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三十哩(海を飲みたい)

 ソはソドムのソ。      ♂  瞼をあげると薄闇、薄卵色(うすたまごいろ)の間接照明。自分が誰なのか、ここがどこなのか、思いだすのにしばしかかる。あゝ、そうだ、横浜ベイシェラトンホテルに泊まったんだ。やわらかいベッド・裸の腰に絡んだ男の腕・芝賢治のいかめしい寝顔・鼻を突く精液のニオイ。ぼくはぼんやりと半身を起こして、ケツの痛みに息を飲んだ。ゆうべさんざん注ぎこまれたものが、どろりとあふれてシーツを汚す。  前の日がフラッシュバックする。紫色の父の顔・追ってくる不良たち・セカンドバッグの札束・ダイヤモンドピアスの光・有能なホテルコンシェルジュ・みなとみらいの夜景・でっかいチーズ・スエード手袋・押さえつけてきた手・痛みと熱・怯えた鋼色(スチールグレー)の三白眼――  右のベッド、マリーゴールド色のニットの矢嶋健も死んだように眠っていた。ワインレッドのストレートパンツが朝勃ちでめっちゃ盛りあがってた。ぼくは顔をしかめ、目を背けた。生理的なもんだとわかってても、なんか嫌。  シバケンが身じろぎして、目をこすった。眠たげに頬笑んで、ぼくに手を伸ばす。ぼくは真顔で払いのけた。あんなレイプみたいな抱きかたをしておいて、平然としてることが信じられなかった。シバケンは涙目。ぼくは無言で立ちあがって、バスルームへ向かった。  バスルームの鏡、ぼくの胸はキスの鬱血でいっぱいだった。ぼくは何も考えないようにして、指でケツの穴から精液を掻きだした。  髪をふきつつトランクス一丁で戻ると、シバケンは矢嶋の脇に(たたず)んでいた。ぼくをふりかえって、困ったような顔で指差す。 「ねえ、なんでハゲなの。剃毛プレイ?」  矢嶋のパンツがずりおろされてて、長いチンコが丸だし。皮は剝けてる。でも、陰毛がまったくなかった。つるんつるん。ぼくも困った顔になったと思う。 「まだ生えてない、とか」 「まさか。おれ、小四で生えたぞ」 「おれは小五だった。もしかして脱毛症かな」 「チンポだけ? そりゃねえよ」  悩んでも(らち)が明かない。ぼくは矢嶋にブランケットをかけて、きのうの服を着た。べつに矢嶋の股間なんてどうだっていい。シバケンはにやにやと油性マジックを手にし、矢嶋に陰毛を描きたした。       ♂  宿泊代金およびコンシェルジュ利用料はシバケンが支払った。三万円超。ぼくは忘れず、フロント係にいいそえる。 「別の部屋の友人が遊びに来て、ぼくらの部屋で寝ちゃったんです。まだ眠ってるので、しばらく起こさないであげてもらえますか」 「何号室の、なんというお客さまでしょうか」 「何号室かはわかんないけど、矢嶋ケンです」 「矢嶋さま。承知しました」  これで矢嶋はみっともない股間を見られずにすむはずだ。シバケンはいう。 「キタってやさしいのな」 「少なくとも、おまえよりゃな」 「だから、ごめん。もうしないって」  シバケンは肩に腕を回してくる。ぼくは不機嫌な顔を崩さなかった。  春の払暁の空のインディゴブルー。横浜駅前は、もうちらほらと人出があった。ぼくらは警戒しながら、四車線の道路を渡った。  中央改札口に追手の見張りらしき姿はなかった。シバケンはほっと息をつく。 「さすがに始発から張ってねえな」 「どこ行く気」 「横須賀って何線」 「横須賀は横須賀線じゃん」  料金表を兼ねた路線図を、ぼくは見あげる。そっか、とシバケン。こいつは賢いようで、おマヌケだ。ぼくらはそれぞれ切符を買った。あと五万五〇二〇円。 「〽ドは童貞のド、レはレイプのレ……って来たら、ミは何」  吊革に体重をかけて、シバケンがいった。ぼくは左イヤホンで、アナトール・ウゴルスキの弾く《さすらい人幻想曲》を流した(フランツ・シューベルトはピアノがへたくそなくせに難曲をつくるのだ)。朝一の電車は空いてるけど満席だ。ちょっと恥ずかしかった。 「ミ、ミ、ミ……ミルク?」 「ミルクはべつにエロくないだろ」 「えっと……じゃあ、未亡人」 「うーん、いまいち」 「じゃあ、ミミズ千匹」 「ミミズ千匹って何」 「その、女のあそこの感触が……」 「あゝ、なんとなくわかった。〽ミミズ千匹のミ……語呂がわりいな」 「あっ、あれがある。三擦り半!」 「三こすり半って?」 「ようするに、早漏」 「キタって、なにげにスケベな」シバケンはにやりとした。「〽ドは童貞のド、レはレイプのレ、ミは三こすり半のミ、ファはファックのファ」 「ソは?」 「〽ソは粗チンのソ」  ぼくらはまったくどうでもいい会話ばかりした。じゃないと、現実の重さにぺしゃんこになってしまいそうだったから。      ♂ ドーナツは童貞レモンはドレミドミぼくは下品な替え歌がすき      ♂ 「横須賀駅ちっちゃ!」  シバケンは叫んだ。横須賀駅はプラットフォームが二面だけで、階段がなかった。自動改札を抜け、ぼくらは玩具めいた駅舎をでた。潮の香り。穏やかな入江が間近だ。あのヘリポートのある施設は米軍基地だろうか。それとも自衛隊基地? ぼくはつぶやく。 「横須賀って意外と田舎だな」 「いや、都会のトコもあるはずなんだよ。テレビで見たもん」シバケンはいった。「カレー食おうぜ、カレー。金曜に自衛隊が食うやつ」  そういえば金曜日か、と思った。清水俊太や菊池雪央は、新しいクラスでどうしているだろう。ぼくは物思いを振り払って、懐中時計のゼンマイをきりりと巻いた。まだ朝だ。  タクシー運転手に繁華街の場所を尋ねた。その運ちゃんはタバコを踏みにじった。 「観光するなら、京急の横須賀中央駅からがいいんだけどね。みんな知らないでこっち来ちゃうんだ。乗ってくかい」 「いくらで行けますか」 「千円にはならないね」  ぼくらは後部座席に乗りこんだ。かすかなタバコ臭。横須賀中央駅東口まで一〇分もかからなかった。一〇〇〇円オーヴァー。ぼったくりだ。シバケンと千円札をだしあって、お釣りを半分コした。あと五万四八七〇円。  こっちの駅前はまあ都会だった。看板と中低層ビル群。ぼくらは商店通りをうろついた。 「カレーのうまい店、きけばよかった」  シバケンが腹をさすった。ちがいない。 「駅に戻って、観光案内所にきこうか」 「ん、カレーの匂い」  あいつは犬みたいに鼻を鳴らした。たしかにスパイシーな香り。ぼくらは匂いを辿った。  って店からだった。宮沢賢治の童話を思いだし、つかのま不安になったけど、空腹には勝てなかった。ぼくは引戸をあけた。年配ご夫婦の愛想のいい笑顔。  角煮の入った、具だくさんのカレーライスだった。むちゃくちゃコクがある。仕込みに一〇時間かけるんだ、と元シェフの旦那さんはいった。シバケンは五分で平らげ、ソフトクリームを舐めながら奥さんにきいた。 「米軍のグッズって、どこで売ってますか」 「そういうのは、どぶ板通りだよ。兄ちゃんたち、いくつ」  暗に学校へ行かなくていいのかといわれてる気がした。 「こないだ中学でて、卒業旅行に来たんですよ。おれら整備工場に内定もらってて。なっ」  シバケンはもっともらしい噓をついて、ぼくに同意を求めた。カレーを頬ばりつつ、ぼくはうなずいた。ぼくもシバケンも一六〇センチ台なかばだし、声変わりもしている。それほど幼くは見えないはずだ。あと五万三八五〇円。 「卒業旅行か」  店のおもてで、ぼくはつぶやいた。シバケンは頬笑む。 「キタのイイコちゃん卒業旅行だよ。どこ行きたい」 「着替えとカバンが欲しい」 「あんまデカいカバンにすんなよ。いかにも家出少年になるから」  シバケンの携帯電話が三和音で鳴った。Blankey Jet City《ロメオ》。サブウインドウの表示を読んで、あいつは顔をしかめた。 「非通知だ」  メロディは一巡し、まだ続く。七色のイルミネーション。シバケンは舌打ち。 「ぜってえ兄貴だ。くそ、充電ないのに」  二巡目のサビで、着メロは途切れた。  どぶ板通りはアルファベット表記の街角だった。年季の入ったアメカジ系の古着屋、ぼくは白のサーマルカットソーと迷彩のデイパックを買った。試着室で着替えた。いいじゃん、とシバケンはいった。あと四万八〇五〇円。  迷彩を着たバイトの兄ちゃんに、シバケンは認識票(ドッグタグ)を求めた。二枚でワンセット、それぞれ別々の刻印も可能という。 「ねえ、ねえ、キタ、オソロで下げよーよ」  ぼくは無駄遣いしたくなかったけど、シバケンがごねるので折れた。へこみのある第二次世界大戦型を選んだ(このへこみを戦死者の歯に挟むのだ)。基本的な刻印は名字・名前・社会保障番号・血液型・宗教らしい。ぼくはフルネーム・生年月日・血液型・出身地だけ用紙に記入した。US NAVYとペイントされた打刻機で、五分で完成。ボールチェーンで首からさげる。 「芝は何打ったの」  シバケンはひっそりと笑って、タグを握りこんだ。「ナイショ」  あと四万七一五〇円。      ♂  左耳にドビュッシー《海》第一楽章。波の通奏低音、横須賀の海は晴れて穏やかだった。広い海浜公園、ぼくとシバケンは東郷平八郎像にハイキックしたり、アーチ形のモニュメントで懸垂したりした。  シバケンはリヴァーシブルのスカジャンを表返した。鷹の青いスカジャンは、鈍色(にびいろ)の海に映えた。日差しはまるで初夏だ。ぼくは汗ばんだ額をぬぐって、スカジャンを脱いだ。 「暑くないの」 「横須賀っつったらスカジャンじゃん」 「だからって瘦せ我慢しなくても」  ぼくは自分のスカジャンを眺めた。桜と般若の面の刺繍。これは背負いたくないな。 「メグさん、なんで般若なんかにしたんだろ」 「あゝ、なんかね、ドラクエⅢだっていってた。意味わかる?」 「わかんない。うちはゲーム禁止だったから。子供らしいことは軒並みだめって母親にいわれて、大人っぽくできたときだけ褒めてもらえてさ。おれがオモチャで楽しそうにしてるだけで気に食わないらしくて、わざといやなこといってくるんだ」 「いやなこと」 「変な顔の子ね、気持ち悪い子ね、あんたなんか堕胎したらよかった、って。おれ、堕胎の意味もわかんなかったけど、悲しかったよ。だから、おれ、今も自分の顔すきじゃない」  シバケンは眉根を寄せた。奈良興福寺の阿修羅像みたいに。あいつは左手をだしかけて、ひっこめた。手が当たって腰の手錠が鳴った。改めて右手でぼくの頬をなぞった。 「キタのおかあさんはね、ゆがんだ鏡だったんだよ。ゆがんでるのは自分なのに、それをみんなキタのせいにしたんだ。おれの鏡にはキタがきれいに映るよ。だから、大丈夫」  胸の頑固な瘡蓋が、すぺりと剝がれ落ちたように感じた。泣きそうな目を見られたくなくて、ぼくはスカジャンを頭にかぶった。 「でもさ、じいちゃんが、ちゃんと甘やかしてくれたから。もし、じいちゃんがいなかったら、おれ、きっと、もっとひどい人間になってた」  Blankey Jet Cityが三和音で鳴った。サブウィンドウの表示をたしかめ、シバケンは繋いだ。 『よお、ケンジ。やらかしたんだって?』  髙梨与一のどら声が丸ぎこえだった。シバケンは苦笑い。 「ごめんな、兄貴が来たろ」 『大阪のUSJ行くっていってましたー、ってフカシこいといた。安心しろよ』 「じゃ、大阪以外に行くわ。サンキュ。充電ねえから、そんじゃあな」 『おう。おまえ修学旅行までには帰ってこいよな』  シバケンは携帯を仕舞った。短い会話だったけど、深く信頼しあってるのが伝わった。潮風に右耳のピアスの傷がじんとした。 「芝はさ、髙梨と仲いいじゃん」 「まあ、いいけど。何」 「名古屋への家出のときとかさ、けっこう長く一緒にいたろ。その、たとえば着替えのときとか、どうすんの」 「ヤキモチですか」  シバケンはくすぐったそうに笑った。ぼくはうつむいて、コンクリ片で地べたをひっ掻いた。そんなこと気にする自分が嫌だった。みっともない、かっこ悪い。あいつはぼくの髪をくしゃくしゃと撫でた。 「ヨイチはドのんけストレートだからさ、フツーに仲いいダチのノリですごしてたよ。あいつ、ホモきらいだもん。気持ちわりいとか平気でゆうし」シバケンはさみしげに笑った。「おれがほんとのことゆえんのは、キタだけだよ」  この男を抱きしめて、キスしたかった。あたりには親子づれやカップル。あの人たちがおたがいを慈しむ気持ちと、ぼくらの気持ちは何もちがわないはずだった。なのに、どうしてぼくらだけが堂々と抱きあえないんだろう。ぼくは握手するようにシバケンの右手をとった。あいつはやわらかく握りかえした。 「あのさ、今さ」シバケンは口をぼくの耳もとに寄せた。「キタと、めっちゃやりたい」      ♂ リラ冷えの季の曇天と海原は鈍い鏡のように向きあう      ♂  海水を飲んでいるように、渇く。ぼくとシバケンは窓側のシングルベッドで服を脱ぎあった。ビジネスホテルのスタンダードツイン。ぼくらはキスして、おたがいにふれた。やつの腹筋と、勃ちあがった硬いやつ。シバケンは指をぼくのケツの穴に突き立てた。ぼくは顔をゆがめて、身をひいた。 「きょうはいやだ。きのう痛かった」  あいつは残念そうにぼくの尻を撫でたが、顔をあげた。左耳の石の光と、煙水晶の目の光。 「キタ、シックスナインわかる?」  ぼくはうなずいた。やっぱスケベだ、とあいつは笑って、シーツのうえで反転した。おたがいに側位で向きあう。6と9。やつのそっくり返ったチンコがてらてらと濡れてる。庚申薔薇色の亀頭。あいつはぼくの腿をかかえて、かぶりついた。しゃぶられる快感と興奮にまかせて、ぼくも咥えた。歯を立てないよう気をつけながら、先端をきつく吸う。うっすらと塩け。目の前にキンタマと蟻の門渡り。すげえ絵づらだな、と頭のどこか冷静な部分で思った。ぼくは目をとじて、感覚だけに集中した。  こうなってみるまでは、魔法の泉の水のように一度のめば満ち足りるのだと思ってた。でも、性は海水だった。のめば飲むほど渇くのだ。  ぼくが先にイった。あふれでるものに喪失感を覚えた。あいつはいつものように飲みほした。ぼくは丁寧に舌を這わせた。やがて、あいつもイった。苦い。ぼくは咳きこんだ。あいつがティッシュでふいてくれた。  射精しても、やつのチンコは萎まなかった。そこを押さえて、シバケンは苦しげにいう。 「……あのさ、やっぱハメちゃだめ?」  ぼくは迷ったけど、切実な表情に押されて尻を向けた。あいつはピアスの消毒用ジェルをそこに塗りたくって、押しいった。三度目となると、ぼくも受けいれかたがわかってきて、まえよりは痛くなかった。シバケンがささやく。 「おれのチンコ、でかくはないけど、反ってっからバックですると前立腺にモロなんだよ」  ゼンリツセンが何かわかんなかったけど、尻のなかを擦られるとマゾヒスティックで女々しい気分になった。ぐちゃぐちゃと鳴る粘膜、下腹が尻に当たる音。ぼくは小さな声で喘いだ。  果てたあとで、シバケンはどろどろのシーツを剝がして床へ投げた。ぼくは精液まみれで、ぐったりと横たわった。あいつを睨む。 「子犬だと思って拾ったのに、猛獣だったみたいだ」  シバケンは苦笑した。「おまえのチンポ壊れてる、って兄貴たちにいわれた。捨てる?」 「捨てない」 「おれんこと、すき? こんなエロいこと許してくれるくらい、すき?」  返事の代わりに、ぼくは裸の肩にすがった。あいつは壁側の手つかずのベッドを見やる。 「つうかさ、ツインとる意味あんの?」 「ダブルとったら、ホモなのバレるじゃん」 「どっちにしろバレるだろ。この乱れっぷりじゃ。それに二度と来ねえし。こんどはダブルにしねえ?」 「まあ、値段はそんな変わんないけどさ」  いちゃいちゃしてるうちに、シバケンは目をつむって静かになった。  枕のせいか、ぼくは眠れなくて、左耳にイヤホンを嵌めた。ラヴェル《夜のガスパール》より《絞首台》。父は、どうなっただろう。目を覚ましただろうか、それとも……。 「あしたは、もっと遠くへ行こうな」  眠っていると思ってたシバケンがいった。      ♂ 止め処なき喉の渇きよ寄る辺なき君は思春の森の喜多ゆえ      ♂ 「明け方さ、キタ、めっちゃ楽しそうに笑ってたよ。何の夢みてた」  ホテルのラウンジチェアで、シバケンがいった。ぼくは箸と茶碗を手に首をかしげた。 「何もおぼえてない」 「そっか。そんでさ、そんとき思いついたんだけどさ。桜前線、追わねえ?」 「北上するってこと?」 「イーハトーブへ行きてえんだよ」 「岩手?」 「まあ、とりあえずは仙台に行かない? こっからタクシーだと、いくらかかるかな」  見当もつかなかった。「東京駅から新幹線に乗ったほうが安いよ、きっと」  シバケンはお麩の味噌汁をすすった。「そっか、キタはくわしいな」 「ピアノのコンクールで、何度か上京したから」  ぼくは鮭の身をくずしながら、だんだんと憂鬱になった。  横須賀駅から横須賀線に乗った。遠ざかっていく海のきらめき。シバケンが口ずさむ。 「〽ラはラブホのラ」 「シは?」 「〽シは……なんだろな」 「屍姦のシ?」 「歯間?」 「死体を犯すことだよ」 「キタって変なこと知ってんな」シバケンは首をひねった。「でも、シカンって歯の間って気がする。却下」  シの単語が浮かばないまま、東京駅に到着した。新幹線のきっぷうりばへ近づくほど、ぼくの足どりは重くなった。シバケンがふりかえる。 「どうした」 「その、あんまりカネがないんだ」  あと四万三五五〇円しかなかった。仙台までの自由席のチケットは一万円以上するだろう。四万円を割ってしまう。あいつはとりなすようにいう。 「おれがだすよ」 「盗んだカネだろ」  シバケンはすっと真顔になった。「どうせ、あいつらだってカツアゲやアンパンで稼いだんだ。まともなカネじゃない。いいじゃん、ぱーっと使っちまおうぜ」  江戸っ子みたいにぱーっと使いきって、そのあとどうするのだろう。考えたくなかった。  三和音のBlankey Jet City。シバケンはサブウインドウを読んで、そのままポケットに仕舞った。きっと、非通知だ。鳴りつづける着メロ。シバケンは喧嘩するような目をした。 「帰ったらおれは殺されるし、キタは輪姦(まわ)されちゃうよ。行くっきゃねえよ」      ♂  一〇時発の東北新幹線やまびこの自由席、ぼくは窓側の席を譲ってもらった。残像めく春の車窓。シバケンは急に思いついたらしい。 「〽シは潮吹きのシ……なあ、潮吹きってマヂですんのかな?」 「芝が知らないもの、おれにきかれても知らないよ」 「そうだよな。キタはおれしか知んねえもんな。〽ドは童貞のド、レはレイプのレ、ミは三こすり半のミ、ファはファックのファ、ソは粗チンのソ、ラはラブホのラ、シは潮吹きのシ、さあやりましょおー」 「いや、すでにやりまくってんじゃん」  シバケンはにやにやと、ぼくの右耳に口を寄せた。「キタと、やりまくりてえな。キタがケツ振ってよがり狂って、もっとっていうまで」  ぞくぞくした。ぼくは耳を覆って、逃げた。「いわない」 「ぜってえ、いわしてやる」  あと三万二九〇〇円。      ♂ 星空の空隙ばかり見てぼくらイーハトーブへ亡命できず

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