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第10話

脳内の情報処理が追いつかない。 たからせいやく……タカラ製薬と言えば、国内最大手。薬学部の人間なら誰もが憧れを抱く最高峰。そんな製薬会社が、なん、だって? 「こう見えてタカラ製薬の社長で、資産家多家良(たから)家のご当主さまなんだよ。」 「……実質家を取り仕切っているのは御歳七十五になる母だがな。」 いやいや、え、そんな、まさか。 「ほ、本当に?」 なんとか言葉を絞り出せば、緋葉(ひよう)緋丹(ひたん)さんは二人同時にこくりと頷いた。 「なんだ、親父全然話してなかったのか。」 「巻き込む訳には、」 「いや、こんだけガッツリ関わっといて話さない方が逆にまずくね?」 「……それもそうか。」 駄目だ、頭が働かない。 父さんも現実を受け入れられないのか、僕の隣で瞳を瞬かせている。 都心から離れた、隣県の築三十年越えのおんぼろアパート。どう考えても大企業の要人が住むような所ではないはずなのに。 けれど、緋丹さんは僕が特売の合い挽き肉で作ったハンバーグを口にしては、うまいなとしみじみ噛みしめている。 「親父さ、今お家騒動の真っ只中なんだよ。身を隠せるところ探してるって言うから、ルームシェアの相手がいなくなったタイミングだったし、ここで匿ってやってるってわけ。」 「いや、それこそこんな所にいていいわけ……?」 「騒動と言うほど大したものでは無いからな。知らぬ間に弟派に株式の四割強を取得されていて、一ヶ月後の株主総会で私が取締役から退任させられるだけで…」 「大ごとじゃないか!!」 思わずダンッとテーブルを叩きつけ身を乗り出していた。 いつもならお行儀が悪いよ?なんてのんきなお叱りの言葉が聞こえてきそうなところだけど、父さんは口をポカンと開いて驚きに固まったままだ。 けれど緋丹さんは僕らの反応の意味がわからないとばかりに小首を傾げる。 「権力への執着も向上心の一つだ。そういう意味では私より弟の方が経営には向いているのかもしれない。簡単にここまでの状況に陥ったということは、これは一族の総意ということだろうしな。」 ……この人、本気で言っている。 悲壮感を微塵も滲ませることなく食事を再開した緋丹さんに僕は言葉を無くしてしまった。 弟に裏切られて立場を追われて、けれどそれを誰も助けてくれない。大変な状況のはずなのに。 「ん、御御御付けもうまいな。」 力が抜けてしまった僕は、へなへなと椅子の背もたれに身体を預けた。 本人が気にしてないようだし、他人の僕がどうこう言う問題でもない。 チラリと緋葉に視線をやれば、ほっとけとばかりに首を横に振られた。 そうだ、ただの隣人にこれ以上関わる理由はないんだ。 どうやら生きる世界の違う人のようだし、関わらない方がいいに決まってる。 ……と、思ったのはどうやら僕だけだったらしい。 「あ、あの、……緋丹さんは、それで本当に平気なんですか?辛かったり、困ったりしていませんか?」 手にしたまたまだった箸を置き、おずおずと緋丹さんを見上げる父さん。その眉間には皺が寄せられ、苦痛に耐えるようにぐっと唇を噛みしめている。 ……あーあ、また始まっちゃったか。 自分のことより他人のこと。自分より他人の苦しみに胸を痛める。不摂生な隣人を心配して、ご飯を作りにおしかけてしまうような人だ。 こんな状況をうちの父さんが放っておけるわけがない。 奏川温人(かながわはると)とは、そういう人なのだ。 わずか数日の付き合いだけれども緋丹さんもそれを理解しているのだろう。苦しげに顔を歪める父さんに、大丈夫だと僅かに口角を上げる。 「私自身の進退については本当にどうでもいい。……ただ、残される者達が気がかりで、時間が許す限りここで身を隠して少しでも状況を改善してから退任するつもりではいるがな。」 「なにか、問題があるんですか?」 父さんの言葉に緋丹さんは一瞬言い淀んだ。だけど、父さんがここで引くような人間じゃないことをもう知っているんだろう。諦めたように一つ溜め息を溢すと、話を切り出した。 「弟は新薬開発よりも今後は後発医薬品の製造に注力して最終的には研究員の数を半数に減らすという指針を示している。」 「な、」 思わずまたテーブルに身を乗り出していた。 それは、それくらい僕にとっては許し難い事だった。 「国内最大手が研究を止めたら、間違いなく日本の医療は後退する!新薬を待ち望んでる人達が世界中にどれだけいると思ってるの!」 「その通りだ。だが、近年著しい結果を出せていないのもまた事実。……会社を守り繁栄させるのも経営者としての責務だからな。」 重く低く落とされた言葉に、僕は何も言い返せなかった。 部外者が口を出していいことじゃない。つらいのはこの人だ。 だけど、こんな、こんなことって、 「翡翠(ひすい)、薬学部なんだってさ。」 「……そうか。」 小さく息を吐く緋丹さんを前に、僕はテーブルの下でぎゅっと拳を握りしめる。 とんでもない話を聞いてしまった。でも、聞いたからといって僕には何も出来ることがない。なにも、 「……あの、緋丹さんのお好きな食べ物ってなんですか?」 重く静まり返った空気の中で、突然父さんの穏やかな声が灯る。 緋丹さんの蒼穹の双眸が、パチリと瞬いた。 「は?……いや、特に思いつくものが、」 「でしたら、お肉とお魚ならどちらがお好きです?」 「…………しいていえば、魚、か?」 困惑する緋丹さんに父さんは穏やかな笑みを向ける。 「僕は経営のことはわからないし、翡翠みたいにお薬の知識があるわけでもないのですが……それでも何か、こんな僕でも力になりたいから。だから、お好きなものを作って応援しますね。」 「父さん、」 困惑にポカンと開かれていた緋丹さんの口元が、うっすらと弧を描いた。 「そうか。……それは、助かるな。」 その蒼穹がどこか嬉しそうに煌めいたように見えたのは、僕の気のせいだろうか。 やっぱり、父さんはすごいな。色んな意味で。 うん、でもそうか。そんな事でもいいんだ。 「僕も手伝う。」 「うん、ありがとう。」 父さんと顔を見合わせて笑い合う。 都心から離れた、隣県の築三十年超えのおんぼろアパート。ここで隣りになったのもなにかの縁かもしれない。 日本の医療の未来なんて、いち学生の僕にはどうしようもできないけれど、明日の晩御飯のメニューくらいなら、考えて、その手で作ることはできるから。 「まぁ、色々大変そうだし晩御飯くらいなら…」 「あ、緋丹さんと緋葉さんは、朝食はパン派ですか?ご飯派ですか?」 「「「え、」」」 父さんの言葉でほっこりしかけていた空気が、父さんの一言で凍りついた。 緋葉さんも緋丹さんも蒼い瞳をまん丸に見開いて父さんを注視する。 これは、もしかしなくとも。 「父さん、ひょっとして……晩御飯と朝食と、毎日二食も作るつもりなの?」 「え?まさか。ちゃんと三食作るつもりだよ。」 僕の言葉に父さんはきょとんと瞳を瞬かせ、何故だか胸を張って答える。 あ、これもう決定事項だ。 「いやいやいや、奏川(かながわ)教授にそこまで迷惑かけられないですって。」 「ああ。その、さすがにそこまでは、」 「美味しいご飯、期待しててくださいね!」 二人に向けて胸の前でぐっと両拳を握りしめ、やる気をみなぎらせる父さん。 「……二人とも、無駄だよ。こうなると誰にも止められないから。」 キラキラと瞳を輝かせる父さんの隣で、僕は深い深いため息をつくしかなかった。 緋丹さんと緋葉から向けられる視線に同情の色が混ざっているのは気のせいだと思いたい。 人様の家に上がり込んで三食作るって……それはもう、果たして隣人と呼べるのか。 僕の疑問に答えてくれる人は、当然の事ながらどこにもいなかった。
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