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第35話
前回より香水の香りの薄らいだヘルメットを被り、大きな背中にしがみつく。
しっかり掴まってろよと言われる前に、僕は回した手に力を込めていた。
本当は一人で会うのが怖かったから。だから、感じる温もりは僕にはとても心強かった……というのは、もちろん本人には内緒だ。
僕が定期的にお世話になっている「めぐみ病院」は、水曜日の今日は午前中のみの診療になっている。
僕と緋葉 は午前中に都内の中央図書館で借りていて本を返却して、昼食をとってからめぐみ病院……ではなく、その裏手にある先生の自宅へ。
病院では話は出来ないだろうからと、父さん伝いに牧之瀬 先生から連絡が来たからだ。
病院と道を挟んで向かいにあるその家は、白壁に青い屋根のこじんまりした一軒家だった。
レンガ敷きの短いアプローチで緋葉は足を止め、キョロキョロと辺りを見回す。
「……あの人、家族と住んでるのか?」
「ううん、僕の知る限りずっと一人で住んでるよ。」
「……ふーん、なるほどな。」
物心着いた時には父さんに連れられ何度となく訪れていたから今まで考えもしなかったけれど、こじんまりとはいえ都内の二階建て一軒家。しかも小さいながらも庭もある。
そんな所で牧之瀬先生はずっと一人で暮らしてきた。
理由がわかる今なら、一人で住むには広すぎるこの家は、なんだかとても寂しそうに見えた。
アプローチを抜け、玄関の前でインターフォンを押す。ピンポーンと優しい電子音の後に、応答はない。念の為もう一度押してはみたけれど、結果は同じ。
おそらく、午前の診察が長引いているのだろう。患者さんに何かあれば、診察時間外であろうがなんであろうが診察や治療にあたる。
奏川温人 の友人だけあって、牧之瀬冬馬 という人も中々のお人好しなんだ。
「出直そうか。」
病院にいるのは間違いない。だとすればお仕事の邪魔をしたいわけではないので、どこかで時間を潰した方がいいだろう。
言葉に出さずとも緋葉には伝わったようで、特に否定も不満もなくりょうかーいと踵を返した。
大通りに出て、どこかゆっくりお茶でもできる所を探そうか。ぼんやりと考えながら僕も踵を返したのだけれど、
「あ。」
前を行く緋葉がピタリと立ち止まった。
「緋葉?」
何事かとその背中から半歩ズレて向こうを覗きこめば、そこにはよほど慌てて帰ってきたのか白衣を着たままの牧之瀬先生がゼェゼェと息を切らしながら立っていた。
その視線が、緋葉の影から顔を出した僕とぶつかる。
「っ、翡翠 君!」
わなないた唇が叫ぶように僕の名を呼び、牧之瀬先生はそのまま僕達に駆け寄った。
そうしてそのまま僕たちの前でレンガ敷の地べたに膝をつき、両手をついて頭を垂れる。
これにはさすがの緋葉も驚きに肩を揺らした。
「ちょ、先生!」
あわてて顔を上げてもらおうと僕も膝をつき先生の肩をゆするけど、牧之瀬先生は頑として土下座をやめようとはしなかった。
「いまさら、何を言ったところで事実は変えられない。けど、それでも、どうしても君に謝りたくてっ、」
「牧之瀬先生……」
「すまなかった。本当に、っほんと、うに……、」
それ以上は言葉として聞き取れなかった。
言葉から嗚咽に変わったそれに、僕はなんと返していいのかわからず先生の肩をさすった。
わかってるんだ。この人は本来僕を見捨てるような人ではないってこと。ずっと僕の身体を心配してくれていて、いつだって親身になってくれていた。
たぶん、息子として愛してくれているんだってことも今ならわかる。
わかる、けど。
言葉が出てこず、縋るように背後を振り返り見上げれば、緋葉は険しい顔でじ、と僕達のことを見下ろしていた。
その蒼穹の瞳に怒りの色を滲ませて。
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