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閑話 お父さんと隠し事

それは、数時間前の早朝の事だった。 朝起きて、隣人二人が家に来る前にとりあえず寝間着からスラックスとシャツに着替えを済ませて。そうして部屋のドアを開けた瞬間目に飛び込んできたのはキッチンであーだのうーだのと言いながら何やら作業をしているらしい息子の後ろ姿だった。 「……何をしているんだ?」 いつもならギリギリまで寝ている人間が珍しいこともあるものだ。つい気になって声をかけてしまったのだが、緋葉(ひよう)は不機嫌そうにこちらを振り返る。 「あ?見りゃわかんだろ。おにぎり作ってんだよ。」 「おにぎり……」 たしかにそう言われればそう見えなくもない。緋葉の手元に置かれている大きな平皿には大きさも形も不揃いな白米の塊がいくつか。明らかに作り慣れていない緋葉の手は米粒にまみれていた。 「……作ってもらうばっかじゃな。まぁ、こんくらいしか作れないけど。」 なるほど、これは息子なりの思いの形ということか。隣人親子……いや、おそらくは奏川翡翠(かながわひすい)への感謝と謝罪。 そう理解したと同時に、部屋に置きっぱなしになっていた借り物の本の存在を思い出しそのまま部屋へと逆戻り。流し読みした記憶を頼りに目次を確認すれば、そこには今の自分達に必要な項目が存在していた。 キッチンに戻り試行錯誤する息子の前にページを開き、立てかけてやる。 「お、何だこれ。いいもの持ってんじゃん。」 「温人(はると)からの借り物だ。」 はじめてのお料理と題されたその本は自炊しろという隣人からの無言の圧のように感じていた。たしかに学習はすべきだろうと借りたその日にページを捲り、サラダぐらいなら作れるのではないかと実践しようとして『彩りにゆで卵を切って添えるといいでしょう』の文言だけで作り方の書かれていなかったゆで卵に苦心し結果破裂させたのは数日前の苦い記憶だ。 初心者向けの本すら理解できなかった自分とは違い、息子はどうやら隣人の善意を上手く活用できそうだった。 「あー、なるほど、手に塩つけんのか。……硬めのご飯がいいって、もう炊いちまったし。」 料理本から知識を得て再び試行錯誤するその後ろ姿に、きがつけば自然にシャツの袖をまくり上げていた。 「どうやって作るものなんだ?」 チラリと物珍しげな蒼い瞳がこちらを見上げ、それはまたすぐに手元の白米の塊に落とされる。 「まず手ぇ洗ってこいよ。雑菌付いたもん食わせる気か。」 「ああ、なるほど。」 指示通りにしっかりと手を洗い、見よう見まねで手のひらにご飯と具材を乗せ握ってはみるものの……なんとか形にしようとすればするほど手のひらに米粒がまとわりつき、まとまらない。 「もっと手に水つけてから握ってみ?」 「なるほど。それで、……これはどうすれば三角形になるんだ?」 「それは俺もわかんねぇ。」 かるく握って形を三角に整えますという本の文言は達成できそうになかったが、緋葉からコツを聞きつつ幾度か繰り返せば白米の塊らしきものは作れた気がする。 二人してその難しさに唸りつつ、なんとか二枚の大皿の上に並べられた、歪なおにぎり。 自らが作り出したものを目の前に二人同時にこれでいいのかと疑問に首をかしげ、そのタイミングの良さに思わず顔を見合せ苦笑した。 「まあ、初めてにしちゃ上出来ってことでいいんじゃね?……ってわけで、三人で食っといてくれな。」 「は?」 こちらの疑問の声に答えることなく、皿にラップをかけた緋葉はそこから一つだけを手に取り、片付けをしながら器用におにぎりにかぶりつく。あと数十分後には隣人親子が朝食の為にここを訪ねてくるはずなのに。 「俺はちょっと探し物とサークルの集まり。今日はもう出るから、あと頼む。」 「……、」 思わず睨むように視線をぶつけてしまっていた。こちらの無言の視線の意味はおそらくは伝わったのだろうが、緋葉は気まずげに視線を反らせただけ。 あっという間におにぎりを食べ終え、指についた米粒をペロリと舐めるその横顔に思わず嘆息していた。 「お前から渡してやった方が彼も喜ぶだろうに。」 「いや……顔合わせてもさ、俺、何も話してやれないし。」 二人の事情を推し量るには、その一言で十分だった。 喧嘩でもしたのかと思っていたが、どうやらこれはもっと深刻なもののようだ。解決のしようがない、行き場のない葛藤を息子は抱えている。 「……辛いなら、話してもいいのではないか?」 拳を握りしめ俯く息子の姿はあまりに痛ましくて、ついそう口にしていた。 馬鹿言え、とすぐに返ってくる否定の言葉。 「あいつ、絶対何も覚えてないし知らねぇんだよ。……翡翠や奏川教授傷つけてまでするような話なんて、俺にはねぇよ。」 おそらく、緋葉の言葉は正しい。だが、それ故に緋葉自身は何も言ってやれない葛藤を抱え、何よりも大切にしていた存在に責められている。 自分にも無関係な話ではないのだが、何もしてやれない。無力さに歯噛みすれば、眉間に皺を寄せ苦悶の表情を浮かべながらも、緋葉は気にすんなと笑った。 「話はしてやれないからさ、まあ俺も、誰かさんみたいに詫びの品でも探してご機嫌とることにするわ。」 材料と道具と米粒が散乱していたキッチンを手際よく片付けた緋葉は、そのまま本当に外出するつもりのようで自室へと戻っていった。……が、何を思いたったのか足を止め、ドアの向こうからひょっこりとこちらに顔をのぞかせる。 「なぁ、そういや積雪の家から持ってきた荷物の中に絵本とかなかったか?」 「絵本?」 「そ。ライオン出てくるやつ。」 突然の話題に面食らったが、おそらくこれは先程までの話題と何か関係のあるものなのだろう。十数年も前の事に記憶をめぐらせるが、答えは考えるまでもなかった。 「……絵本どころか何も。ただ家を出る者に渡すことになっているというアルバムだけは譲り受けてお前に渡したはずだが。」 「そっか、アルバム!もしかしたら写ってっかも!」 質問の意味を問う間もなく緋葉は自室へと消え、ガチャガチャと物をひっくり返す音が壁越しに聞こえてきた。 何事かと首を傾げていれば、部屋から聞こえてきた叫び声。 『思い出したーー!!!これだ、これ!!』 バタンッ!と勢いよくドアが開いたかと思えば、先程とは打って変わって嬉しそうに顔を綻ばせた緋葉が飛び込んできた。 「サンキュー、親父!これで見つけられっかも!」 「は?あ、ああ。それはよかった。」 「んじゃ、行ってくる!」 「おい!…………どこへだ。」 結局まともな会話という会話も出来ぬまま、訳も分からぬ内に息子は慌ただしく家を飛び出して行ってしまった。 「それで……緋葉君は結局お夕飯には戻ってくるんでしょうか?」 「……さあ、どうだろうな。」 早朝の気忙しい出来事から数時間。午前中に書類の手続き等で社に顔を出してから、会話を聞かれぬようにとあえて外部の会議スペースを借りて信頼のおける秘書や研究施設の代表達と今後の話をまとめてからこの青葉荘(あおばそう)に帰宅すれば、同じく午前中だけ大学に顔を出していたらしい温人と鉢合わせた。 お疲れ様です。お腹すいていませんか?といつものように心遣いを発揮した温人は自宅の101号室ではなくこの102号室に来て軽食を用意してくれた。 お仕事の合間にどうぞと出されたのは、大きめのスープカップに入った琥珀色の玉ねぎとベーコンのスープに、ラップで包まれたおにぎり。こちらは刻んだ紫蘇とごまを混ぜ合わせたご飯が、今朝のお粗末なおにぎりとは違い綺麗に三角形に握られていた。 どちらもデスクワークをしながら片手で食べられるようにと気を配ってくれていて、ダイニングテーブルにパソコンと書類を広げながらありがたく頂戴することにした。 そうして今、ご丁寧に食後の緑茶まで入れてもらっている。 ありがとうと湯呑みを受け取れば、温人は嬉しそうに目を細める。けれど、いつもと違いそれは少し影のある笑みだった。 「あの、……翡翠と緋葉君、何かあったんでしょうか?」 昨日からの息子達の様子に、やはり温人も何かを感じ取っていたのだろう。 独り言のように落とされた問いには、さあなと答えるしかなかった。 「お夕飯は、みんなで食べられるといいんですけど。」 「朝も昼も家で食事ができなかったんだ、美味いものが食べたいと帰ってくるだろう。」 「だといいんですけど、どうしても気になってしまって。」 力無く笑うその瞳が、じ、とこちらを見つめる。 「あの、……緋丹(ひたん)さんは何かご存知ないですか?」 「っ、いや、何も……」 思わず息を飲んでいた。 言えるわけがない。それは、息子が苦しんでまで守ろうとしているものだ。 だが、純粋に二人を心配するその視線は真っ直ぐに受けるには重すぎて、耐えきれず視線を反らせてしまっていた。 何とか、話題を変えなければ。 デスクワークに戻るふりをして反らせた視線を手元のパソコンと書類へ。 「……お、」 「どうかしましたか?」 「あ、いや、書類を一つ部屋に置いてきてしまったようだ。」 何か話題をと思ったが、どうやら本当に必要な書類が見当たらない。席を立とうとしたところで、温人に制されてしまった。 「僕が取ってきますよ。緋丹さんはお仕事続けててください。 「あ、ああ、助かる。デスクの上に茶封筒があるはずだ。」 「はい。」 これで、話しを切り上げられただろうか。 部屋を出ていくその後ろ姿に、忘れてくれと祈るしかなかった。 息子の苦しみをわかっているのに、親として無言を貫くのは間違っているのかもしれない。けれど、これは緋葉の言う通り二人を傷つけることになる。 あの穏やかな笑みが歪むところは見たくないと、そう思ってしまった自分は、やはり親として失格なのだろう。 キィ、とドアが小さく音を立てて開いた。 振り返れば、そこには部屋から戻ってきた温人が呆然とそこに立ち尽くしていた。 ……なんだ? 何か様子がおかしい。 「……温人?」 声をかければ、焦点のあっていなかったその身体がビクリと肩をふるわせた。 「あ、の……」 震える声。まるで自分を守るようにギュッと胸元で抱きしめるように握っていたのは、よく見れば頼んでいた書類ではなく、白い革製の表紙の……アルバム。 気づいた瞬間、その場に立ち上がっていた。 音を立てて血の気が引いていく。 そうだ、今朝緋葉が。 そうか、どちらが自室なのか、温人は知らなかったはず。間違って緋葉の部屋に入って…… ああ、これは、最悪の事態が起こったのか。 「……ど、して、」 「はると、」 なんと答える。どう説明する。 思考が真っ白に塗りつぶされて、言葉が出てこない。 それは悲しみなのか、驚愕なのか、怒りなのか。温人は唇を震わせ、ゆっくりとこちらに歩み寄った。 「ど、して、この家にこれがあるんですか?」 まるで泣くのを耐えるかのようにアルバムを抱きしめ俯いていたその顔が、ぎ、と上げられる。 「どうして、っ、どうしてなんですか!!」 初めて見る表情。声。 悲鳴のような叫びに、けれどこちらはどうする事も、何を言うこともできなかった。

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