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閑話 お父さんと息子
想定していた中で最も最悪の状況。
心づもりもさせてやれぬまま、唐突に真実を突きつけてしまった。
数分前の幾度かあった選択をやり直したいと願ったところでどうしようもない。
知ってしまった事実を取り消すことはもう不可能なのだ。
「あ、……ひす、い、あの、」
自らの失言に血の気を失い震える温人 。縋るように伸ばした手は、けれど息子へと届くことはなかった。
温人から逃げるように半歩下がった彼はそのままこちらに背を向け外へと駆け出していく。
「っ、翡翠 !!」
温人の声も届いていない。
ショックから床に崩れ落ちる温人の肩を自らも膝をつき咄嗟に支えた。
どうする。どうしたらいい。
「っ、ひ、翡翠!」
その瞳に涙を滲ませ、呼吸を乱し、それでも温人は追いすがろうと半狂乱に翡翠と名を叫びながら床を這い手を伸ばす。
駄目だ、この状況で追いかけるなどと、させられるわけがない。
肩を支える手に力を込めた。
「っ、離して、」
「無理だ。温人、」
「嫌です!翡翠が、ひすいがっ!」
「落ち着け!」
暴れる温人を押さえつける。
そこにガチャリと扉が開き、タイミングよく姿を現した緋葉 。
おそらく翡翠とすれ違ったのだろう。状況がわからずぽかんと首を傾げるその姿に思わず叫んでしまっていた。
「なに、どした?」
「っ、知られた!」
「は?」
「いいから追え!!」
このままではまずい。どちらのこともそのままにはしておけない。
自分の言葉をどこまで理解できたかはわからなかったが、顔色を変えた緋葉はくそっと吐き捨て慌てて踵を返した。
あっという間に姿を消した息子に後を託して、こちらはなおも必死でもがく温人の肩を揺らす。
「落ち着け!そんな状態で外になど、」
「っ、緋丹 さんっ、離して!離してください!翡翠がっ、」
今にも泣き出さんと瞳を腫らし、顔からは血の気が引いている。完全に錯乱している温人をなんとしてでも止めなければ。
「温人!」
離してくれと掴まれた腕を払い落とし、それでもなおもがくその身体を、気がつけば思いきり抱きしめていた。
ビクリと、腕の中で温人の身体が跳ねる。
「落ち着け!正気を保てない今の状態で外に出て事故にでもあえば、悲しむのは翡翠君だ!」
「っ、」
その言葉にようやく抵抗を止めた温人は、うぅっと呻き声をあげてしがみついてきた。
抱きしめていた腕を背にまわして撫ぜてやれば、細い肩が震える。
「っ、僕が、ずっと、っそを、ついて…っ、もう、戻ってきてくれなかったら、っくはっ僕は、」
「大丈夫だ、緋葉が追いかけた。必ず連れ帰ってくる。」
「…ぅ、あ゛ああっ、うあっ、」
本格的に泣き崩れたその身体を支え、ソファへと身体を移す。
俯き震える温人の姿はまるで小さな子供のようで、たまらずまたその身体を抱きしめた。
大丈夫だ。心配いらない。そう繰り返しながら、温人が落ち着くまでの間ずっとその背を撫ぜながら涙とともに吐き出される感情を受け止めていた。
「あの……もう、大丈夫です。」
奏川翡翠 が家を飛び出して数十分。ようやく聞こえたこの言葉に、抱きしめていた腕の力をなさそうに弱めた。
肩に埋められていた顔が申し訳離れていく。
「……ご迷惑、おかけしました。」
今にも消えてしまいそうな細い声。泣き腫らした瞼がなんとも痛々しい。
そうさせてしまった原因の一端が自分にもあると思うと、自然と頭を垂れていた。
「……すまなかった。もっと段階を踏んで、いや、温人にだけはきちんと話しておけばよかったんだ。」
「いいえ。……悪いのは、翡翠に嘘をついていた僕ですから。」
俯く温人になんと声をかけたものか。言葉を探しあぐねていると、温人は意を決したようにこちらを真っ直ぐに見つめる。
「あの、……緋丹さんも緋葉君も、翡翠が孤児であるとご存知だったんですね?」
震えながらも発された疑問に、ああ、と頷いた。
もう、隠す必要もない。この男には全てを知る権利がある。
「緋葉はずっと積雪 の家で共に過ごした牧之瀬翡翠 という名の人間を探していた。」
「っ、……緋葉君は、覚えていたんですね。」
ビクリと温人の肩が震える。
「ああ。私が積雪の家から緋葉を引き取ったのは、緋葉が五歳の時だ。多家良の家にくれば最悪の場合命を狙われる可能性もあると伝えたが、あいつはそれでも連れて出ろと私に言った。……翡翠君を探すために。」
緋葉がなぜこれほどまでに一人の人間に固執しているのか、それは自分にもわからない。けれど、緋葉は多家良の相続や後継者争いに巻き込まれることになったとしても、積雪の家から出ることを願った。家にいる人間から外に出た人間に連絡を取ることが許されていなかったからだ。
家から連絡がくれば、懐かしんで戻りたくなるかもしれない。新しい生活の為に、積雪の家は、そこにいる人間は「過去」にならなければならない。それがあの場所での決め事だった。
だから、家を出て翡翠を探す。息子はそれを望み、今までずっと実行してきたのだ。
「っ、……そんなにも翡翠のことを思ってくれていたのに、僕のせいで…」
隠してきた事実は、目の前の男を責め立てるものに他ならない。
申し訳ありませんと肩を震わせ俯く姿は見ていられず、気がつけばソファから立ち上がっていた。
「……少し待っていろ。」
首を傾げる温人に背を向けキッチンへ。
調理台には丁度よく今朝世話になった初心者向けの料理本が置かれたままになっていた。
必要なページを探し出し、壁に立てかける。
これくらいなら、おそらくは自分にも作れるだろう。
棚からマグカップを取り出し、冷蔵庫に入れられていた牛乳を注ぐ。そこに蜂蜜をティースプーン一杯。あとは電子レンジで温めるだけ。
卵のように爆発することなくきちんと温められたホットミルクは、温人に手渡すとほわりと柔らかな湯気をあげた。
「落ち着きたい時の定番、なんだろう?」
「……ありがとうございます。いただきます。」
少し躊躇った後、両手を暖めるようにマグカップを包み込み口元に持っていくその姿に安堵する。
その瞳が僅かに和らいだのを確認して、また温人の隣に腰を下ろした。
カップを傾けるその横顔を、真っ直ぐ見つめる。
「借りた料理本に一通り目を通した。……どのページにも書き込みや付箋があり、使い込まれていたな。」
僕も翡翠も最初はこの本からだった。本を渡されたあの時、温人はそう言った。その言葉通り、本のどのページを捲っても筆跡の違う二人分の文字が各所に書き込まれていた。
達筆な文字の傍に、子供の稚拙な文字が寄り添うように並んでいる。
料理は愛。
その意味が、あの本を読めばわかる。
幼い文字が、誰を思いあの本に書き込まれていったのか、そんなもの火を見るより明らかだった。
「緋葉は、温人が翡翠君の父親だと、君達が親子であると感じたからこそ何も言うまいと決め、私もそれに倣った。」
カップを傾けていた手がピタリと止まり、おずおずと顔が上げられる。
縋るような瞳が求める言葉がなんなであるのかはわからないが、二人の間にある確固たるものは、知り合って数日しかたたない自分にすらわかるのだ。不安に思う事など何一つない。
「なぜあの子が奏川翡翠なのか私にはわからないが、君達の間には確かな愛情があるだろう。息子を信じて話をすればいい。」
「っ、僕は、僕は…っ、」
肩を震わせるその手から、そっとマグカップを抜き取りローテーブルへ置く。
大丈夫だと、言葉の代わりにその背中をさすってやれば、温人の瞳から涙が一筋こぼれ落ちた。
後頭部にそっと手を回せば、こちらの肩に顔を埋めてくる。
「ひ、すいが、いなくなったら、僕は、僕はっ、」
「大丈夫だ。そんな事にはならない。」
肩に顔を埋め嗚咽を必死に耐える温人から、視線はキッチン脇の扉へ。
「……そうだろう?」
先刻から感じていた扉の向こうの気配へ問えば、一瞬の間の後、返事の代わりにゆっくりとその戸が開かれ温人の大事な一人息子が姿を現した。
その肩を私の息子に支えられながら。
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