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閑話 お父さんとアドバイス

「そうだ瀧元(たきもと)、……毎日食事の世話を焼いてくれる人に礼をしようと考えているのだが、こういった場合何がいいだろうか。」 お疲れではないですか?食事はきちんとお撮りになっていますか? この身を心配してそう声をかけてくれた秘書にふと思い立って聞いてみたのだが…… 長い付き合いになる壮年の男はえ、と口を開いたままその場に固まってしまった。 取締役社長という地位をを追われる自分に代わり、誰か新体制の社と渡り合う、交渉出来る人間はいないものか。それが叶わぬのなら自分が退任するまでになんとか研究員達と役員達が対等に話せる環境を作れないものか。 弟派達の企みに気づいてから数ヶ月常に頭を悩ませていたのだが、妙案は意外なところから降ってきた。 新薬の特許の譲渡。要は本人達に上と渡り合う力を渡してしまえばいいのだ。特許の切れる数年の間、それは本人達を守る盾となり、環境を整える為の時間となる。もちろん全ての権利を移譲するわけにもいかず、力関係を保てるラインを見誤らないようにしなければならないが。 難題は山積みではあるが、これは紛れもなく一条の光だった。 こんな前代未聞の発案をしてくれたのも、法律に疎い自分に代わり専門家との橋渡しをしてくれたのも知り合って数日しかたたない隣人親子。 前世の自分はどうやら相当な徳を積んでいたらしい。この状況には本当に感謝しかなかった。 「温人(はると)、今日は助かった。……ありがとう。」 「いえいえ。僕も運転手さん付きの車に乗るなんて貴重な経験をさせていただきました。」 温人が准教授を務めている大学で、昨日の今日だというのに法学部の教授殿にお目通りが叶い、それどころか他ならぬ温人の頼みだからと全面的な協力を確約してもらい。 一日で急展開をみせた現状に、夕食を食べ終えたタイミングで再び感謝の言葉を述べていた。 息子達は都内まで出かけているためまだ帰宅していないのだが、どうやら全員が揃っていなくとも食事を共にするというルールは適応されるらしい。当たり前のようにこの102号室に帰宅し夕食の用意を始めた温人を手伝い、当たり前のように向かい合い雑談を交えながら食事をとってしまっていた。 どうやら、これがもうこの家での日常らしい。 ……秘書から渡すタイミングも重要だと力説されていたのだが、その点についてはどうやら悩む必要はないようだ。 「今日はお話がいい方向に進められたみたいでよかったですね。」 「ああ、温人のおかげだ。本当に感謝している。」 僕は何も、と謙遜する温人の言葉を遮るように席を立ち、帰り際に立ち寄り購入していたものを冷蔵庫から取り出した。 「温人、礼と言ってはなんなんだが……これを。」 「え?僕に、ですか?」 手にしたケーキボックスを開けば、中から顔を出したアップルパイのホールに、温人の瞳は大きく見開かれた。 ――いいですか、社長。宝飾品など高価なものは早すぎます。まずはスイーツです。嫌いな方はそういないはずですから。 「うわぁ、これって帰りに立ち寄っていた、あの有名なお店のアップルパイですよね。え、いいんですか?」 「礼だと言っているだろう。口に合えばいいんだが。」 「うれしいです!ありがとうございます!」 どうやら秘書の助言は正しかったようだ。さっそくいただきましょうか。と包丁を取りに席を立つ温人は鼻歌交じりで本当に嬉しそうだ。 なるほど、こういう礼なら気軽に受け取ってもらえるのか。 ならばこの先も助言の通りにすべきなのだろう。 「緋丹(ひたん)さーん、紅茶でいいですか?」 「ああ。」 礼として渡したものを自らも相伴に預るのはどうかと思うが、温人の中では食事は皆で、というルールはもう当たり前なのだろう。 わざわざ101号室まで茶葉とポットを取りに帰り手際よく紅茶を準備した温人は、茶葉を蒸らしている間に小さなホールのアップルパイを四人分に切り分け、二人分だけをオーブンに入れ温める。 おそらくティーカップがこの家にはなかったのだろう。マグカップに注がれた紅茶は、それでも香り高く、温人の腕の良さがうかがえた。 手伝う暇もなく、目の前にはあっという間に二人分のティーセット。 「はいどうぞ。」 「ああ、ありがとう。」 いただきますと手を合わせれば、フォークを手にした温人は目を輝かせながらアップルパイを一口。とたん、その瞳は丸く見開かれ、すぐに蕩けた。 「おいしい!うわぁ、こんな美味しいアップルパイ初めてです。」 嬉しそうに二口目を口にする温人を見ながら、こちらも一口。 なるほど。よくは分からないがサックリとした食感も、トロりとした林檎とカスタードのバランスも絶妙だと思う。 「……うまいな。」 「ですね。翡翠(ひすい)達もきっと喜びますよ。……自分で作るのと何が違うんだろう?そもそも林檎の品種からして違うのかも、」 思っていた以上に喜んでもらえたようで何よりだ。 さて、となれば次に言われていたことは何だったか。 ――お相手の反応がよければ、すかさず、さりげなくこう仰ってください。 「気に入ったなら……この店はレストランも併設されているから、今度二人で行ってみるか?」 アドバイス通りの言葉を告げれば、温人は一瞬キョトンとしたものの、すぐに言葉の意味を理解したのか嬉しそうに身を乗り出してきた。 「是非!このアップルパイもですけど、他のお料理も気になります。是非とも食べて研究したいです!」 「研究……して、作るつもりなのか?」 「はい!家でこの味が再現出来たらきっと翡翠も緋葉(ひよう)君も喜んでくれると思うから。お料理のレパートリーは多い方がいいですからね。」 なんとも温人らしい答えに、知らぬ間に頬が緩んでしまっていた。 何故に外に連れ出すのかと疑問だったのだが……そうか、料理の借りは料理で返せと、そういう事か。 的確なアドバイスをくれた秘書にも今度何か礼をせねばと、幸せそうにアップルパイを口に運ぶ温人を見ながらぼんやりと考えていた。 「――そういうわけだから、これはお前の分だ。」 「いや、あー……もう何から突っ込んだらいいのやら。」 アルバイト先に欠員が出たとかで夜も深い時間に帰宅した息子が夕食をとるなか、ラップをかけて保存されていたアップルパイを差し出しながら経緯を説明してやれば、返ってきたのは険しい顔と呆れのため息だった。 思わず首を傾げる。 「……何か常識外れのことをしたのだろうか。」 「いや、そういうんじゃねぇけどよ。……まぁ、二人がそれでいいならいいけど。」 ?緋葉の話は時々訳が分からない。 が、今日は緋葉にその意味を問うことははばかられた。 帰宅してからの緋葉は朝とはうってかわり、こちらの話に口を入れはするものの明らかに覇気がなく、あの翡翠君が用意してくていた夕食のカレーを前に、気まずそうに口元をへの字に曲げて先程からスプーンで皿をつついている。明らかに何かあったのだろう。 そういえば翡翠君も帰宅してこちらに顔を見せた時に、同じような気まずそうな顔をしていた。 いつもであれば声などかけずそっとしておくところなのだが……他人の苦痛を見て見ぬふりの出来ない誰かさんの顔が脳裏に浮かんで、何となく食の進まない緋葉の向かいの椅子を引いてしまっていた。 とはいえ、気落ちしている息子になんと声をかけていいのか。親子と言うには共に過ごした時間も距離も足りない自分には、いい言葉など浮かばないのだが。 「……温人の母君曰く、料理は愛なんだそうだ。」 結局口にできたのは自分のものでは無い言葉だった。 チラリと、目の前の俯いていた視線がこちらに向けられる。 「料理は愛だと教えられ、温人もまたそう教えてきたんだろう。……あの親子にとって、料理とは誰かを想い作るものなのかもしれないな。」 「……愛、」 彼らにとっては知り合ったばかりのただの隣人。 だが彼らはそんな自分たちに対し手間をかけ料理を振舞ってくれた。 今朝だって朝の短い時間に朝食をつくり、昼食のサンドイッチまで用意してくれて。 さらには前の日の夜から仕込みをしてくれて、夕飯のカレーまでこの家に残してくれた。 「積雪の家じゃ、料理なんて一切しなかったのにな。……奏川教授とたくさん練習したんだろうな。」 「何があったかは知らないが、彼はお前を疎んではいないだろうし、向けられた気持ちは無下にしてはいけないと思うぞ。」 「……そっか。そうだな。」 俯いていた顔が上げられ、緋葉は何か吹っ切れたようにスプーンを握り直し、目の前の皿のカレーを豪快に口に運び始めた。 「ん、うめぇ。」 「そう思うのなら、明日礼を言えばいい。」 「ん……まぁ、考えとく。」 ありがとな。 スプーンがカチカチと音を立てる合間に聞こえた小さな声は、自分に向けられたものだと思っていいのだろうか。 まるで親子みたいな会話だったなと考えて、そうか親子だったなと思わず苦笑した。 「あー、けどよぉ、その……親父の場合、礼の仕方はもちっと考えた方がいいぞ。」 「何がだ?」 「俺は別にいいけど……翡翠は敵に回したくねぇからな。」 テーブルの隅に置かれたアップルパイ。カレーを頬張りながらもそれを見て苦笑する緋葉の意図は、父親であるはずの自分には理解できないままだった。

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