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第26話

「まきのせ、って…」 それは、僕のよく知る、なんなら昨日聞いたばかりの名前だった。 物心ついた時からずっと僕を診てくれた、父さんの友人でもある先生の名前。 けれど目の前の人は、たしかにその名前で僕を呼んだ。 「ん?牧之瀬翡翠(まきのせひすい)君だろう?一年以上ずっと探していたからな、さすがに物覚えの悪い俺でも覚えているぞ!」 なんで、どうしてその名前が出てくるんだ。 聞き間違いなんかでこんな偶然が起こるわけがない。 だとすればこれは、 「あの……僕、奏川(かながわ)です。奏川(かながわ)翡翠(ひすい)。」 真っ白な頭でなんとか言葉を絞り出せば、うろ覚え倶楽部の面々はえ、とほとんど同時に声を上げた。 「かながわ!?うそ、だって私達…」 「そうだよね、名前は牧之瀬翡翠で間違いないって、僕ちゃんとメモとったのに…」 「なんだよー、そりゃ見つかるわけないじゃん!」 「多家良(たから)のやつ、名前からしてうろ覚えだったのかよ。」 うろ覚え倶楽部の人達……いや、多家良緋葉(たからひよう)がずっと探していたのは、奏川ではなく『牧之瀬翡翠』だった。 なん、で、 頭が真っ白になっていく。 昨日緋葉が牧之瀬先生に殴りかかろうとしたのは、 僕を探していた理由を教えてくれなかったのは、 これらはきっと偶然じゃなくて、なにか意味があるんだ。 浮かんでくる疑問の点は今はどうやったって線で繋がらない。けど、でも、 僕はなにか、重大なことを知らないでいる。 混乱する頭の中で、その事実だけはハッキリと理解できた。 「まき、じゃなかった、奏川君、どうしたんだ?」 心配してくれたのだろう黒氏(くろうじ)さんの言葉も、僕にはもう届いていなかった。 話を、聞かなくちゃ。 でも多分、それは緋葉にじゃない。 緋葉もだけど、緋葉より先に、今僕には話を聞かなきゃいけない人がいるんじゃないか? そう答えを出すより先に、僕は座っていたパイプ椅子を跳ね飛ばし、勢いよくその場に立ち上がっていた。 「すみません、僕帰ります!」 「へ、あ、おい!まき、じゃなかった奏川君!!」 とにかく帰らなきゃ。 呼び止める声も無視して、僕は部屋を飛び出していた。 階段を駆け下りて、中央棟を抜けて真っ直ぐ駅へ。激しい運動を禁止されている身体はすぐに悲鳴をあげはじめたけど、そんなこと構いやしなかった。 帰らなきゃ。聞かなきゃ。 「っ、……父さん、」 牧之瀬先生とは大学時代からの友人だという父さん。 早くに母さんを亡くして、男手一つで僕を育ててくれた父さん。 僕以上の本好きで、常識外れなお人好しの父さん。 今あるたくさんの疑問を線で結ぶためには、僕は聞かなきゃいけないんだ。 緋葉が隠し通そうとしているもの。その答えを持っているのは、きっと父さんだ。 全速力で大学を出て、なんとか電車に滑り込んだ。わずか二駅の距離だ。乱れた呼吸を整える間もなく最寄り駅について、僕はまた家まで全力で走った。 駅から僕達の住む青葉荘まで徒歩五分。あっという間にたどり着いて僕は101号室の扉を勢いよく開けたのだけれど、 「父さん!」 電気もついていない、人気のないリビングに僕の声が響く。そこに、父さんの姿はなかった。 今日は午前中だけ大学に顔を出すと言っていた。時刻的には既に帰ってきているはずだ。なにより玄関に鍵がかかっていなかったことを考えれば、答えは一つしかない。 肺に空気を入れて乱れた呼吸を整える。 落ち着け。もしかするとただの偶然や勘違いかもしれない。 ざわざわと落ち着かない心臓をなんとか鎮めて僕は家を出て隣の102号室へ。 少しは冷静になったつもりだったけれど、インターフォンを押さなかったことに玄関を開けてから気づいてしまった。 「あの、ごめんくだ…」 代わりに声をかけようとしたのだけれど、 『どうして、っ、どうしてなんですか!!』 玄関を開けてすぐに奥から聞こえてきてのは、父さんの叫びにも近い声だった。

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