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08 頭を殴れば一発
ダンスが終わると、ホールから出たニアとダイアナに、複数の人間が近付いてきた。その先頭に立っていたのは、ダイアナと同い年ぐらいの愛らしい少女だ。
少女は、かすかにピンクがかって見える茶色のくせ毛を、頭の両脇で飾り編みにして垂らしていた。大きな瞳は目尻がゆったりと垂れていて、控えめな唇は桃色に色づいている。大量の真珠が縫い付けられた淡いピンク色のドレスも、よく似合っていた。ダイアナの豪奢な美貌とは異なる、どこか庇護欲をそそる儚げな美少女だ。
その美少女の後ろには、十人以上の貴族令息たちがまるで護衛のように付き従っていた。
近付いてくる美少女を見て、ダイアナがゲッという表情を浮かべる。ダイアナの露骨な反応に気付いているだろうに、美少女は気にする様子もなくふんわりと微笑んだ。
「ダイアナ様、お久しぶりです」
「……お久しぶりです、クリスタル様」
渋々といった様子で、ダイアナがスカートを摘んで挨拶を返す。
クリスタルという名前には覚えがあった。確か、ハイランド公爵家の一人娘だ。クリスタルが、すっと流れるような動きでニアに目線を送ってくる。
ニアは胸に手を当てると、緩く会釈を向けた。
「初めまして、ニア・ブラウンと申します」
「お会いできて光栄ですわ。クリスタル・ハイランドと申します」
鈴が鳴るような愛らしい声で、クリスタルが答える。クリスタルは、柔らかな笑みを浮かべたまま続けた。
「ダイアナ様とはお茶会でよくご一緒させて頂くんです。お兄さまのお話もかねがねお伺いしております」
「それは……どんな話をしているか恐ろしいですね」
視線を落とすと、ダイアナはサッと素早くニアから顔を逸らした。明らかにバツが悪そうな表情だ。
ニアがじっとりとダイアナを眺めていると、不意にクリスタルが、ふふっ、と軽やかな笑い声をあげた。
「こんなに素敵なお兄さまだったら、ご兄弟で踊りたくもなりますよね」
その一言に、途端ダイアナがうんざりしたように鼻から大きく息を吐き出す。『あーあ、また始まった』と言わんばかりの態度だ。
ダイアナの表情を気にとめる様子もなく、クリスタルが可憐な声で続ける。
「私、ダイアナ様のダンスパートナーが見つからないのかと、うっかり勘違いしてしまって。どなたかダイアナ様のお相手をしてくださいませんか、とお声掛けしてたくさん殿方をお連れしたんです」
クリスタルがそっと後ろを振り返ると、立ち並ぶ貴族令息たちの鼻息が荒くなった。二人の美少女を前にして、最低限の理性しか残っていない様子だ。
クリスタルの台詞を聞いて、ニアは思わず、おおっ、と声をあげそうになった。気遣う口調だが、これは明らかにマウントだ。『ダンス相手もいない可哀想なあんたに、わざわざ男を用意してやった』と嫌味を言っている。柔らかな布に包んではいるが、トゲトゲの針が大量に飛び出して見えた。
『これが俗にいう女同士の闘いというやつなのか』
そう思いながら、恐る恐る視線を落とす。ダイアナが、クリスタルには聞こえない程度に小さな舌打ちを漏らす。だが、すぐさまにっこりと笑顔を浮かべて、演技がかった声を返した。
「あら、お気遣いありがとうございます。ですが、クリスタル様の優しいお気持ちだけ受け取っておきますわ。私は、ただ踊る相手をきちんと選んでいるだけですから」
その口調には『あんたと違ってね』という意味が篭められているようだった。
ダイアナの返答に、クリスタルがすっと目を細める。交差した視線の間でバチバチッと火花が散っているように見えて、ニアはひどくハラハラした。
「私はどなたも素敵な殿方だと思いますよ。ダイアナ様はずいぶんと目が肥えていらっしゃるんですね」
「そうですわね。私にはお兄さまが一番素敵に見えますので」
クリスタルが、ぷっ、と小さく噴き出す。それは儚げな見た目に似合わぬ、底意地の悪さを滲ませた笑いだった。
「ダイアナ様はちょっとブラコンの気(け)があるのですね。ですが、そろそろ兄離れをしなくては嫁(い)き遅れになってしまいますよ」
心配しているようでたっぷりの毒を含んだ言葉に、このままだとダイアナが爆発してしまうのではないかとニアは危惧した。こんなところで癇癪を起こしたら、ダイアナの印象が悪くなってしまう。
ニアが唇を開きかけるのと同時に、ダイアナがニアの腕をぎゅっと両腕で抱き締めてきた。
「そうなんです。私、お兄さまのことが大好きなんです。ですから、お兄さまを超える殿方が現れなければ結婚しないと決めていますの」
堂々と答えると、ダイアナはニアの腕を引っ張って歩き出した。
「クリスタル様は、たくさんの殿方とのダンスを楽しんでください。では、私たちはこれで失礼します」
そう言い切ると、ダイアナは余裕綽綽(よゆうしゃくしゃく)な足取りで中庭の方へと歩き出した。
引っ張られるままに歩きながら、後ろを振り返る。突然話を打ち切られたクリスタルが、ぽかんとした表情でこちらを見つめていた。
「だ、大丈夫か?」
「大丈夫って?」
「いや、だって……」
以前までのダイアナだったら、あんな風に喧嘩を売られたら相手も場所もかまわず『私がパートナーに困ってるように見えるッ!?』だとか『バカにするんじゃないわよッ!』とギャンギャン喚き散らしていたはずだ。前の人生でも、ニアも何度かその光景を見たことがある。ダイアナが爆発する度に、周りの人間がダイアナをなだめすかして落ち着かせてきたのだ。
口ごもるニアを見やって、ダイアナが肩をすくめる。
「お茶会でもいっつもそう。あいつってば、私のことをこき下ろそうと必死なの。でも、あんなの真面目に相手にするだけ損だもん」
あっけらかんとした口調で、ダイアナが言う。ダイアナの反応に、ニアはかすかに胸が熱くなるのを感じた。ダイアナは、もう前の人生とは違う人間になり始めている。
「大人になったなぁ」
ニアがしみじみと呟くと、ダイアナは前を向いたまま唇を小さく開いた。
「それに――」
耳に届いた続く言葉に、ニアは唇を半開きにしたまま固まった。
――あんなの頭を殴れば一発よ。
ダイアナの顔を見やると、その片方の口角は薄っすらと吊り上がっていた。それは淑女には程遠い、むしろ悪人に近い顔だ。
ダイアナは強くなりつつあるが、もしかしたら前とは違う方向性の悪女になりつつあるんじゃないか。悪女というか、ヒールというか、力ですべてを解決するモンスターというか……。
そんな恐ろしい予感が込み上げて、ニアはぶるりと身体を震わせた。
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