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第29話 隣人さんとお父さん

緋葉(ひよう)に手を引かれ、戻ってきた青葉荘(あおばそう)。102号室のドアに手をかけ、けれど開くことを躊躇う。 真実を知る。それは今までが偽りだったと認めること。そして事実を全て受け入れなければいけないということ。 僕はどうして奏川翡翠(かながわひすい)なのか。もし父さんの口から同情や哀れみなんて言葉が出てきたら、僕は…… ドアノブを握ったままだった僕の手に、大きな手が重ねられた。 「大丈夫だって。」 すぐ背後で落とされた優しい声に振り返れば、ニカッと緋葉の満面の笑み。 根拠なんて全くない言葉に、けれど僕は不思議と安心して小さく頷いた。 グッとノブを握る力を込めて扉を開く。その瞬間、リビングの奥から声が飛び込んできた。 『――君達の間には確かな愛情があるだろう。息子を信じて話をすればいい。』 『っ、僕は、僕は…っ、』 聞こえた父さんの声は震えていて、今にも泣きそうな、いや実際泣いているのかもしれない。 思わず背後の緋葉を振り返れば、行ってやれよ、と蒼穹を映した瞳が細められた。 僕はお邪魔しますと声をかけることすら忘れて102号室に上がり込み、そっとリビングへ続くドアへ手をかける。カタカタと震える手は緋葉がそっと両肩を支えてくれれば、嘘みたいに落ち着いた。 「ひ、すいが、いなくなったら、僕は、僕はっ、」 僅かに開いた扉の隙間から見えた光景に、僕は思わず手を止める。 リビングのソファーで緋丹(ひたん)さんの肩に顔を埋め、まるで子供のように泣きじゃくる父さん。 いつだって温和な笑みの耐えないあの人がこんなにも取り乱して泣くなんて。こんなの、初めて見た。 そんな父さんをあやす様に緋丹さんはそっと抱き寄せ震える父さんの頭を優しく撫ぜる。 「大丈夫だ。そんな事にはならない。」 父さんにかけられた低く優しい声は確信をもっているようだった。 ああ、そうか。 今になって当たり前のことを思い出してしまった。 この人は、奏川温人(かながわはると)なんだ。 呆れるほどのお人好しで、誰にだって寄り添ってしまう人。人の痛みを自分の事のように感じて、いつだって全力で全身で他人を思える人。 この人の辞書に、偽善や同情なんて単語があるはずないんだ。 父さんが、父として僕にかけてくれた愛情は、間違いなく本物だ。疑う余地なんてどこにもない。 「……そうだろう?」 いつから気づいていたんだろう。扉越しに緋丹さんと目が合って、彼の口元に僅かに笑みが灯る。 ほら、と背後から僕を支えてくれていた手が、ぽん、と肩を叩いた。 うん。行かなきゃ。言わなきゃ。 僕は今度こそ扉を開いてリビングに足を踏み入れた。 ようやく僕の存在に気づいた父さんは、驚きに瞳を見開きあ、あ、と声にならない声とともに震える手を僕へとのばす。 「あの……、ただいま。」 何を言うべきか悩んで、結局こんな言葉しか出てこなかったのだけど、父さんは僕の言葉に瞳から大粒の涙を零しながら立ち上がり、勢いよく僕へと抱きついてきた。 「ぅ、あ、ああ゛あぁっ」 「うわっ、った、」 ドンッとあまりの衝撃によろけて尻もちをついて、それでも父さんは僕を離さずに思い切り抱きしめたまま全力で泣き始めてしまった。 「ううっあ゛、ひ、すいっ、ひすぃっ、ご、めんな、さ、」 「……うん。大丈夫だから。だから、ちゃんと話、きかせてよ。」 泣き縋る父さんの頭をよしよしと撫ぜながら、僕はしがみつく父さんの温もりを感じていた。優しい色をした蒼穹の瞳に見守られながら。 コクコクと泣きながら頷く父さんをソファーに座らせて、僕もその隣に座って大丈夫だからってずっと手を握って。 自宅である101号室に戻ることも考えたけれど、そうしなかった。だって、ダイニングの椅子に座り、遠巻きに僕達を見守ってくれているこの親子は、もはや他人ではなかったから。 そうしてようやく落ち着いた父さんは、僕達の顔を見回してごめんなさいと頭を下げたあと、ポツリポツリと真実を話してくれた。 「積雪の家と呼ばれる孤児院から翡翠を引き取ったのは、僕の友人の牧之瀬冬馬(まきのせとうま)と……彼の妻となった咲良(さくら)さんだった。僕達三人は、同じ大学の読書サークルで知り合った友人だったんだ。」 月に数回集まっては読んだ本について自由に語り合う。そんな読書サークルで、奏川温人と牧之瀬冬馬……そして咲良さんは出会った。 ひとたび語り出すと止まらない父さんの話を、牧之瀬先生はいつも微笑みながら聞いてくれたらしい。そうしてその隣で同じようにうんうんと頷きながら笑って話を聞いてくれていたのが咲良さん。 気さくで、でもハッキリとものを言える芯のある女性だった。そんな人と、内向的で、でも心優しい牧之瀬先生が恋に落ちたのは必然だったのかもしれない。 「二人は冬馬が医学部を卒業するまでの六年間、ゆっくり互いを知って、愛情を深めて。そうして冬馬が卒業したその年に二人は入籍したんだ。もちろん、周りはみんな祝福した。」 互いに寄り添い、補い合える。誰が見ても祝福して応援したくなる夫婦となった二人は、看護師と医者という道に進み、大多数の夫婦が望むように子供を望んだ。 「二人の間には子供を成すことが出来ないとわかっていたから養子を取るときいて、僕も応援するよって。……そうして、翡翠に会わせてもらったんだ。」 僕と初めて会った時のことは今でも覚えていると、父さんは僕を見て、泣き腫らした瞳を優しく細めた。 「おもちゃ箱の陰に隠れて、こんにちはって。恥ずかしそうに俯いて。部屋の隅で絵本を抱えて、僕たちの様子をうかがってた。引っ込み思案なところは冬馬に似てるねって、咲良さんと笑って話をしたのを覚えてるよ。」 牧之瀬先生の家での記憶、実のところ僕には少しだけある。 病院の帰りにお邪魔したのか、それとも父さんと遊びに行ったのか、今まではそんないつかの記憶なのだと思っていたけど、今ならわかる。 記憶の中で僕に向けられる牧之瀬先生の優しい笑みは、息子としての僕に向けられたものだったんだと。 そして、もうひとつ。 記憶の中で僕に微笑んでくれていたもう一人の人。記憶はおぼろげで、顔すらよく覚えていないけど、翡翠って呼んで、大好きよって僕を抱きしめてくれた女の人。僕がずっと母親だと思っていた人。 「咲良さんと冬馬は翡翠が来てくれたことを本当に喜んでいて、翡翠の身体と心が家に慣れてくれたらその時はたくさん遊びに連れて行ってやるんだって。だから温人もその時は遊びに来てくれって……約束、したんだけど、」 ああ、そうか。 そういうことか。 影を落とした父さんの表情が全てを物語っていた。 ほとんど記憶にない母親。僕にあんなにも優しく微笑んでくれる牧之瀬先生が父親でなくなった理由。なにより、牧之瀬先生は僕の知る限りずっと独り身だった。 疑問の答えは、一つしかない。 「僕が翡翠と再会したのは、それからわずか三日後だった。……咲良さんの葬儀の席だよ。」 父さんの言葉は、静まり返っていた部屋にズシリと重く響いた。

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