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番外編4 嫉妬するニアは最恐に可愛い(フィルバート視点)

   へにゃりと緩み切った笑顔を向けられる。雛鳥が親鳥を見るような、無条件の信頼が篭もった眼差しに、フィルバートは胸の奥がとろけていくのを感じた。 「ふ、ふふ、ふふ」  先ほどからずっと半開きの口から、夢の中をたゆたうような笑い声が聞こえてくる。その笑い声に柔らかな笑みを返しながら、フィルバートはニアの頬へと手を伸ばした。火照った頬は、まるで熟れかけた果実のようにじんわりと赤く染まっている。 「美味いか?」  優しく訊ねると、ニアは両手にグラスを握り締めたままコクコクと数度うなずいた。グラスには、なみなみと透明な酒がつがれている。もうそれも何杯目になるのか判らない。日暮れ頃に飲み始めてから、今はまもなく日付が変わる時刻になっている。窓の外も、塗り潰されたように真っ暗だ。フィルバートも初めて飲んだ酒に、自身の頭の芯がかすかにぼやけているのを感じていた。  フィルバートは、今日二十歳になった。その記念として、共に酒を飲もうとニアを誘ったのだ。ニアが酒を飲むのを見るのは初めてだが、まさかこんなにも笑い上戸になるとは思ってもいなかった。 「おいしい、です」  つたない声で答えながら、ニアが両手に持ったグラスを自身の口元へと運ぶ。唇の端から一筋零しながら、コクコクと酒を飲んでいく。クッキリと浮かび上がった喉仏が上下する様を、フィルバートは陶酔した眼差しで眺めた。  一息に酒を飲み干すと、ニアは少し残念そうに空っぽのグラスを見つめた。それを見て、フィルバートは傍らにあるワイン瓶を引き寄せて、ニアのグラスに新たに酒を注いだ。テーブルの上には、空っぽになった酒瓶がすでに片手じゃ数えられないほど置かれている。注がれた酒を見て、ニアは嬉しそうに頬を緩めた。 「ありがとぉ、ござぃます」 「ああ、好きなだけ飲め」  普段の礼儀正しさはどこへやら、完全に酔っ払って幼児返りしている。そんな気の抜けたニアがフィルバートは可愛くて堪らなかった。普段はピシッと背を伸ばしている男が、今はへにゃへにゃに緩み切っている。  酒のせいで、常に目がじわりと潤んでいるのも可愛かった。かすかに涙の膜が張った先に、薄緑色の瞳が透けて見える。ランプの光に照らされて、その瞳がチカチカと宝石のように輝くのがひどく美しかった。そんな姿を見ているのが自分だけだと思うと、優越感にも似た幸福感が込み上げて勝手に口元が緩む。 「ニア、愛してるぞ」  そう囁くと、コクコクと酒を飲んでいたニアがきょとんと目を瞬かせた。だが、すぐさまへにゃりと笑みを浮かべる。 「おれも、フィルさまだいすきですっ」  普段だったら愛を囁くと真っ赤になって顔を伏せてしまうのに、今は酒で恥じらいが消えているおかげか素直に応えてくれる。それがまた途方もなく嬉しかった。 「お前は本当に可愛いな」  しみじみとした声で呟きながら、ニアのピンク色になった耳を指先で撫でる。すると、ニアはくすぐったがるようにクスクスと笑いながら頭を傾けた。 「かわいいのは、フィルさまですよ」 「俺が?」 「はい、そぉです」  間延びした声で答えると、ニアはテーブルに片肘をついてフィルバートの顔をじっと覗き込んできた。ニアらしくない遠慮ない距離の詰め方に、一瞬心臓が跳ねる。 「むつかしい仕事で、なやんでるとき、くちびるがヘの字にまがるのがかわいい、です」  そう言って、ニアがフィルバートの唇に人差し指で触れてくる。ふふ、と聞こえてきた笑い声に、フィルバートは少しだけ自分の頬が熱くなるのを感じた。 「それから、フィルさま、おっきい犬はだいじょぶなのに、ちっさい犬は苦手、ですよね。ちっさい犬がちかづいてきたら、眉ぎゅっとよせて、すぐ遠くにいこうとするから」  確かにフィルバートは小型犬が苦手だった。小さすぎて踏み潰しそうな気がするし、キャンキャンと高い声で吠えられるとコメカミ辺りが痛くなってくるからだ。だが、それをニアに気付かれているとは思ってもいなかった。  フィルバートが目を丸くしていると、ニアは潤んだ瞳をゆっくりと細めて微笑んだ。 「それに、ずっと、おれのこと見てる」  笑い声混じりに囁かれた瞬間、猛烈な勢いで熱が全身に回っていくのを感じた。とっくに気付いているんだぞ、と今更ながらに突き付けられた気分だった。  フィルバートが黙りこくっていると、ニアは首をコテンと傾げて言った。 「おれ、あなたのことが、かわいくて、しかたないんです」  あざとい仕草でそう口に出すのを見て、フィルバートは『可愛いのは、お前の方だろうが!』と我を忘れて叫びそうになった。今すぐベッドに連れて行って押し倒して滅茶苦茶に食い尽くしてやりたいが、こんなに素直なニアを見られる機会も滅多にない。今にも噴き出しそうな衝動を押さえて、細く長い息を吐き出す。  跳ねる心臓を抑えるように深呼吸を繰り返していると、ふと良からぬ考えが脳裏を過った。 ――もしかしたら今のニアなら、どんなお願いでも聞いてくれるんじゃないだろうか。  相変わらず酒をコクコクと飲み続けているニアに顔を寄せると、フィルバートは笑い混じりに問い掛けた。 「それじゃあ、可愛い俺のお願いを聞いてくれるか?」  訊ねると、ニアはとろりと溶けた目でフィルバートを見返してきた。 「おねがい、ですかぁ?」 「あぁ、お願いだ」  繰り返すと、ニアはふにゃりと相好(そうごう)を崩した。 「はい、フィルさまのおねがい、聞きます」 「何でもか?」 「なんでもれす」  呂律が回っていない口調に、フィルバートまで顔が緩んでしまう。よしよしと頭を撫でると、懐いた飼い猫のように掌に擦り寄ってきた。 「だったら今度、俺が用意した服を着てくれるか?」 「ふく?」 「ああ、そうだ。服だ」  口にしながら、フィルバートは少しだけ乾いた自身の唇を舐めた。興奮にも似た痺れが、下腹の奥で疼いているのを感じる。  ニアは酔いで思考が上手く働かないのか、視線をしばらく宙に浮かべた後、のんびりとした声で答えた。 「はい、いいですよぉ」  思わず、よしっ、とその場でガッツポーズしそうになった。テーブルに置かれたニアの手の甲に掌を重ねながら、念押しするように言葉を続ける。 「本当にいいのか?」 「はい、おれ……フィルさまのためなら、なんでも、します」  へへ、とはにかみながら返された言葉に、胸の奥が熱くなるのを感じた。だが、同時に意地の悪い考えが頭に浮かぶ。もっとニアの愛らしい反応を見たいという気持ちがムクムクとわき上がってきて、フィルバートは思わず口に出してはいけないことを言ってしまった。 「なぁ、もし俺が浮気したらどうする?」  心底馬鹿げた質問だと思う。自分が浮気をするなんて、死んでも有り得ないことだ。だが、そう訊ねたら、ニアがもっと可愛いことを言ってくれるのではないかという期待があった。目を涙で潤ませて『絶対にイヤですっ』だとか『悲しくて泣いちゃいますっ』なんて言ってくれるかもしれない。  だが、フィルバートの下心に反して、そう訊ねた瞬間、ニアの顔面から一気に表情が消えた。一切の感情が抜け落ちたような無表情のまま、ニアが無言で立ち上がる。そのまま部屋の壁へと向かって、ニアがスタスタと歩いて行く。 「ニア?」  フィルバートが呼びかけても、ニアは答えようとしない。『まずいことを聞いたかもしれない』と今更ながらにフィルバートが思った直後、ニアが壁に立てかけている大斧を手に取るのが見えた。 「ちょっ、待て」  自分らしくない上擦った声が漏れる。無言でこちらへと近付いてくるニアの姿を見て、フィルバートは自身の背筋が凍り付くのを感じた。 「違う、今のはただの冗談で――」  言い訳を口にする前に、ニアが両手に握り締めた大斧を一気に振り上げる。振り下ろされる大斧を見て、フィルバートはとっさに床を蹴って椅子ごと後方へと倒れた。椅子が倒れる音とともに、床にぶち当たった背中に衝撃が走る。  グッとうめきつつ視線を足元側へと向けると、自分の股間手前の床に大斧が深々と突き刺さっているのが見えた。その光景に、全身から冷汗が噴き出してくる。 「ほかの奴と、寝たら、チンコを、きりおとし、ます」  フィルバートの股間辺りを凝視したまま、ニアが抑揚のない声で呟く。その声音にまたぞわぞわと寒気が這い上がってくるのを感じながら、フィルバートは強張った声をあげた。 「いや、さっきのは冗談で、浮気なんてしな――」  フィルバートの言葉を最後まで聞かずに、ニアがドカドカと荒い足取りで室内を歩き出す。ベッド前で立ち止まると、ニアは独り言のように呟いた。 「ほかの奴とキスしたら、口を、ぬいあわせます」  そう言い切ると同時に、ニアは大斧を振りかぶってベッドの天蓋の柱へと叩き付けた。瞬間、凄まじい破壊音を立てて天蓋の柱が真っ二つに折れるのが見えた。  フィルバートが斜めに傾いた天蓋を唖然と眺めていると、ニアはトコトコとまた部屋の中を移動した。壁際にある仕立ての良い頑丈そうな棚に近付くと、ぽつりと呟く。 「ほかの奴の、手をにぎったら、腕を、裂きます」  そう呟くと、大斧を棚へと一気に振り下ろした。バギバギッと破壊音を立てて、地割れでも起こったように棚が縦半分に裂ける。 「ほかの奴を見つめたら、目玉を、つぶします」  ほとんど譫言のように呟きながら、夢遊病みたくふらふらと歩き回っては部屋の家具を見境なく破壊していく。暴れ熊のようなニアの姿を、フィルバートは唇を半開きにしたまま見つめた。  だが、流石に深夜の壮絶な破壊音に気付いたのか、室外から複数の人間のざわめきが聞こえてくる。 「どうなさいましたかッ!」  扉の向こう側から問い掛けてくる声に、フィルバートは返事ができなかった。ただ、暴れるニアから目が逸らせない。こんなにもニアが感情剥き出しにしている姿を見るのは初めてだった。いつもは自分の感情を押し殺している控えめな男が、今は嫉妬心と凶暴性をあらわにして本能のままに暴れ回っている。その獰猛な姿からニアの深い情念が伝わってくるようで、フィルバートは心臓が震えるぐらい嬉しかった。  室内から返事がないことに焦ったのか、慌ただしい足音の後、鍵をガチャガチャと回す音が聞こえてくる。この部屋の鍵を持っているのは、フィルバートとニア以外にはクロエだけだ。開かれた扉から姿を現したのは、予想通りクロエだった。  クロエとその後ろに続く従者たちは室内で暴れ回るニアを見ると、ギョッとしたように目を見開いた。だが、すぐさま『この状況はマズイ』と気付いたのか、クロエは従者たちを外に追いやると、バタンッと勢いよく扉を閉めた。振り返ったクロエが鋭い声をあげる。 「ニア様ッ、何をなさってるんですか!?」  クロエの声を聞くと、ニアはピタリと動きを止めた。クロエを見やったニアの顔が、見る見るうちに泣き出しそうに歪んでいく。 「だって……フィルさまが、浮気、するって……」  ニアがぐずっと鼻を鳴らす。クロエは涙ぐむニアと大量の酒瓶を交互に眺めると、すべてを悟ったようにフィルバートを睨み付けてきた。その視線に、フィルバートは床に座ったまま緩く肩をすくめた。 「冗談のつもりだった」 「だったら、こんな惨状になる前にさっさと止めてください!」  目も当てられない状態になった室内を見渡しながら、クロエが引き攣った声で叫ぶ。 「悪いな、嫉妬しているニアが可愛すぎて止められなかった」 「喜んでる場合ですかッ!」  フィルバートを叱りつけて、クロエがらしくもなく焦燥した様子で頭を抱える。 「ああっ、嘘でしょう……ッ! この柱、馬鹿みたいに高いのに……! 最高級の飾り棚まで……! これじゃ壁も全部貼り替えじゃないですか……っ!」  破壊された家具を見ては、クロエが嘆きの声をあげる。その姿を見ながら、フィルバートはのんびりと床から立ち上がった。 「悪かった。修繕費はすべて俺の私財から出す」 「当たり前ですッ!」  よっぽど癇に障ったのか、ヒステリックな声でクロエが答える。その声音に苦笑いを零しながら、フィルバートはゆっくりとニアに近付いた。悲しげにうつむくニアの頬にそっと手を当てながら、柔らかな声で囁く。 「くだらない冗談を言ってすまなかった。俺が浮気することなど絶対に有り得ない」 「……ほんと、ですか?」 「本当だ。俺はお前以外に興味がないし、お前しか愛せない。今までも、これからもだ」  小さな子に言い聞かせるような口調で告げると、ニアはチラッと視線をあげたが、すぐにまた目線を下げた。まだ少し疑心が残っている様子だ。頬を緩く撫でながら、フィルバートは想いを込めるように言い募った。 「俺は、お前を一生離さない」  はっきりとした声で言い切ると、ニアは緩く視線をあげた。その目が潤んでいるのが見える。ランプの灯りで、薄緑色の瞳がチカチカと煌めいていた。その鮮やかな瞳に見とれていると、不意に苦しいぐらい強い力で背中を抱き締められた。ニアの手から離れた大斧が、ドンッと鈍い音を立てて床に倒れる。  フィルバートの身体をぎゅうぎゅうと抱き締めながら、ニアが耳元で囁く。 「フィルさま、だいすきです」 「あぁ、俺も愛してる」 「ほかのだれも……見ないでください……」  泣き出しそうな声で懇願されて、流石に罪悪感が込み上げてきた。嫉妬するニアが見たかったが、傷付けたかったわけではない。強張った背中に両腕を回して、ぽんぽんと軽く叩く。 「俺には、お前だけだ」  フィルバートの心はその一言に尽きた。フィルバートの世界には、ニアしかいない。すべてはニアを中心に回っていて、それ以外のものはいざとなれば切り捨てることができる。国も、民も、血族ですら何とも思わずに見捨てられる。だが、その酷薄な心根を告げれば、情深いニアはきっとひどく悲しむだろう。だから、明確に言葉にしないだけだ。  フィルバートの言葉に潜む意味に気付く様子もなく、ニアが嬉しそうに頬を緩める。 「うれしい、です」 「俺も、お前が怒ってくれて嬉しかった」  フィルバートがそう返すと、ニアは、ふへへ、と緩んだ笑い声をあげた。その幼い笑顔をうっとりと眺めていると、突然クロエの甲高い声が響いた。 「酔っ払い共はさっさと寝なさいッ!」 ***  数週間後、フィルバートが両手に持ったものを見て、ニアは素っ頓狂な声をあげた。 「何ですかそれはっ!」  フィルバートが掲げているのはメイド服だった。一目で女性用ではないと判るほどサイズが大きい。 「着てくれると約束したぞ」 「そんな約束はしていませんっ!」 「いいや、絶対に約束した」  意固地な子供みたいにフィルバートが言い返してくる。その返答にニアが唖然としていると、フィルバートはメイド服を掲げたままニヤッと人の悪い笑みを浮かべた。 「約束はちゃんと守らないとな」  言い聞かせるようなフィルバートの言葉に、ニアは口角をひくりと戦慄かせた。

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