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番外編3 神を崇拝する(モブ視点)

   オイルを染み込ませた布で革の武具を磨き上げながら、ヨハネスは、ふあぁ、と大きくあくびをひとつ零した。昼下がりの騎士団待機所は、どこかまったりとした緩やかな空気が流れていて、自然と眠気を誘われる。ヨハネスの隣で弓の手入れしていた同僚のダットも、椅子に座ったまま時折こっくりこっくりと舟を漕いでいる。  ヨハネスはもう一度あくびを零しながら、ダットの足を軽く蹴り飛ばした。途端、ダットがビクッと身体を震わせて顔を上げた。 「おい、寝るな。ガルド団長に見つかったら、ゲンコツ一発じゃ済まないぞ」 「あぁ、悪い悪い。昼飯食いすぎたから、つい眠たくなっちまって……」  へらへらと笑いながら、ダットが緩く後頭部を掻く。その姿を見て、平和ボケしているな、とつくづく思う。実際のところ、騎士団が出陣するような事件はここ数ヶ月ほとんど発生していなかった。時折隣国から盗賊が越境してくることがあるが、それも騎士団が出動すればすぐに尻尾を巻いて逃げ出してしまうので全然戦闘にならない。  ヨハネスも第二騎士団に入団して三年経つが、大がかりな戦闘にはたった一回しか参加したことがなかった。複数の領民への暴行容疑で追放を命じられた貴族が反乱を起こしたのだが、それも第一王子の指揮の下、一日も経たずに勝利を収めてしまった。ゆえに正直死力を尽くして戦ったという感覚はない。  近頃は敵と戦うこともなく、毎日のように訓練や武具の手入れを延々と繰り返しているばかりだ。その訓練だって、日に日に真剣味が薄れているような気がする。 「これだと腕がなまるな」  ヨハネスがため息混じりに呟くと、ダットが間延びした声をあげた。 「王子殿下とニア様のおかげで、この国はずいぶんと平和になったからなぁ」  まぁ、有り難いことだけどさ。と付け加えて、ダットが軽く口笛を吹く。その暢気な反応に、ヨハネスはムッと顔を顰めた。騎士団に入った以上は、己(おの)が命を尽くして戦うことが本分(ほんぶん)ではないのか。それなのに、毎日毎日こんなだらだらと働いて、はたして職務を果たしていると言えるのか。  こういうことを口に出すと、周りからは『真面目すぎる』だとか『理想主義すぎて現実が見えてない』などと鼻で笑われてしまうが、それでもヨハネスは自分の信念を曲げられなかった。自分は、国を守るために騎士団に入ったのだ。それなのに、こんな風に毎日だらけていたら腕どころか心根まで腐ってしまう。  だが結局のところ、ダットの言うとおり今の状況は本来は有り難いことなのだ。第一王子の揺るぎない政権のもと、国は安定し、民は穏やかに暮らし、そして騎士団は暇を持て余している。これを平和と呼ばずして何と呼ぶ。  そう思うと、ヨハネスは長々とため息を漏らした。ぼんやりとしたまま、痒くなった頬を指先で掻く。途端、ダットがブハッと大きく噴き出した。 「なぁ、ちゃんと手を見ろよ」  その指摘に、ヨハネスは自身の手を見下ろした。よく見ると、指先には油混じりの黒い汚れがベットリとついている。うっかり、その指で頬を掻いてしまった。  ああ、ちくしょう、とうめきながら立ち上がって、壁に据え付けられた鏡に近付く。鏡に映った自分の頬が黒く汚れているのを見て、ヨハネスは思いっきり顔を顰めた。 「ずいぶんと男前になっちまったなぁ」 「うるせぇ」  ダットの軽口に悪態を返しながら、手の甲でいい加減に頬を擦る。だが、油が混ざっているせいで頬の汚れは落ちず、むしろ範囲を広げただけだった。  これは水で顔を洗わなきゃ落ちないな、とうんざりしていると、不意に待機所に飛び込んでくる影が見えた。飛び込んできた騎士団の一員が、息を切らしながら大声で叫ぶ。 「おいっ、ニア様とヘンリーが模擬戦をしているぞっ!」  その声を聞いた瞬間、ヨハネスの心臓はドッと音を立てて跳ねた。待機所のまどろんでいた空気がガラッと変わって、みな手元に持っていたものを放り投げて、一斉に扉へと向かって走り出す。ヨハネスも、みなと同じように鍛錬場へと向かって全速力で駆け出した。  鍛錬場には、すでに人の輪が出来上がっていた。無理やり人を押しのけて、前方へ向かう。そうしてパッと視界が開けた瞬間、ヨハネスは眼前の光景に目を奪われた。  大斧を振りかぶったニア様と、双剣を握ったヘンリーが凄まじいスピードで打ち合っている。ヘンリーが繰り出す剣技を、ニア様がぐるりと大斧を回転させて柄部分でなぎ払う。重量がある大振りな武器だというのに、まるで羽でもついているかのようにその動きは軽やかで素早かった。鍛えた騎士団のメンバーでさえも、一振りするだけで足が持って行かれるほどの重さの大斧だ。それを思うと、改めてニア様の人間離れした腕力と体幹の強さを思い知らされる。  息をすることすら躊躇われるような苛烈な剣戟(けんげき)が続く。互いのギリギリを削ぎ合うような打ち合いに、みな食い入るようにニア様とヘンリーの戦いを凝視していた。  剣をへし折られないように、ヘンリーもニア様の打ち込みを上手く受け流していた。だが、下から剣を打ち上げられた瞬間、わずかに足がブレた。その瞬間を狙って、ニア様が大斧の柄頭でヘンリーの胸を強く突く。グッと息を詰めたヘンリーが後方へたたらを踏んで再び双剣を突き出そうとするが、それよりも早く大斧の刃先が首筋へと突きつけられた。  自身の首に添わされた大斧を見て、ヘンリーが一瞬悔しげに顔を歪める。だが、すぐさま剣を地面に落とすと両手を上げた。 「まいった。俺の負けだ」  降伏の台詞を聞くと、ニア様は両手で構えていた大斧をゆっくりと下ろした。それまで険しかった目がゆっくりと緩んでいって、口元に和やかな笑みが浮かぶ。 「ヘンリー、ありがとう。良い訓練になった」 「俺はお前のせいで、二日は腕が上がらなくなったぞ」  軽口を叩きながら、二人が互いの肩を叩き合う。その親しげな様子を見て、周りの騎士たちが、ほぅ、と羨ましそうな息を漏らすのが聞こえた。それはヨハネスも同じだ。今は王族の一員となったニア様に、あんなに気安く話しかけられる人間は数えられるほどしかいない。それが羨ましすぎて、見開いた眼球から血の涙が出てきそうだった。  ほんの一年前までは、みな口に出さずとも『ヘンリー・ハイランドは終わった』と思っていた。当主が反逆の罪を犯したせいで、財産をほぼ奪われ、公爵から男爵まで爵位を下げられ、ハイランド家の地位は地の底まで落ちた。それまでヘンリーに金魚の糞のように付き従っていた者たちも、一瞬でヘンリーから離れていった。  ヨハネスはヘンリーの哀れな境遇を見ていたが、わざわざ手を差し伸べようとは思わなかった。血族が犯した罪は、血族全員で償わなくてはならない。それが貴族の世界というものだ。  むしろ、ヨハネスからすればヘンリーは最高に運が良い方だった。父親が犯した罪を思えば、一族郎党が縛り首にあっても仕方ない。それなのに爵位を下げられただけで、ヘンリーは特段大きな罰を受けていない。容赦ないことで有名な第一王子にしては、ずいぶんと寛大な沙汰だ。  だが、反逆者の息子が騎士団に所属し続けることに反発を覚えなかったわけではない。多くの騎士は露骨にヘンリーを無視したし、陰湿な嫌がらせをするものや、すれ違い様に殴り付けるものだっていた。だが、ヘンリーは何も言わずに、ひたすら耐え忍び続けた。  そして、ヘンリーの転機になったのは、一年前のブロッサムバンケットだ。あのパーティーから、ニア様とヘンリーは友人関係になったようだった。それを契機に、ヘンリーを見る周りの目が一気に和らいだ。それぐらい騎士団のメンバーにとって、ニア様はカリスマ的に慕われている存在だった。  わずか十六歳にして次期ロードナイトに選ばれた逸材であり、ただ力が強いだけではなく遠距離砲台の開発もすすめる先見の明もあり、更には邪悪な魔女の首を斬り落として国を救った英雄だ。そのうえ第一王子の寵愛を受けて王族の一員にまで選ばれたことを思えば、もうすでに雲の上のような存在だった。それなのに性格は謙虚で、誰に対しても親切な態度を崩さないとなれば、もう崇拝する要素しかないだろう。  ヨハネスも騎士団に入る前から、ニア様の大ファンだった。いや、ファンという言葉では生ぬるい。むしろニア教の信者と言っても過言ではないだろう。ニア様が訪れたという場所を聞けば聖地巡礼とばかりに参ったし、食べたものを聞けばどれだけ遠い店でも買い求めに行った。入団したニア様の妹君であるダイアナ嬢にも「何でもいいので、どうかニア様の情報を教えてください!」と土下座しにいったほどだ。だが、ダイアナ嬢にはゴミでも見るような視線を向けられた挙げ句に「拒否します。個人情報です。あと、兄をよからぬ目で見たらブチ殺します」と釘を刺されてしまった。  それでも、ヨハネスはずっと諦めずにニア様の信者で居続けたのだ。そして、今その神が目の前にいるのだから興奮せずにはいられなかった。  目の前では、大斧を二人の使用人に渡したニア様が右腕をぐるぐると回していた。 「有事のときに身体がなまっていたら話にならないからな。ヘンリーが模擬戦に付き合ってくれて助かるよ」 「最近は、ずっと平和続きだからな」 「そうだな。でも、いつ何が起こるかは判らないから」  そう呟くと、ニア様はゆっくりと周りを見渡した。辺りを囲む騎士たちを見つめながら、ニア様が言う。 「今言ったように、いつ何が起こるかは誰にも判らない。皆さんには、有事の際は一番に先陣に立って貰わなくてはなりません。だから、この国を、自分の家族を守るためにも、どうか常に心構えだけは持っておいてください」  小さな子に言い聞かせるような静かな声に、周りにいた騎士たちの背がピシッと一気に伸びるのを感じた。それを見て、ニア様がかすかに恥ずかしそうな笑みを浮かべる。途端、硬質な空気が消えて、子犬のような柔らかな愛嬌が滲み出す。 「何だか偉そうなことを言ってすいません。俺も最近訓練に出られてなかったので、今後はなるべく参加させて貰うつもりです。もし良ければ、模擬戦の相手とかして貰えると助かります」  ニア様の言葉を聞いた瞬間、騎士たちが一斉に色めき立つのを感じた。我先にと駆け寄って、騎士たちがやいのやいのと声を上げる。 「俺にお相手をさせてくださいっ!」 「いいや、俺が!」 「俺は槍が得意ですっ!」  騎士たちに取り囲まれたニア様が、目を白黒させているのが見える。ヨハネスも周りに負けじとばかりに片腕を振り上げて、声を張り上げた。 「俺もっ、ニア様のように強くなりたいですっ!」  そう叫んだ瞬間、ニア様の目がこちらに向けられた気がした。ニア様がパチリと大きく瞬いて、ヨハネスの顔を見つめている。そのまっすぐな眼差しに、ヨハネスの呼吸は止まりそうになった。 ――まさか、俺を見てくれているのか?  ニア様が、人波をくぐってヨハネスへとまっすぐ近付いてくる。一歩近付くごとにヨハネスの心臓は高鳴っていった。肋骨を破って、いっそ心臓が飛び出してしまいそうだ。  ヨハネスの前で、ピタリとニア様が立ち止まる。じっとこちらを見下ろす薄緑色の瞳に、ヨハネスはもう卒倒しそうだった。血がのぼりすぎて、自分の顔が赤リンゴのように真っ赤になっているのが判る。  ぐらぐらと揺れそうになる膝を必死で立たせていると、ニア様が自身のポケットからハンカチを一枚取り出した。 「あの、良ければどうぞ」  その言葉の意味が解らなかった。ニア様は、なぜ自分にハンカチを差し出しているのだろう。もしかして頑張っている自分へのご褒美か何かなのか。これは夢か現実か、それともヨハネスの妄想なのか。  ヨハネスがほぼ逆上(のぼ)せた状態になっていると、ニア様は困惑したように首を傾げた。決して小柄な体格ではないのに、コテンと首を傾ける仕草はまるで小動物のようだ。 「顔に汚れがついてるので、良ければ使ってください」  そう告げられて、自分の顔に油汚れがついていたことを思い出した。おそらくその汚れを見て、わざわざハンカチを渡しに来てくれたのだろう。  指摘を受けて、ヨハネスは反射的に自身の頬へと手を伸ばした。その瞬間、鼻腔の奥でプツンと何かが切れたような感覚があった。同時に、鼻からだらりと液体が垂れてくる感触がして、ニア様がギョッとしたように目を見開く。 「ぇ、えっ? だっ、大丈夫ですか?」  上擦った声で訊ねながら、ニア様は手に持ったハンカチをヨハネスの鼻にそっと押し当てた。視界の端で、真っ白だったハンカチにじわじわと赤色が染み込んでいくのが見える。どうやら、興奮のあまり鼻血が出てきたらしい。  小さな子を世話するように甲斐甲斐しく鼻血を拭ってくれるニア様の姿を、ヨハネスは陶酔した眼差しで見つめた。 ――ああ、今日は人生最良の日だ。いっそこの幸せな気持ちのまま、天に召されてしまいたい……。  ヨハネスが歓喜のあまり昇天しそうになったとき、不意に誰かがニア様の手首を掴むのが見えた。ヘンリーがどこか焦った表情で、ニア様の腕を引っ張っている。 「おい、ニア。それ以上はやめろ」 「でも、血が出てるから」 「今すぐそいつから離れないと、もっと大量に血を見る羽目になるぞ」  ヘンリーの声音は、かすかに震えていた。その怯えた視線は、鍛錬場の出入口方面へと向けられている。ヘンリーの視線が向けられた方を怪訝に見やった直後、ニア様は不意にパッと花開くような笑みを浮かべた。 「フィル様」  幸せが溢れ出したような、ひどく柔らかな声音だった。ふにゃりと緩んだニア様の表情を見て、ヨハネスは強烈な熱光線を浴びたような衝撃に襲われた。混乱と興奮が体内で暴れ狂って、身体がどろどろに溶けてしまいそうだ。  ヨハネスが液状化しそうになっている間に、周りを取り囲んでいた騎士たちが蜘蛛の子を散らすように一斉に遠ざかっていくのが見えた。  そうして、ニコニコと嬉しそうに笑うニア様と、ビクビクと肩をすぼめるヘンリーと、でろでろに溶け出しそうなヨハネスに近付いてきたのは、氷のように凍て付いた表情をしたフィルバート殿下だった。 「ニア、何をしている」  冷め切った声で、フィルバート殿下がニア様に訊ねる。 「ヘンリーに模擬戦の相手をして貰っていたんです」  ニア様がにこやかに答えると、フィルバート殿下は、そうか、と短く返した。その眼差しが、硬直しているヘンリーへと向けられる。途端、ヘンリーがビクッと肩を震わせた。 「ヘンリー・ハイランド、ご苦労だった」 「きょっ……恐縮です……」  ヘンリーが強張った声で答えると、すぐさまフィルバート殿下はヨハネスの方へ視線を向けた。その目が、スッと刃のように細められる。 「それは?」  まるで物扱いするように、フィルバート殿下が顎でヨハネスを示す。すると、ニア様は少し心配するように眉根を寄せた。 「ああ、突然鼻血が出てきたんです」 「そうか。救護担当はいるか?」  フィルバート殿下が、遠ざかった騎士たちの方へ声をかける。すると、騎士たちの中からブルブルと震えながら一人の男が進み出てきた。その男に向かって、フィルバート殿下が短く言い放つ。 「こいつを連れて行け」 「ぇ、あ……ろ、牢屋にですか……? そっ、それとも、拷問部屋にでも……?」  救護担当の男が引き攣った声で訊ねると、フィルバート殿下は眉根を寄せた。 「救護室に決まっているだろうが」 「そ、そうですよねっ」  空笑いを漏らしながら、救護担当の男がヨハネスの両腕を背後から抱えてくる。ヨハネスは夢見心地のまま、救護担当の男にずるずると引き摺られていった。ニア様から離れるのは名残惜しいが、こちらを心配そうに見つめてくれる眼差しだけで昇天しそうなほど嬉しかった。  ビクビクと背中を丸める騎士たちを一瞥して、フィルバート殿下が不意に鋭く言い放つ。 「気を付け!」  途端、雷でも走ったように騎士たちがビシッと背筋を伸ばすのが見えた。 「各団長より、ここのところ騎士たちが腑抜(ふぬ)けていると報告を受けている! そのため、これより騎士全員で勝ち残り戦を行うものとする! 上位の者には褒美と相応の地位を与える! だが、下位の者には厳しい訓練を課す!」  大気をビリビリと震わすような命令に、一気に騎士たちの顔が引き攣るのが見えた。つまり騎士団全員の総当たり戦ということか。  それを聞いた瞬間、ヨハネスは浮ついていた脳味噌が一気に覚醒するのを感じた。救護担当の男の腕を振り払って、直立不動してフィルバート殿下を凝視する。 「勝ち残り戦には、私も参加する! もちろん私に勝利した者にも褒美を与える! 決して遠慮をして敗北するようなことはするな! そのような愚か者には重い罰を与えるから覚悟するように!」  続けざまに告げられた言葉に、騎士たちが一斉にざわついた。まさか次期王になられる方が泥臭い勝ち残り戦に参加するなんて前代未聞だ。  フィルバート殿下の言葉を聞いたニア様が、一気に顔を強張らせる。 「フィル様、それはっ」  押し留めるようにニア様がフィルバート殿下の腕を掴む。だが、フィルバート殿下はその手をそっと握ると、打って変わって柔らかな声で囁いた。 「ニア、心配するな」 「ですが……万が一にでも怪我をしたら……」  くしゃりと表情を崩しながら、ニア様が不安げな声で呟く。だが、フィルバート殿下は安心させるようにニア様の手の甲を指の腹でそっと撫でた。 「お前の知る俺は、そんなに弱いか?」 「いえ、もちろんそうは思いません」  ニア様は即座に答えた。だが、その表情はまだ心配そうに歪められている。苦笑いを浮かべてニア様を見つめた後、フィルバート殿下はひどく寒々とした視線で騎士たちを見渡した。その唇が酷薄な笑みを滲ませる。 「『俺のもの』を良からぬ目で見る不埒者共の頭を冷まさせてやる」  薄笑い混じりの台詞に、ブリザードにでも吹かれたかのように一気に辺りの空気が氷点下になるのを感じた。その言葉で、全員が理解した。 ――こ、この人、完全に私情で俺たちを叩きのめすつもりだ……。  そう理解した瞬間、ぞわぞわぞわと背筋に悪寒が走るのを感じた。  しかも、フィルバート殿下もヘンリーに負けず劣らずの剣の名手だ。十代の頃から、並みいる暗殺者共をバッサバッサと斬り殺しまくっていたことでも有名だった。つまり、馬鹿みたいに強く、そして容赦がない。おそらく本気でかからないと腕の一本ぐらいは失いかねないだろう。  恐ろしい予感に騎士たちが震え上がっていると、フィルバート殿下は低く轟くような声を上げた。 「全員今すぐ武器を持て!」  その叫び声に、ヨハネスは他の騎士たちと同じように一斉に武具庫へと走り出した。  一瞬だけ肩越しに振り返ると、フィルバート殿下がニア様の腰を抱いて、ひどく柔らかな笑みを浮かべているのが見えた。ニア様は困ったものでも眺めるような眼差しで、フィルバート殿下を見返している。  互いを想い合う二人の眼差しを、ヨハネスは自身の胸のアルバムにそっと収めた。そうして、この美しく優しい光景を守りたいと思った。自分は、ただの一騎士だ。だが、きっとニア様の幸せを守ることはできる。  そう思いながら、ヨハネスは強く剣を握り締めた。

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