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閑話 お父さんとラーメン
「なぁ、家族愛と恋愛の違いってなんだと思う?」
「ぶ、っ、ごほっ、」
夕飯にと息子が作ってくれたインスタントラーメンが喉に引っかかった。
いつも食事を作ってくれていた隣人親子を今日はもう何もするなと家へと帰し、けれど今から外に食べに行く気にもなれず。
さてどうしたものかとダイニングテーブルに置かれたままになっていた料理本をパラパラと捲っていた自分を横目に、こういう時は非常食の出番だと、人生で初めてカップラーメ…いや、確かカップに入っていないからこれは袋麺だったか、を目の当たりにして興味深い味を啜っていたはずなのだが。
思わずむせ返ってしまうくらいにはその発言は衝撃だった。
「っ、ごほ、っ、……お前、まさかまだその段階なのか。」
息子の発言が何を意味するかくらいわかる。誰との事を指すのかなんて、考えるまでもない。
いや、だからこそ発言が信じられなかった。
「……家族愛と、恋愛、だと?」
念の為聞き返せば、ラーメンを啜りながら緋葉 はおう、と器用に頷いた。
恐ろしいことに聞き間違いではないらしい。
同じ孤児院という施設で育ったとはいえ、共に過した時間は一年足らず。そんな存在を探し出すために命の危険すら厭わず施設を出て、親族から疎まれようとも耐え続け。幼少期の記憶を頼りに十年を超える長い年月をずっと探し続けたその相手に、家族愛か恋愛感情なのかわからない、だと?
そんな馬鹿なことがあるのかと思わず息子を凝視してしまったが、どうやら息子は本気らしい。
というより、今まで深く考えてこなかったのだろう。とにかく探し出すことに必死になっていた相手がいざ目の前に現れて、ようやく落ち着いて考える段階にきたというところか。
「……なんかさ、温人 さんすげぇよなって思って。ああいう親子もいるんだな。」
なんとも胸の痛い感想だ。
なるほど、緋葉は今初めて家族愛というものに触れ、己の感情の在り方に戸惑っているのか。
自分達は親子と呼ぶにはあまりに遠すぎる。
わかっていたはずの現実を突きつけられた気がした。
五歳で緋葉を引取りはしたものの、多家良本家の離れにほとんど一人で生活させていた。仕事でなかなか家に戻れず家政婦に全てを任せ、祖母親族からの誹謗中傷、排斥行為からほとんど守ってやることが出来なかった。緋葉はずっと肩身の狭い思いをしていたはずだ。
ほとんど顔を合わせることもないままの息子に中学、高校と全寮制の学校を勧めたのは、このままここに閉じ込めて辛い思いをさせるよりはという思いからではあったが、緋葉にとってすれば追い出されたと感じているのかもしれない。
そう考えてみれば、家族愛がどんなものかなど、息子が知る由もないのだ。かく言う自分も、家族愛も恋愛感情も明確な答えをやれるほど理解できているとは言えないが。
血は繋がらなくともひとつ屋根の下で過ごした者同士。そこに抱く強い感情はなんなのか。
そこまで考えて、ふと隣人親子の顔が浮かんだ。
「……変化を喜べるかどうかではないか?」
「ん?」
「家族、親兄弟と呼べる者達との繋がりは基本的に切れることは無いが、距離や形は変わっていくだう。進学や就職、結婚。そんな変化を喜べるかどうかではないだろうか。」
温人はきっと今まで、息子の成長をすぐ隣で支え、激励し、喜んできたに違いない。
どんな時にもそばにいて、全力で支える。それが温人の翡翠 への愛……家族愛なのだろう。
「お前は翡翠君が恋人や結婚相手を連れてきたとして、それを喜べるのか?」
ぽかんと緋葉の口元が開き、明らかに表情が凍りついた。
さては、今まで考えることすらしなかったな。
え、と小さく呟いたその顔に焦りの色が浮かぶ。
「いや、ちょ、まて。……いや、俺そもそもひ、翡翠の話なんてしてねぇし。」
「ほう?……そうか、私の早合点だったか。」
耳まで赤いぞ、とは伝えない方がいいのだろう。
わかりやすすぎる反応に思わず零れそうになった笑いを堪え、素知らぬ顔でラーメンを啜った。
「……実の家族ですら、いつか離れるんだ。隣人なんて、別れはすぐやってくるぞ。」
自ら発した言葉に、心臓が小さな痛みを覚えた。
そしてそれは、緋葉にとってはもっと強い衝撃と痛みだったようだ。箸を握っていた手が、力無くテーブルに落ちる。
「……そっか。俺、今あいつの家族じゃないのか。」
ポツリと落とされた言葉に、返事はしなかった。もとより独り言だろう。
かける言葉を見つけられず、目の前のラーメンを無言で啜る。
しばらく視線を彷徨わせ何かを考え込んでいた緋葉も、大きく息を吐いてから結局何事も無かったかのようにラーメンを啜りはじめた。
ずず、という音だけが部屋に響く。
作った本人は少し薄くなった、と言っていたが、十分に濃い味が喉をとおりすぎていく。
それでもどこか味気ないと感じてしまったのは、ここ数日ですっかり舌が肥えてしまったからだろう。
「……明日は、うまい飯食えるかな。」
「彼らが隣人であるうちは、おそらくはな。」
「……いつまで食えるかな。」
「さあ、どうだろうな。」
ずず。
短い言葉を交わして、また無言。時折啜る音がやけに大きく響く。
沈黙は別に珍しいことでもないが、何故か今日は落ち着かない。
きっとそれはすっかり消沈してしまった息子のせいなのだろう。
自覚したらしい想いが隣人に届けばいいと願うのは、自分の中に親心というものが僅かでもあるからなのかもしれなかった。
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