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第21話
「はい、大きく息を吸って。……吐いて。」
先生の指示に従って、大きく深呼吸。
お昼を食べて図書館で時間めいっぱい本に囲まれた後は、病院での定期検診。血液検査、心電図検査、心エコー検査と長時間にわたる検診の最後は、いつも通り主治医の先生の問診だ。
「……うん、綺麗な音だね。今年も問題なしだよ。」
先生が外した聴診器を胸ポケットに収めるのを見ながら、僕はたくしあげていたシャツを綺麗に整え直した。
おつかれさま、と診察室に落とされる穏やかな声。緩くウェーブのかかった髪を耳にかけ、僕のカルテにペンを走らせるその横顔をこうして眺めるのも、もう何度目だろう。
ここ、「めぐみ病院」の医院長であり、僕の主治医である牧之瀬冬馬 先生。実は僕の父である奏川温人 とは同い歳の四十一歳、同じ大学出身らしい。牧之瀬先生の方が幼く見えるのは、眼鏡の下にある大きな黒目がちの瞳のせいかもしれない。
二人は父さんが大学院に進み、牧之瀬先生が医学部を卒業する六年の間同じ読書サークルにいたらしく、卒業後も連絡を取りあったり年に一度の僕の定期検診には必ず顔を合わせている友人同士だ。
僕の心臓の手術はここではない大きな総合病院で行われたらしいのだけれど、継続的に、より細かに診てもらえるようにと術後はずっとこの病院でお世話になっている。それこそ牧之瀬先生のお父さんが医院長だった時代から、ずっとだ。
「それにしても、温人がついてこないなんて初めての事だよね?……何かあったのかい?」
「あー、いえ。今日はちょっと……人助けをしていて。」
正直に答えれば、カルテを書き終えた牧之瀬先生はぷ、とふきだした。
温人らしいなと肩を震わせる様子に、僕は恥ずかしいやら、申し訳ないやら。
「ふ、くくっ。そうか、受付の子から今日はお友達と来てるみたいだって聞いてたから何でだろうとは思ってたけど。くくっ、」
友人だけあって、牧之瀬先生は奏川温人という人間をよくわかっている。誰彼構わず必要以上に首を突っ込み世話を焼いてしまう父さんの姿が、先生には容易に想像出来たのだろう。
「検査結果気になってるだろうから、僕からも温人に連絡しておくね。」
「ありがとうございます。」
ひとしきり笑ってから牧之瀬先生がカルテをデスクに伏せたのを見て、僕はお礼を言ってその場に立ち上がろうとしたのだけれど、
「あ、ちょっと待って。」
呼び止められて、僕は椅子へと逆戻り。
牧之瀬先生は立ち上がり、診察室の隅に置かれた小さなキャビネットを開ける。そこから小さな封筒を取り出し僕に手渡してきた。
「これ、翡翠 君に。進級祝い。」
「あ。えっと、」
思わず躊躇い手で制してしまったけれど、いいからいいからと無理やり手に握らされてしまった。
年に一度の定期検診を春のこの時期にしている為か、牧之瀬先生は毎年こうして僕に祝いの品をくれる。開けてはいないけれど、サイズからして中身も毎年恒例の図書カードなんだろう。
「翡翠君は僕にとっても息子みたいなものなんだから。」
父さんの友人である牧之瀬先生にそういわれてしまえば、ありがとうございますと受け取るしかない。
以前はお勧めの本を選んでプレゼントしてもらっていたこともあったのだけれど、……まぁ、診察に来るたびに外出ついでにと図書館や本屋で選んだ本を大量に持ち込んでいたから、荷物にならないようにと気を使ってもらっているらしい。
今回も例に漏れず診察室脇の荷物置きのカゴに大量の本が入ったエコバッグを置かれているのを見て、先生は苦笑した。
「君達はほんと、……親子だよねぇ。」
そう言って、牧之瀬先生は柔らかく笑う。
「勉強も大事だけど、身体もね。無理しないように。温人にも伝えておいて。」
「はい。……ありがとうございます。」
優しい言葉に頭を下げて、僕は今度こそ立ち上がる。
半日かけて検診を受けていたから、緋葉 はきっと暇を持て余しているに違いない。
いつもなら先生と父さんと世間話という名の最近読んだお勧めの本について語り合ったりを看護師さんに止められるまでしていたりするんだけど、今日は父さんが不在ということもあるし、なにより緋葉をずっと待たせてしまってるのが気がかりで、僕は失礼しますと最後に一礼してから足早に診察室を後にした。
「翡翠君……また、来年。」
そんな僕の背中にかけられた寂しそうな声には気付かずに。
診察室を出て待合室へ。
腕時計を確認すれば、病院に来てから既に三時間近い時間が経過してしまっている。検査に時間がかかることは説明していたけれど、緋葉は本気でどこにも行かず待ってくれているのだろうか。
そう考えると、自然と早足になってしまっていた。
診察室の並ぶ廊下を待合室へと真っ直ぐに進む。受付にかるく会釈してから待合室を緋葉を探すべく振り返ったのだけれど、
「あははっ、ひよう兄ちゃんへたくそー。」
「ひようお兄ちゃん、早くつづきー!」
探すまでもなく待合室の隅から聞こえてきた緋葉の名前。
見ればなにやら隅のキッズスペースに子供達が集まっていた。子供達が囲んでいるのは金糸に近い蜂蜜色。
「なんでおばーさんの耳はロバの……あ、じゃねぇや、えっと、そんなに大きいの?……ひっひっひ、それはねぇお前の声をよく聞くためだよ。」
緋葉が絵本片手に不気味な裏声で話を読み進めるたびに、子供達から起こる大爆笑。
保護者なのかそんな様子を遠巻きに見つめる大人達の顔にも笑顔が浮かんでいる。
「おばあさんのお口はどうしてそんなに…」
「ちがうよぉ、手が大きいの?が先ぃ。」
「え?あ、マジだ。えー、お口の話は置いといて、おばあさんはどうしてそんなに大きな手なの?……ひっひっひ、それはねぇ、……あれ、なんでだっけ。」
ど、と沸き起こる笑いに、僕は思わずこめかみを抑えてしまっていた。
赤ずきんって、コメディだったっけ。
小さな子供達に読み聞かせ……というより間違いを正され教えてもらいながら読み進める緋葉。
退屈すぎてイビキかいて寝てたりしてないだろうかと心配していたのだけれど。どうやら緋葉は違う意味で大人しく待っていてはくれなかったらしい。
「それはねぇ……お前を食べるためだ、ガォーー!」
『キャーーー!』
それはライオンなのか狼なのか。
明らかに間違った鳴き声で笑いながら吠える緋葉に、巻き起こる大爆笑。気がつけば、僕もつられて笑ってしまっていた。
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