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第36話

「……そうやって翡翠(ひすい)に許されて、あんただけスッキリ楽になろうってのかよ。」 鋭い視線と言葉に、牧之瀬(まきのせ)先生は身をすくませる。ゆっくりと歩み寄った緋葉(ひよう)は、そのまま先生の胸ぐらを掴み上げた。 「ちょ、緋葉!」 慌てて止めようと手を伸ばしかけたけど、チラリと僕に視線を移した緋葉は必要ないと首を振った。 「どんな理由があっても、翡翠を見捨てた事実は消えねぇ。それは絶対許されることじゃねぇんだよ。」 それは、怒りの色が混ざった低い声ではあったけれど、感情をなんとか押し殺そうとしているように見えた。 殴らない。この約束はとりあえず守るつもりのようで、僕は止めに入ろうと伸ばしかけた手を下ろす。けれどその蒼穹の瞳は射殺さんばかりに先生を睨みつけた。 「……なんで翡翠だったかわかるか?術後で体調も安定してない、病院から施設に移って半年しかたってなかった、外の世界なんて全く知らなかった翡翠を、なんであんたに里子に出したのか。」 「そ、れは…」 怒りに震える声。胸ぐらをつかみあげるその手は震えるほど力強く握りしめられていた。 押し込めていたのだろう強い感情が、緋葉の蒼穹の瞳を滲ませる。 「っ、あんたが医者だったからだ!翡翠にとってこれ以上ない条件の人だったからだ!あんたが医者で、奥さんが看護師で、この人達なら翡翠を幸せにしてくれるって信じたから、俺達は、…俺は、大切な人を見送ったんだ!」 心臓が握りつぶされたみたいに軋んだ。 緋葉の想いが、突き刺さる。どれだけ苦しかったか。寂しかったか。 「大切な人奪っときながら、てめぇは、翡翠も!俺も!積雪(せきせつ)の家の皆の気持ちも裏切ったんだよ!」 ガクガクと力任せに掴んだ胸ぐらをゆすり、緋葉はその手を突き放した。 勢いのまま、牧之瀬先生は地面に尻もちをつくように崩れ落ちる。かけていた眼鏡が勢いで外れ落ちたけど、先生はそれを拾おうともせず、俯くその瞳からはぼろぼろと涙がこぼれ落ちていた。 「……何があっても、二人で翡翠を育てていこうって……、っ、お、やになる、覚悟をして、引き取った、っ、もり、だったんだっ、……」 それ以上は言葉にならず泣き崩れる先生に、緋葉も肩を震わせる。 「俺達は捨てられるために生まれてきたんじゃねぇんだよ!」 「っ、緋葉!」 耐えきれずに僕は緋葉を後ろから抱きしめた。その拍子に、蒼穹の瞳からポタリとこぼれ落ちた雫が、僕の腕に落ちる。 「……緋葉、もういいよ。ありがとう。」 不思議と穏やかな声が口をついて出た。 「っ、けど、」 「……大丈夫。大丈夫だから。」 僕を思っての怒りは、緋葉自身の悲しみだ。 緋葉もきっと、ずっと苦しかったんだ。僕がいなくなって、一人になって、苦しくて、辛くて。だからきっと、僕も同じ思いをしていないか心配で探してくれていたんだ。 「ありがとう。言いたいことは緋葉が今全部言ってくれたから。だから、もういいんだ。」 本当は、気にしてないですよって言うつもりだった。だってその方が全て丸く収まるから。 でも、いざ牧之瀬先生を目の前にすると、胸の内側に刺さった小さなトゲがチクチクと痛みを訴えてきて、決めていたはずの言葉は何故だか出てこなかった。 でもやっとその理由がわかった。 そうか、言ってもよかったんだ。傷ついたと、緋葉みたいに怒ってもよかったんだ。 緋葉の怒りは、僕の胸の底にに蟠っていたものを綺麗に晴らしてくれた。 僕は緋葉の背中に顔を埋める。気まずさと気恥しさから牧之瀬先生の顔を直接見ることはできなかったから、緋葉の背中越しに。 「……確かに悲しかったし、怖かった記憶が僕にはある。でも、それだけじゃなかったから。」 怒りにギュッと握りしめられていた緋葉の拳から力が抜けたのがわかった。 恐る恐る顔を上げれば振り返り、僕を見下ろす優しい蒼穹がそこにはあって。 うん、ちゃんと言える気がする。 「……ずっと不思議だったんだ。毎年、クリスマスも誕生日も、何故かプレゼントが二つあるんだ。誕生日は父さんと死んだ母さんの分だって。クリスマスは父さんとサンタさんからだって。」 嘘が苦手な父さんがつき続けた精一杯の下手くそな嘘。 今なら真実がわかる、だって僕は知っているから。 「体調を崩すかもしれないからって運動会には毎回来てくれて、父さんが実家を出てからは時々様子を見に来てくれて。大学受験の時は進路の相談だってのってくれて、合格した時には父さんと一緒になって喜んでくれた。」 思い返したらキリがない。それくらいこの人は僕にとって身近な人だった。 かかりつけのお医者さんで、父さんの友人で。だから、僕に優しくしてくれていると思っていたけど、そうじゃない。 今ならわかる。この人のくれていたものは、もっと暖かくて深いものだ。 「ひ、すい……」 僕は緋葉の背からゆっくりと顔をのぞかせた。 呆然と僕を見上げるその人に歩み寄り、そのまま目線を合わせるために膝をつく。 口の端は知らぬうちに優しく弧を描いてしまっていた。 「僕には、父さんが二人いたんだね。」 冬馬(とうま)さんの大きく見開かれた瞳から、涙が一筋こぼれ落ちた。 「っ、あ、……、っ、すいっ、」 言葉にならない言葉がその口から漏れ、震える指がすが僕に伸ばされる。その手を引いて、僕は冬馬さんを抱きしめた。 許すよ、とは結局言えなかった。だけど、僕にとってこの人は父さんと同じように僕を大切にしてくれた、僕にとっても大切な人なんだ。 だから、これが僕の答え。 僕の肩に顔を埋め泣きじゃくるその温もりを感じながら、その身体をギュッと抱き締めれば、背後から、しかたねぇなと緋葉の諦めとも取れるため息が聞こえてきた。

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