に一本しかない。ラッキーだ。ぼくは千円札で二人ぶん払った。あと七万二五八〇円。昼すぎのバスは空いていた。二人掛シートに一緒に座る。ぼくは詳しい事情をききたかったけど、シバケンは張りつめた横顔で窓を睨んでた。声をかけづらい。ぼくは左耳にイヤホンを嵌めた。ラフマニノフ《音の絵》、イ短調アレグロ。低音の半音階上行、同音連打を含む跳躍進行。いにしえの残酷童話のムード。  国道一号線、保土ヶ谷町のあたりで、エグゾーストノイズがきこえた。シバケンがぼくの頭を押した。 「かがんで」  シバケンも腰を曲げて、窓の外から見られないようにした。エグゾーストはつかのまバスに並走して、抜き去っていった。  横浜駅西口の一つ前、鶴屋町三丁目でぼくらはおりた。シバケンはいう。 「待ちぶせされてるかもしれねえから」  シバケンは油断なくあたりを睨みつけた。ぼくはイヤホンをはずした。音楽鑑賞してる場合じゃなさそうだ。  平日昼の街の混雑をすり抜けて、横浜CIAL(シァル)前のタクシー乗り場をめざした。シバケンは数十メートルてまえで足を止めた。ぼくは目で尋ねた。あいつは顎をしゃくる。交番脇で目つきの悪い若い男が仁王立ちで先頭のタクシーを見張ってた。客ではなさそうだ。背広の中年男が乗りこんで、タクシーが出発すると、また次の先頭を見張る。シバケンは舌打ちする。 「だめだ。やっぱ先回りされた」 「電車で」 「改札にもいるべよ。こっからじゃ無理だ」  シバケンはぼくの手をひいた。あとは街でタクシーを拾うしか手がなさそうだ。  嫌な感じを覚えて、ぼくはふりかえった。人ごみのなか、不良っぽいだぶだぶの服の男が、ぼくらを尾けているように思えた。ねえ、とぼくはいった。シバケンも気づいた。顔色を変える。 「ルイだ」  モアーズ前の北二番口から、ぼくらはダイヤモンド地下街へと潜った。二番街を抜けて、北モールを北西へ。だぶだぶの服の男は三人に増えていた。ルイがケータイをかけてる。シバケンがぼくの手をつかんで駆けだした。 「ぅおらぁ、賢治、ふざけてんじゃねえぞ!」  ガラの悪い声と、三人の足音が追ってきた。ぼくとシバケンは三番街を疾走した。右の足を蹴りだし、左の足を蹴りだす。右の足を蹴りだし、左の足を蹴りだす。通行人が通路脇へ飛びのく。広い中央モールを右折したとき、ぼくはハッとしてシバケンをひき戻した。 「こっち」  あいつをひっぱってドトールコーヒーの辻を西へ。ガラス張りのスイングドアを押す。天井の大きな通気口から春の光。Yokohama Bay Sheraton & Towersって金文字。ぼくは二重の自動ドアへ飛びこんで、シバケンを壁に押しつけた。自動ドアがとじる。騒々しい足音と声は、ガラスの外を通りすぎてった。株価の電光掲示と大きな手相図を眺めて、シバケンは途惑った表情。その左耳にピアスの石の七色の光。 「……ここ、どこ?」      ♂  顔が映りそうな大理石の床、同じく大理石の直径一メートルの柱、グランドピアノのある中二階と、三階まで吹抜けの天井を覆うシャンデリア。横浜ベイシェラトンホテルのロビーは、やっぱり別世界のようだった。 「北浦さま。ようこそ、ベイシェラトンへ」  縁なし眼鏡、コンシェルジュの関根常さんだった。シバケンはぼくと関根さんを見くらべて目を丸くしていた。 「大丈夫ですか」  シバケンはきょとんとした。関根さんはみずからの左頬にふれる。 「お怪我をなさってるようですが。氷をご用意しましょうか」 「いえ、たいしたことないですから」  シバケンはそっけなくいった。ふれてほしくない雰囲気を察して、関根さんはそれ以上いわなかった。ぼくはいう。 「ここに喫茶店ありますよね。何階ですか」 「二階にラウンジと、三階にカフェがございます。ラウンジのほうが窓が大きくて開放的ですよ」 「ありがとう。行ってみます」  階段をあがった。二階の一四〇席のラウンジは、コンシェルジュのいうとおり大きな窓の広びろした空間だった。きらびやかなシャンデリアの下、打合わせ中の会社員と、おしゃべりに興じるマダム。一五〇〇円もするコーヒー(おかわり自由)をすすり、ぼくは首をひねった。矢嶋んちで飲んだやつのほうがおいしかった。シバケンは不安げにガラスごしの地上を見おろした。通行人は誰も頭上の窓には目もくれない。 「さすがにこんなところまで探さないよ。たぶん、そういう発想がない」 「そうかもな。おれもここがホテルだって知らなかったし」シバケンはようやくコーヒーに手を伸ばした。すすって顔をしかめて、砂糖を三ついれた。「キタはここ来たことあんだ」 「一度だけな」 「メリケンと?」 「うん、そうだけど」 「ホテルで何やったの」  シバケンの顔が不機嫌になってた。変な勘繰りをしているんじゃないかと思った。 「真珠ひろっただけだよ」 「真珠?」  ぼくは宝石店での真珠拾いと、ヘレンさんに贈られた白孔雀の帯留めの話をした。シバケンは感心顔。 「カネ持ちの考えることって、よくわかんねえな」 「そうだな」 「なあ。もしあいつらにここがバレたら、どうする」 「ホテリアーは客の安全を優先してくれる。ここにいるかぎりは心配ないよ」 「ここでずっとカンヅメ?」 「ほとぼりが冷めたころ移動しよう。今晩はここに泊まろう。いくらか持ってきたから」  でも、ぼくはカネがたりなくなるんじゃないかと不安だった。あと七万五八〇円。 「おれも持ってきたから、いいんだけどさ」  シバケンはトレーナーを捲って、チャコールグレーの腹巻きからセカンドバッグをとりだした。みっしりと詰まったお札。ぎょっとした。 「何それ」 「上納金だよ、ジョーノーキン」  シバケンは唇をゆがめた。ぼくは言葉を失った。こいつは手をだしてはいけないカネに手をだしてしまったようだった。      ♂ 少年の未必の故意よ恋人のピアスの穴から何かでている      ♂  大理石のロビー、中二階の階段脇のロングデスクで関根さんが受話器を置いた。シバケンは内緒話のように手を添えてささやく。 「お兄さん、なんでもしてくれるんだって?」 「ええ、お客さまのご要望には全力でお応えします。もちろん、法の許す手段においてですが」  関根さんは冗談めかしていった。シバケンはにやりとして、左耳をさわった。ピアスの石が光る。 「おれ、ピアスあけたいんだ。安全ピンは持ってんだけどさ、耳を冷やすのに氷と酒って手に入る?」  関根さんは驚いたふう。「ピアスをおあけになるのでしたら、ピアッサーを使用するとより簡単で安全ですが、いかがいたしましょう」 「ピアッサー?」 「ピアスの仕込んである装置で、そのピアス自体のニードルで穴をあけますので、初日からおしゃれを楽しめます。バネの力で一瞬であくと、ご自分の力で握りこむがございます。お体に穴をあけるのに抵抗がある場合は瞬間ピアッサーが良いかと存じますが、誤作動してあける位置がずれるリスクがございます。セーフティピアッサーは、誤作動の心配はありませんが、あけるのをためらうと貫通しないリスクがございます」 「あけるのはべつに平気だから、セーフティのほうがいいかも。それって高いですか」 「一つ千円ほどです」 「じゃあ、それを二つ。あと氷と酒と……」 「氷はご用意いたします。しかし、お酒は……」  関根さんは首を振った。シバケンは整った眉尻をさげた。 「だめ?」 「当ホテルは未成年のお客さまにお酒をご提供するわけにはまいりません。エタノールでしたらご用意できますが」 「んー、まあ、そうですよね。じゃあ、チョコにブランデー入ってるやつ、わかります?」  関根さんは心得た顔をした。「ブランデーボンボンですね。食べすぎはお勧めできませんが、ご用意します。お客さまのお名前をお伺いしてもよろしいでしょうか」 「芝安吾(あんご)です。芝浦の芝に、坂口安吾の安吾」 「芝さま」  一番格下のシティヴューのツインルームでも二万円近かった。一〇階の東側、眼下に駅前のバスロータリー。車はトミカで、街路樹はパセリだ。ぼくはブラインドをおろした。 「安吾って?」 「兄貴の名前。オフクロが入院中、《桜の森の満開の下》読んでたんだって。ちなみに、おれんときは《春と修羅》ね」  シバケンは壁側のベッドに腰かけて、落ちつかない様子で部屋を見わたした。大きな鏡と書き物机・円卓と椅子・大型テレビとビデオデッキ・間接照明と電話機。ぼくはベッドに飛び乗って、あいつの肩にもたれかかった。 「おれ、家出したかったんだ。五歳のころから、ずっと。夢、叶っちゃった。ありがと」  あいつが肩を抱いてきたかと思うと、ベッドにひき倒された。ぼくの顔の両側に手をついて、あいつは思いつめたような目をした。 「キタんこと、おれのモンにしていい? キタんこと、壊しちゃってもいい?」  人は自分以外の誰かのものにはなれない。そう思ったけど、煙水晶の目の光に惹きこまれて、ぼくはうなずいた。あいつはぼくの頬をなぞって、唇をそっと唇に乗せた。ぼくらは緩慢に舌と舌を絡めた。あいつの特殊なかたちの左耳、その耳たぶでピアスの石が細やかに七色に光る。キスの合間に、やつの耳をつまんだ。 「きれいだね」 「ダイヤだよ。オフクロが片方なくしたからって、くれたんだ」 「本物? 大きいね」 「〇.三三カラットっていってた。中途半端な大きさだから、少し安いんだって。それでも片方七万もするらしいけど。欲しい?」  ぼくはかぶりを振った。あいつは笑った。 「キタもピアスあける?」  ノックの音。シバケンはベッドをおりた。ぼくは布団をかぶって寝たふりをした。関根さんの声、ワゴンを押してくる気配。こっそり薄目をあけると、関根さんが菓子箱と救急箱とアイスペールを円卓に置くところだった。 「なにから何まで、ありがとうございます。で、おカンジョーは……」 「チャックアウトの際で結構ございます」  シバケンはがさごそと箱をひらいて、十個入りの酒瓶のかたちのお菓子をひとつ関根さんに渡した。 「これ、チップです」  関根さんは大きく笑った。「ありがとうございます」 「そうだ。お兄さん、英語も得意?」 「学生時代、夏休みは毎年ロンドンにホームステイしました」 「シャンハーイってどういう意味? あいつをシャンハーイするな、っていったら」 「Don't shanghai himだとしたら、彼を脅すな、彼を(そそのか)すな、あるいは彼を(かどわか)すな、でしょうか。十八世紀ごろ、上海行きの船の水夫を犯罪的手段で集めたことから生まれた動詞で、人を脅したり騙したりして物事を強要するというようなニュアンスで使います」 「マグロ漁船に乗せるぞ、みたいな?」  関根さんは頬笑んだ。「そうです、そんなイメージです」 「なるほど。すっきりしました。それと、もう一コだけ頼みがあるんですけど……」  ドアがしまってから、ぼくはベッドを抜けでた。 「あいつ、なんでおれがキタをカドワカすってわかったんだろうな」シバケンは氷をトングでつまんで、氷嚢(ひょうのう)に詰めた。それで右耳を冷やす。「あけるの手伝って」  ぼくは首を振った。「おれ、人の体に穴なんかあけられない」 「あけるのは、おれがやるよ。位置の調節だけしてよ」  ぼくはシバケンに向きあって、左耳と右耳をよく見くらべた。左と同じくらいの位置に油性ボールペンで(てん)をつけた。あいつは氷嚢を当てる。ぼくはセーフティピアッサーをひとつ開封し、説明書を読んだ。使。 「カチッと嵌るまで強く握るんだって」 「カチッとね」  ぼくは消毒液を染ませたコットンでやつの右耳をふいた。右耳を白いピアッサーにいれ、ピアスのニードルを(てん)(あて)がった。 「位置はOKだよ」  あいつはぼくの手をつかんで、そのまま躊躇なく握りこんだ。ぼくの手に伝わる、肉の(えぐ)れる感触。バネの小さな音がして、プラスチック片が円卓に落ちた。ぼくはどきどきして手を離した。 「いきなりやんないでよ。こわいじゃん」 「キタにあけてもらった」  シバケンはにかっと八重歯を見せた。右のピアスは銀色の玉だった。 「痛い?」 「冷やしたから全然。じーんとするだけ。キタもあける?」  痛くないのなら、あけてもいいかと思った。  シバケンはぼくの右耳をよく冷やして、コットンでふいて、ピアッサーを宛がった。煙水晶の目は空恐ろしいほど澄みきって、ぼくを小さく映した。その光に、ぼくは魅入られた。やつの左手にふれた。目の光がいっそう強くなった瞬間、その左腕に力が込もった。バネとプラスチックの大きな音と同時に、耳たぶをきつく摘ままれるような感覚。ピアスがキャッチにかちっと嵌ったのがわかった。冷えた耳がじーんと痺れた。シバケンは満足げに鼻の下をこすった。 「なんかさ、キタの処女、もっかいもらったみたいな感じ」 「バカ」      ♂ 南天の実の明るさで血液が玉になるから愛なんだろう      ♂  おたがいに右耳を気にしながら、ぼくらはいちゃいちゃとすごした。追手のシバゴたちのことや、病院にいる父のことが頭を掠めたけど、努めて頭のなかから追いやった。 「虫刺され、いっぱいつけていい?」  シバケンはいった。最初にしたとき、キスの鬱血をぼくが虫刺されと勘ちがいしたのを、こいつはいまだにからかうのだ。 「まだいうの、それ?」 「おれ、悪い虫だもん。キタの利き乳は……」 「どっちでもいいよ」 「知りたいだろ」  シバケンはぼくの乳首を左右交互に吸っては嚙んだ。痛痒いだけで、ちっともいいとは思えなかった。  あいつの腹が力強い音で鳴った。シバケンは苦笑いした。 「腹へんねえ?」  減った。考えたら、さっきコーヒーを飲んだきりで、ゆうべから何も食べていない。 「どっかの階にレストランがあると思うよ。関根さんにきいてみようか」  服を着るとき、ピアスの右耳にひっかかってじゃっかん痛かった。  午後のロビーはいっそうのにぎわいだった。ぼくらがコンシェルジュデスクに近づくと、いやに見覚えのある威喝い背中。ワインレッドのテーラードジャケットに、共色(ともいろ)のパンツ。たずさえた緋色のヴァイオリンケース。ぼくはたじろいで足を止めた。シバケンは飄々と寄っていく。 「メリケンじゃん」  矢嶋はふりむいて、めんくらった表情になった。それから背後のぼくを見つけて、シバケンがここにいる経緯は把握できたようだった。シバケンはいう。 「おまえもお泊りかよ?」  矢嶋はぼくらを睨んで、関根さんに何事か耳打ちした。あいつはさっと身をひるがえし、エレベーターホールへと去っていく。 「てめえ、なんか悪口いったべ」 「よせよ、こんなとこで」  追おうとするシバケンの肩を、ぼくは押さえる。周囲の客が驚いたふうに見やった。警備員が身構えている。ぼくはシバケンのことを初めて恥ずかしいと思ってしまった。ぼくは関根さんに頭をさげた。 「すみません、騒がせて。レストランがいくつかあるようなんですけど、どこがおすすめですか」 「二十八階のベイ・ヴューですね。みなとみらいの眺望が素晴らしいですよ。十九時なら予約をとれます」 「では、お願いします」  ぼくは深く考えずに頼んだ。懐中時計は六時半を示していた。シバケンはぼやく。 「あと三十分も待つの。死にそう」      ♂  夜七時まえに、ぼくらは二十八階へあがった。T字の通路、右が鉄板焼で、左がフレンチBAY VIEWだ。ぼくらは左へ。  畳サイズの窓からベイブリッジとランドマークタワー、きらびやかなビル群の窓。夜景を損なわないためか、ほの暗い間接照明。ステージに褐色のグランドピアノ/スタンドマイク。席の少ない店だった。スーツの男性/パーティードレスの女性。普段着のぼくとシバケンは明らかに浮いていた。シバケンがひそひそという。 「なんか、ここチョー高そうじゃねえ。まちがってない?」 「でも、関根さんがここって。二十八階のベイ・ヴューだよな?」  ぼくらは入口に戻って小さな看板をたしかめた。まちがいなかった。シバケンはおよび腰。 「ここ、やめにしない?」 「予約してあるんだよ。お店に迷惑になっちゃう。とりあえず入ろうよ」  ぼくらは二十八階から飛び降りる気分で入店した。すましたギャルソンにぼくはいう。 「……し、七時に予約の北浦です」 「お伺いしております。どうぞ」  案内されたテーブルには、矢嶋がいた。ジャケットの下はマリーゴールド色のニット。ぼくは悟った。ぼくらをここへ招くように関根さんに矢嶋が依頼したのだ。じゃなきゃ、こんな高級な店を中学生ごときに勧めるもんか。シバケンは喧嘩するような目をした。 「何、おまえがおごってくれんの」 「キターラには奢る。おまえには奢る理由がない」 「そうかよ。べつにいいけどな」  シバケンはラウンジチェアについた。売られた喧嘩を買ったのだ。ぼくもシバケン側に座った。矢嶋のかたわらにでっかいチーズがあって、ヒーターがそれをとろかしていた。とろけたチーズが受け皿に落ちる。それをフォークとナイフですくって、矢嶋はハッシュドポテトに乗せた。小さく切って口に運ぶ。慣れたもんだった。矢嶋はいったん口をぬぐって、手をあげてギャルソンを呼びつけた。 「二人に前菜を」  ギャルソンは心得た顔でサラダをふたつ運んできた。コースを食わせる気らしい。  ステージで女性シンガーが挨拶し、歌いだす。男性ピアニストが静かに奏でた。ゆったりしたジャズ。でも、ぼくの気分はリラックスからは程遠かった。もうひとつ前菜・スープ・魚介のメインディッシュ・口直しのシャーベット・肉のメインディッシュ……いったい、いくらになるのか見当もつかない。本格フレンチはおいしいんだろうけど、味がぜんぜんわからなかった。きっと、シバケンもそうだ。ギッチョのあいつはフォークとナイフの扱いに苦戦した。無作法にぎこぎこ音を立ててしまう。そのたび矢嶋は薄く笑った。 「ここはおまえみたいなやつの来るとこじゃないよ」 「おれみたいなヤツって、どういうヤツだよ。いってみろよ」  シバケンは唸るように低い声をだした。矢嶋は三白眼を細くする。 「キターラを誑惑(シャンハーイ)するなっていったよな。マケイヌはおとなしく家に帰れよ」 「おれはおれの意思で芝といるんだよ。おまえが口だすことじゃない」 「おまえは思いこんでるだけだ。きっと後悔する」  ぼくは睨んだ。矢嶋は睨みかえした。マイクごしの女声が響く。 『〽Good afternoon my dear Alice(ご機嫌ようアリスちゃん)   Please(どうか) don't think I have malice(悪意にとらないで);   But your world of pretend(でも貴方のごっこの世界は)   Will most certainly end(必ず終るのよ).   This is advice(これはアドヴァイスよ),   Please(どうか) don't think I have malice(悪意にとらないで);   My new world is so free(私の新しい世界はとても自由),   It is you can not feel(貴方には感じられまい).』  シバケンは根性でデザートまでたいらげた。音を立ててゲップする。自分はこういう出自の者だといわんばかりに。  シバケンは勘定書をそっと表返した。五桁の値段。それを矢嶋のでかい手が奪った。銀の歯列矯正器。 「奢らないとはいってない」  ぼくもシバケンも、勘定がいくらになるか気が気じゃなかったというのに、なんて意地が悪いんだろう。シバケンは歯ぎしりした。 「奢られる理由がねえよ」 「カネはとっとけよ、生活のために」  矢嶋は嘲るふうだった。シバケンがキレるまえに、ぼくがキレた。勘定書を矢嶋からひったくった。手をあげて、ギャルソンを呼びつける。矢嶋にむかって顎をしゃくった。 「ぼくらのぶんは、このチーズ星人とは別会計で。すぐにお願いします。いくらですか」  ギャルソンはあわてて計算しなおした。ぼくは席を立って、スヌーピーの財布から新渡戸稲造と福沢諭吉をテーブルに叩きつけた。それは二つ折りの財布のかたちに曲がった。 「お釣りはいらないよ。もともとおまえのカネだ。おれをピアニストにしてくれてありがとうな。でも、もう、おまえのためには弾きたくない」  矢嶋の鋼色(スチールグレー)の三白眼は、失望とも悲しみともつかない色に揺れた。      ♂ 横浜ベイブリッジとわに鳴りかたを忘れ震えている弦楽器      ♂  フルコースは値が張ったわりに(かさ)がたりなかった。ぼくらは関根さんに崎陽軒(きようけん)の弁当を買ってきてもらった。一〇階の部屋で、醤油を垂らしてシウマイを割箸でつつく。庶民の味だ。 「ごめんな。最初からこうしてりゃよかったな」 「いいよ。キタがびしっといってくれたから、すっとした。キタ大すき」  こいつの飾らない態度が、ぼくは好きなのだ。ぼくはシバケンの頭を撫でた。 「べつに人間、知的でスマートなだけが能じゃないよな。いつもそんなふうじゃなきゃいけないなんて、おれは勘弁だよ。疲れちまう」 「おれ、癒し系?」 「うん、めっちゃ癒し系」  ノックの音。ぼくはドアスコープを覗いた。関根さんだった。 「芝さまのご依頼の品をお持ちしました。それと、北浦さま、あなたさま宛ての小包みをお預りしております。お手数ですが、フロントまでお越し願えますか」  ぼく宛ての小包み? 心当たりがない。「誰からですか」 「ヘレンさまです」  ヘレンさんが? なんでぼくがベイシェラトンにいるって知ってるんだ。息子が何かいったのか。それとも、あの人にも予知能力が?  ぼくは左耳にイヤホンを嵌めて、のこのこロビーまで出向いた。ブラームス《クラリネット三重奏曲》、チェロとピアノとクラリネットの憂いをおびたアンサンブル。やられた、と思った。フロント前にマリーゴールド色のニット。 「噓つきは石川五右衛門の始まりだぞ」 「ウソはついてない。ヘレンがおまえにって」  矢嶋は紙袋をよこした。柳色のスエード手袋だった。片方、嵌めてみた。ぴったり。こいつがそのへんで買ってきたんじゃないかって気がした。ほんとうにヘレンさんなら、メッセージカードのひとつも付けてくれそうだ。 「ありがとうございました、ってヘレンさんに伝えて。じゃあ」  ぼくは手袋の手を振った。矢嶋は手をつかんだ。 「戻らないほうがいい」 「なんでよ」 「あいつ、ゲイだぞ」  矢嶋は声をひそめた。ぼくはぽかんとしてから、苦笑した。 「それもフィールドとやらでわかったわけ?」 「あいつの絵、キモチワルイ感じだったから、ピンと来たんだ。悪いことはいわない。今晩はおれの部屋に……」  矢嶋の顔つきが険しくなった。シバケンが歩いてきて、ガンを飛ばす。 「こんなこったろうと思ったよ。帰んぞ、キタ」  ぼくは矢嶋の手を払った。「べつに問題ないよ。おれ、もう童貞じゃないし」  矢嶋の顔が漂白剤を浴びたみたいにさあっと蒼ざめた。呆然自失の三白眼。あゝ、こいつはぜんぜんわかってなかったのだ。もしかしたら全部お見通しなんじゃないかと思っていたのに。ぼくは笑った。憐れんだふうな笑いだったかもしれない。 「じゃあな」  ぼくは手袋を脱ぎつつ背を向けた。シバケンはいつものように腕をぼくの肩へ回した。  ぼくらがエレベーターに乗りこむと、矢嶋が駆けてきた。しめだしてやろうかと思ったが、ぼくは[◀▶]を押した。矢嶋は乗りこんで、黙って下を向いた。ぼくはカードキーをセンサーにかざしてから、[⑩]を押した。  三十秒ほどで一〇階についた。ぼくとシバケンが箱をでると、なぜか矢嶋も一緒におりる。シバケンはけげんな顔。 「おまえの部屋はもっと上だべ?」  矢嶋はうつむいて黙ってた。ぼくらのうしろをとぼとぼついてくる。シバケンはおもしろがった顔つきをした。 「一名様ぁ、ごあんなーい」  シバケンが関根さんに依頼したのは《小さな恋のメロディ》のビデオだった。壁側のベッドに座って、その古い映画を観ながらシバケンとぼくはお菓子を食べた。酒瓶のかたちのブランデーボンボン。円卓の席で矢嶋がじっと見る。鬱陶しい。 「その後、名和さんとは、どうよ」  矢嶋が片思いしてたジュエリーアドバイザーのお姉さんだ。矢嶋は嫌そうな顔。 「タキオ・スミテルくんとつきあってるんですと」  柔和な顔の男性スタッフを思いだした。矢嶋の恋は破れたのだ。ぼくはにやついた。 「そっか、職場恋愛か」  シバケンがかったるそうに身を乗りだし、ブランデーボンボンの箱からひとつ差しだす。 「食うか?」  矢嶋は無言で受けとって、アルミ箔を剝いて齧った。強い酒の味に驚いたのか目を丸くして、けれど残りを口にほうりこんだ。 「おまえってチン毛やワキ毛も赤っぽいわけ?」  シバケンの質問に、矢嶋は困った顔。 「普通だ」 「ほお、フツーね」  Bee Geesの挿入歌と、やわらかい総天然色。ぼくは右耳のピアスをさわる。瘡蓋ができてるみたいだ。いじらないほうがいいんだろうけど、気になった。 「消毒しとく?」  シバケンが消毒用ジェルのチューブをよこした。ぼくは右耳に塗って、ついでにやつの右耳にも塗ってやった。あいつは頬笑んだ。 「この映画、キタとみたかったんだ」  矢嶋はブランデーボンボンがお気に召したのか、もうひとつ剝いて食べた。 「勝手にばくばく食うなよ。カネとんぞ」  シバケンがいうと、矢嶋は黙ってパイソンの長財布から夏目漱石を円卓に置いた。三個目のボンボンを食べる。矢嶋の白い頬が、だんだん薔薇色になる。あいつは四個目のボンボンを食べた。ぼくは心配になってきた。 「それ、酒だからな。ほどほどにしとけよ」  矢嶋は無言でうなずいて、五個目のボンボンを食べた。  主人公とヒロインがトロッコで野原を駆けていって、映画が終わってしまった。いい話だった。ビデオを巻き戻しつつ、シバケンにいう。 「風呂どうする」 「いっしょに入っちゃう?」  シバケンはうれしそうにいった。矢嶋がばっと見やった。シバケンはにやりと笑った。 「うらやましいかよ、ドーテーくん?」 「……キモチワルイ」  矢嶋は口を押えて、洗面所へ駆けこんだ。戻す音。七個あったボンボンは全部アルミ箔だけになってた。 「おまえ、もう帰れよ。メンドくせえな」  シバケンがいった。窓側のベッドに転がった矢嶋の額に、ぼくは水入りの氷嚢を乗せてやった。 「まだ吐きそうか、救急車呼ぶか?」 「……いらねえ」 「あれっぱかしの酒で酔うって、でかいなりして弱えんだな」  シバケンは嘲った。矢嶋は氷嚢で目を隠して、色の薄い唇を結んだ。ぼくはため息。 「おれに先こされたからって、いじけすぎだろ。べつに早きゃいいってもんじゃないんだからさ」  矢嶋が寝返りを打って、氷嚢が枕へ落ちた。でかい手がぽんとぼくの胸に置かれる。 「……こんな真っ平らな胸、さわって何がおもしろいんだ」  反射的に肩が跳ねた。昼間、シバケンがさんざん乳首を吸ったり嚙んだりしたせいだ。矢嶋は怯んだ目で手を離した。シバケンが眉を吊りあげ、矢嶋の手をはたく。 「てめえ、さわんじゃねえよ。おれんだ」  ぼくは制した。「ヴァイオリニストの手ぇ叩くなよ」 「キタも感じてんじゃねえよ」 「びっくりしただけだよ」 「そんなに知りたきゃ、教えてやるよ。そこで見とけ」  シバケンは喚いて、ぼくを突き飛ばした。壁側のベッドへ倒れたぼくに、シバケンが覆いかぶさった。ぼくの右耳が潰れる。ピアスの傷の疼痛。 「痛いって、耳!」  シバケンはぼくの顔を左へ向けて、嚙みあせるようにキスをねっとりとした。ぼくのフリースTシャツを捲りあげて、乳首を抓る。ぼくはもがいたけど、シバケンの手も胸板もびくともしなかった。ジーンズのファスナーをあけられて、トランクスごとずりおろされる。鎖が鳴って、懐中時計がこぼれでた。ぼくは右側を見やった。矢嶋は動けないのか、動く気がないのか、横たわったままぼくをじっと見つめかえした。 「見んな」  潤んだ三白眼は、見つめるのをやめなかった。魅入られたように、おののいたように、まじろぎもしなかった。ぼくはいたたまれなくなって、顔を左へ背けた。  萎えているのに、骨ばった手に無理やり揉みしだかれる。生理的な反応で勃ちあがって、ぬるついて湿った音がする。声をださないので精一杯だった。ぼくはとうとうその手に射精した。  体を裏返される。手の精液をケツの穴に塗りつけられた。矢嶋の目の前でそれはさすがに嫌で、ぼくは拒否の言葉をならべた。でも、シバケンはやめてくれなかった。硬く鋭いものが、そこを深ぶかと貫く。悲鳴をあげた。息ができなかった。  ぼくの体をぎゅっと抱いて、シバケンは低くささやく。 「おれんだ」

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