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五十一哩(アロンソ・キハーノの正気)

 椎名林檎《ギブス》を大音量で流しながら、車高短(シャコタン)のトヨタ・アルファードがよぎった。耳が壊れないんだろうか。それとも、もう壊れてるからあの音量じゃないときこえないんだろうか。ぼくは中学時代のスクールゾーンをてくてく歩きながら、気もそぞろだった。黒っぽいカットソーシャツを選んだ。初めは制服を着ようかと思ったが、高校の制服を着られなかった芝賢治に線香をあげにいくのに、それもどうなんだろうと考えた。片イヤホンからR.シュトラウス《ドン・キホーテ》。右の足を繰りだし、左の足を繰りだす。右の足を繰りだし、左の足を繰りだす。  右近中の五百メートル南が、芝賢治の家。ぼくは坂になった跨道橋をくだって、不ぞろいなアパートと戸建の路地を進んだ。空地に面した青いトタンの平屋。その呼鈴を押す。ピイィ~ン・ポオォ~ン。壊れたような甲高い音。      ♂ 濡れそぼつ弥生の花を嚙みながらきみはいつまであなたをおもう      ♂  2DKにはメンソールの煙の残り香がした。芝賢治が最後に吸っていたタバコ。あいつの部屋だった六畳間に、簡素な祭壇。遺影は、十二歳のあいつの笑顔。ぼくは線香を一本ライターで燃やして、扇いで小さな火種にした。細く立ち昇る、ほのかに甘い煙。ぼくは正座のまま体を向きを変えて、一礼した。 「お葬式のときは、たいへん失礼しました。ごめんなさい。もっと早く来なきゃいけなかった」  芝真由美さんは、萎れる寸前の白い花みたいに頬笑んだ。息子と同じ色の澄んだ瞳。いつかの芝賢治のアロハシャツを、ワンピースに直して着ていた。 「いいのよ。来てくれて、ありがとうね」  ぼくは首を振って、トートバッグからCD数枚とジュエリーケースをだした。 「あいつが置いてったものです。お返しします」  真由美さんはジュエリーケースをあけた。〇.三三カラットのダイヤモンドピアス。 「あいつが、事故に遭う直前に、ぼくの耳に勝手につけたんです。あとで気づいて。すごく高価なものだってききました」  真由美さんは蓋をとじて、ぼくの前へ置いた。 「あの子があげたなら、返さなくていいよ。そのCDも、あなたがきいて。あの子の持ちものも、お友達にあげてしまったの」  そういわれてみると、六畳間には物がほとんどなかった。学習机もなくなってる。 「もし気に障ったら、ごめんね。賢治がスケッチブックに、あなたを何十枚も描いてたの見たの。賢治は、あなたがすきだったのね。あの子、小さいころから、かわいい男の子の写真を切り抜いて貼ったりしていたから、驚かなかったけど」  ぼくは目をつむって、両の拳を膝のうえで握った。声が震える。 「愛して、いました。でも……あいつ、ぼくのためにすごく無理して、家出につきあって、帰ってくるときも、徹夜で走って……それで、事故に遭ったんです。ぼくが、殺したみたいなもんなんです。だから、それをもらう資格なんて、ないんです」  うつむくと、あたたかい涙が拳に落ちた。人の動く気配がして、手をとられた。真由美さんは痛いほど手を握りしめた。 「あなたが、どうしても罪の意識にさいなまれてつらいというなら、つぐなってもらう」  真由美さんの目にも、涙が溜まっていた。あいつと同じ、強い目。 「ときどき、思いだしたらでいいの。この家に、お線香をあげにきて」      ♂ あ、空がこぼれている、とおもったらイヌノフグリのけなげさでした      ♂  春の夕焼け。昔、矢嶋健とよく来た小さな公園。左耳で《ドン・キホーテ》の終曲をききながら、ぼくはベンチでジュエリーケースをあけた。ダイヤモンドの細やかな七色の光。それをつまんで、ぼくは右の耳たぶの穴に挿す。留具(キャッチ)をしっかりと嵌めた。 ――大丈夫、そばにいるから。  芝賢治の声が、きこえた気がした。幻聴かもしれなかったけど、なんでもよかった。ぼくは夕空を仰いで、チェロのグリッサンドに耳を澄ませた。      ♂ 終り・ふたり・鎖・暗がり・ものがたり・光・玻璃・鳥・ひとり・始り

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