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第23話

ぐ、と振り上げられた拳が振り下ろされる前に、僕は咄嗟に緋葉(ひよう)の腕を掴んでいた。 「ちょっと、何してんの!?」 わけがわからない。なんで、こんな事になっている?振り上げられた拳は止められたけど、緋葉は牧之瀬(まきのせ)先生の胸ぐらを掴みあげたまま。先生は抵抗することなくただ呆然と緋葉の顔を見つめていた。 「き、みは……っ、あの時の、」 「てめぇ、どの面下げてここにいんだよ!」 再び振り上げられようとした拳を、僕は必死に押さえ込む。 「っ、緋葉!」 「離せよっ!」 「嫌だ!」 絶対に離すもんか。どんな理由があろうと暴力なんて許されるわけがない。 緋葉にそんなことさせたくない。 振り払おうとする緋葉に必死にしがみつく。 「なんでこいつを庇うんだよ!」 「なんで牧之瀬先生を殴らなきゃいけないんだよ!」 「っ!」 ぐ、と緋葉が口をつぐみ、歯を食いしばる。 苦しそうに眉間に皺を寄せ、怒りに震える緋葉は、けれど、何も言わなかった。 牧之瀬先生の胸ぐらを掴んでいたその手で、緋葉は先生を突き飛ばす。 「っ、」 そのまま後ろに倒れた先生は、衝撃でズレた眼鏡をかけ直すこともせず、ただ呆然と緋葉を見上げていた。 そんな先生を、緋葉はぎ、と睨みつける。 「わけわかんねぇよ。……けどな、これだけはわかる。てめぇは約束を守らなかった。」 ビクリと牧之瀬先生が肩を震わせた。 「……っ、すまない、君の言う通りだ。」 「謝る相手は俺じゃねぇだろ!」 「ああ。だけど僕には……その資格すらないんだ。」 うなだれ、声を震わせる牧之瀬先生に緋葉はくそっ、と吐き捨てた。 怒りを抑えるようにギュッと強く握りしめられたその手が、ふいに僕の手を掴む。 「帰るぞ。」 そのまま思いっきり強く手を引かれた。 「ちょ、ちょっと待って、」 「いいから帰んぞ!」 緋葉は僕の抵抗なんてものともしない。強引に引き摺られながら背後を振り返れば、牧之瀬先生は地べたに崩れ落ちたまま、去りゆく僕らを見つめていた。 その顔が泣きそうに見えたのは気のせいだろうか。 確認しようにも緋葉は無理やり僕をバイクに乗せ、そのまま走り出してしまった。 「っ、ねぇ緋葉!なんであんな事したの!」 「……、」 「先生と知り合いなの!?ねぇ!」 しがみつくその背を叩き声を上げても、緋葉は何も返してくれない。 どうして。なんで。 聞きたいことは山のようにある。何一つ理解出来ていない。 だけど、緋葉が僕に答えてくれることはない。 いつだってヘラヘラ明るくて、ガサツだけど優しくて、僕のことをずっと探してたくらい大切に思ってくれていて。 それなのに、こんな近寄り難い緋葉初めて見た。 僕の言葉に答えてくれない。あんなに優しい牧之瀬先生に暴力なんて。 なんで。 わからないことだらけで胸の奥が苦しい。 僕は緋葉の背を叩いていたその手で、自らの胸を服の上からぎゅっと握りしめた。 怖いと、初めて思ったんだ。そして、その事実にショックを受けている自分がいた。 ただ隣に住んでるだけ。ただ、それだけの関係だったはずなのに。 「……緋葉、」 小さく呼んだその声は、バイクのエンジンと風の音にかき消された。 バイクはやがてアパートの前に停まり、緋葉は無言のままエンジンを切った。 僕も何も言わずにバイクを降りたけれど、僕と目も合わせようともしない緋葉に僕の我慢はついに限界にたっしてしまって、気がつけばヘルメットを投げつけるように返していた。 「ちょっと、いい加減にしなよ!」 思わず声を荒げた僕に、緋葉がようやく口を開く。 「……何がだよ。」 「何が、って……聞きたいのは僕の方だ!なんで何も教えてくれないんだよ!」 僕の怒りに緋葉は一瞬蒼穹を宿した瞳を見開いて固まった。 けれど、その開きかけた口元はギュッと固く閉ざされる。 「……翡翠(ひすい)には関係ねぇよ。」 「そんなわけないだろ!」 咄嗟に緋葉の胸ぐらを掴んでしまっていた。 「無関係になりたくないから言ってるんだよ!」 なんなんだ、 これだけこっちに踏み込んできておいて肝心なところで突き放す。 僕は多家良緋葉にとってのなんだって言うんだ!緋葉は僕にとってのなんだって言うんだ! わからない。 でもわからないままではいたくないんだ。 「緋葉が何にそんなに苦しんでいるのか、何にそんなに怒りを感じているのか。僕は知りたいんだよ!」 「っ、くそっ!」 一歩詰めよれば、苦しげに顔を歪めた緋葉が胸ぐらを掴んでいた僕の手を振り払う。 「言えねぇんだよ!!」 空気を切り裂くように響いたそれは、悲鳴のように僕には聞こえた。 歪められ、悲しげに揺れる蒼穹の瞳を前に、僕はかける言葉を見失ってしまった。 何も言ってくれない緋葉に怒りを感じているのは事実だ。 けど、だけど、今緋葉にこんな顔をさせているのは、多分僕なんだ。 何を言えば。どうすれば。 張りつめた空気の中で、不意に緋葉のポケットの中が震える。 着信音ではなく、短く振動するバイブの音。緋葉はその音に反応し、無言のままスマホを取り出した。 僕から逃げるように視線を手元の画面に落として二、三操作をした緋葉はそれをまたジャケットのポケットにしまい込む。 再び顔を上げた緋葉は、けれど僕とは微妙に視線を合わせてはくれなかった。 「……バイトで欠員出たってさ。帰りは遅くなるって、親父達にも伝えといてくれ。」 「え、ちょっと、」 僕の静止なんて聞きもせず、緋葉は再びヘルメットをかぶりバイクに跨る。 「…………ごめん。」 弱々しい声が耳に届いた時には、緋葉のバイクは走り出しその後ろ姿はあっという間に小さくなってしまっていた。

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