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第30話

交通事故、だったらしい。 買い物途中に信号を無視した乗用車に跳ねられて。即死、だったと。 家族が増えたお祝いをしましょうって、そんな買い物の途中に、咲良(さくら)さんは帰らぬ人となった。 「あまりに突然のことで冬馬(とうま)は現実を受け入れられなかった。僕ですら信じられなかったくらいだから。昨日まで笑っていた、あの咲良さんが。……冬馬は、時を止めてしまったように全てを拒絶した。」 食べる事も、寝ることも、笑うことも、泣くことも。 ただ呆然と虚空を見つめるだけだった。 数日前に迎え入れたばかりの息子のことも、当然彼の視界には入らなかった。 「ご両親も、僕の声も、当時の冬馬には届かなかった。彼が事実を受け入れ乗り越えるには、長い時間が必要だったんだ。」 ただ、黙って見ているしか出来なかった。 父さんの呟きは重かった。 それから父さんは毎日のように牧之瀬(まきのせ)先生の所に通ったらしい。届かない、けれどいつか届くかもしれない。毎日、毎日話しかけた。今日読んだ本、世間のニュース、行きがけに見た花、作った料理。 とにかく話して、話して。そんな時間が、気がつけば一ヶ月経過していた。 牧之瀬先生は、それでも何も瞳に映すことなく虚空を見つめるばかり。 「きっとすぐに現実を受け入れる。周りはそう信じていたけれど、冬馬の様子は変わらないまま。……少しの間だろうと親戚の人達が翡翠(ひすい)を預かってくれていたんだけど、ついにはみんな匙を投げてしまった。」 ――この子心臓が悪いって ――何かあったら家では面倒みきれない ――そもそも、血が繋がってないんでしょ?他人じゃない 突然脳裏をよぎった声に、ゾクリと背筋が震えた。 おぼえ、てる。 叫び出したくなるくらいの恐怖と絶望。 これは、これは、 真っ暗な記憶の向こうから聞こえていた声は、ダンッと拳をテーブルに叩きつけた緋葉(ひよう)によって現実に引き戻される。 「っ、ざっけんな!そんなの、捨てたも同じじゃねぇか!」 怒りに震える声には、すぐに緋丹(ひたん)さんから静止がかけられた。 「緋葉。今は誰かを責める場ではない。」 ぐ、と奥歯を噛み締める緋葉に、僕はようやく呼吸の仕方を思い出す。 震える手を、父さんが強く握り返してくれた。 真っ黒な記憶。 幼い頃の記憶の曖昧さが像を結ばない真っ黒な映像として残っているのかと思っていたけど、違った。本当に、真っ黒だったんだ。 周りから拒絶され、救いのない中に一人放り出されて、僕はずっと膝を抱え、顔を埋めて耐えていた。一人の怖さに怯えながら。 僕を、そんな絶望の淵から救い出してくれたのは、 「見ていられなかった。冬馬も、幼い翡翠の事も。だから、……あの日、たまらず声をかけたんだ。」 ――本、好きなの? 暗闇の中に落とされた温かな声。 顔を上げた僕に差し込んだ光と穏やかな微笑み。 ――僕もね、本大好きなんだ。 僕の家にはね、たっくさん本があるんだよ。 ……よかったら、読みに来ない? ――らいおん、らいおんのほんはある? ――ライオン?うん、図鑑も沢山あるから、 ――えほんは? ――絵本?うーん、あ、じゃあ今から一緒に買いに行こうか 翡翠君の好きな本、僕も好きになりたいから教えてほしいな ああ、この人だ。 今みたいに優しく僕の手を握って、連れ出してくれたのは目の前にいるこの人だ。 「はじめは、冬馬が落ち着くまで。そう、思っていた。けど、でも、……本、よんでって、文字を教えてって、……僕に笑いかけてくれたんだ。」 おはよう おやすみ いただきます ごちそうさま いってらっしゃい おかえりなさい だいすき 「たくさんの言葉を僕にくれた。それに……呼んでくれたんだ。僕に、僕を、――」 誰かが僕に言った。 今思えば、それは多分施設の人だったんだろう。 貴方と共に暮らし、たくさんの言葉をかけてくれて無償の愛をくれる人を、今度からこう呼んでいいのよ。 「……父さん、って、僕を、呼んでくれたんだ。」 父さんの瞳から、涙が一粒こぼれ落ちた。 「いつか冬馬のところに帰さないとって思っていたのに、帰ってしまったらどうしようって、居なくなったらどうしようって、」 視界が滲んだ。 きっとはじめは同情だったんだろう。 可哀想だと、そう思われたんだろう。 だけど、今震える手で必死に僕の手を握るこの人が僕に向ける感情は嘘偽りない本物だ。 「冬馬は一年近い時間を経てようやく前を向き始めた。けれど僕は、何かと理由をつけて翡翠との別れの時間を引き延ばそうとしていたんだ。四歳になり、五歳になり、……そんな時に翡翠から聞かれたんだよ。」 ――ねぇ、おとうさん。うちにはどうしておかあさんがいないの? 「翡翠は何も覚えていなかったんだ。冬馬の家にいたことも、それどころか孤児院にいたことすらも。幼さゆえか、それとも心を守るために記憶を閉ざしてしまったのか。どちらにせよ、僕は……その事実を利用してしまった。」 ――お母さんはね、事故にあってお星様になってしまったんだ。 事実の全てではないその言葉を僕は信じた。 僕と二人は寂しい?と聞かれて、全然寂しくないと答えた。 父さんがいてくれればいいと。 その言葉に、父さんは涙を流して喜んでくれた。 「僕は、僕の我儘で、嘘をついたんだ。翡翠と親子になりたいって、僕の我儘にみんなを巻き込んでしまった。……っ、ごめんなさいっ、」 握っていた手を引かれ、思いっきり抱き寄せられた。耳元で、嗚咽が聞こえる。 「っ、でも、っ、すいは、僕の子なんだっ、翡翠が、いなくなったら、僕は、僕はっ、ぁ、」 痛いくらいに抱きしめられて、胸がぎゅっと潰れそうに痛んだ。 けれどそれは、決して苦しい痛みじゃない。 嘘をつかた。長い間、何も教えてもらえなかった。自分の我儘のせいだって、いい年した大人がボロボロに泣き崩れて。 どこにも行かないでときつく抱きしめられて感じるこの痛みは、その名前は、 愛しさに違いなかった。

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