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閑話 お父さん的幸福論

――これからはあんたが全てを奪われる番だ。 数時間前に社内ですれ違った弟に蔑んだ笑みと共に投げられた言葉がふと脳内をよぎった。 水面下で実権の掌握の為に周りを取り込み、母を含め親族を説き伏せ、証拠は無いがおそらくは都内の自宅に盗聴器までしかけられ。 生まれた年は一つ違い、血を分けた兄弟だというのに、どうやら弟には憎しみを抱かれる程に嫌われていたらしい。 家族だと、そう思っていたのはどうやら自分だけだったようだ。コミュニケーションというものは得意でないと自覚はしているが、それでも弟のことは自分なりに気にかけ、大切にしていたつもりだったのだが。 権力を持つことをなぜそんなにも望むのか、自分には理解できそうもなかった。そんなもの、欲しいと望んでいると知っていたら初めからくれてやったのに。 兄を支えると片腕として尽力してくれていたその裏で、この日のために虎視眈々と手筈を整えていたのかと思うと、いよいよ人というものが信用ならなくなりそうだった。 全てを奪われる。そんなこと、緋葉(ひよう)を引き取ると決めたあの日あの時に覚悟は決めていて、わざわざ小細工までして椅子を奪う必要なんてなかったのに。 いずれはお前に譲るつもりだったと言葉にしていれば、せめて家族だけは失わずにすんだのだろうか。 帰路に着く車窓からぼんやりと外を眺める。分刻みのスケジュールから解放され、ここ数日はただ引継ぎのために社に顔を出しているだけだ。 本来ならばこうして役員車両に乗ることもおこがましい事だというのに、長年専属で務めてくれている運転手は最後までその任を全うさせてくれと譲らず、こうして世話になっている。 どのみち、この生活もあと数日の事だ。 ビル群を離れ、隣県の閑静な住宅街へと移りゆく景色を見ながら、その口からは無意識に嘆息を漏らしてしまっていた。 揺られること数十分。青葉荘(あおばそう)と書かれた錆び付いたプレートがつけられたコンクリートの門柱の前で車から降り、ご丁寧にドアを開けてくれた運転手にいつも通り労いの言葉をかける。 明日もまたお迎えにあがりますとかけられた声にありがとうと答え、車が走り出したのを見送ってから踵を返した。 102号室。ここ数週間世話になっている部屋の玄関は借りている鍵を使うことなくノブを回せば開かれた。 緋葉が帰ってきているのか。あるいは…… 答えを確かめるより早く、玄関を開けた瞬間にふわりと食欲をそそる香りが鼻腔を擽った。 と同時に物音に気づいたのか、リビングへ繋がる扉が開かれ一人の存在が顔をのぞかせる。 「あ、緋丹(ひたん)さん。今日は早かったんですね。」 ワイシャツにスラックス。おそらくは准教授の職務に従事しそのままここにやってきたのだろう。仕事帰りだろうその姿の上に年季の入った黒いエプロンをつけた温人(はると)は、こちらの姿を確認するなりスタスタとスリッパを鳴らして歩み寄り、元々下がっている目尻をさらに下げ、その顔に穏やかな笑みを灯した。 「おかえりなさい。」 「……ただいま。」 言葉は自然と口から出ていた。 「お仕事お疲れ様です。」 「あ、ああ。」 違和感がない。そのことに違和感を覚えた。 隣人のはずの彼が、ここにいて出迎えてくれる。そこに違和感を覚えるどころか安堵してしまった自分がいた。 そうか、もはやこの光景は当たり前なのか。 自室として間借りしている部屋に鞄を置き、促されるままに洗面ん所で手を洗いリビングへと入れば、夕飯の支度の途中だったのだろう温人は既に作業を再開していて、キッチンに向かう後ろ姿から、トントントンと小気味いい包丁の音が聞こえてくる。 その光景はなぜだかザワザワと心臓を揺さぶった。 安堵、懐かしさ、……いや、もっと違う何か。 「……今日は翡翠(ひすい)君が食事の当番だと思っていたのだが、」 隣に立ち作業を覗き込めば、長ネギを切っていた手はほんの少しだけ止められ、ふふ、とはにかんだ温人は、またすぐ視線を手元へと戻した。 「昨日はその、色々ご迷惑おかけしてお夕飯作れなかったので。それに、どちらが作っても、今日のメニューは初めから決まってますからね。」 「そう、なのか?」 一口大に切られた長ネギはまな板の脇に置かれていた大皿へ。そこには春菊に豆腐、椎茸と並んでいて、そばにある鍋からは先程玄関で感じた、醤油やみりんの食欲をそそる香り。 「……すき焼き?」 「はい。いい事でも、悪いことでも、家族に何かあった時には夕飯でひとつの鍋を囲むって我が家の決まりなんです。」 コトコトと小さく音を立て煮たっていた鍋の火を止め、温人はうれしそうにこちらに微笑んだ。 「だから、今日はみんなでお鍋囲みましょうね。」 「家族、で……」 それは、まもなく自分が失おうとしているものではなかっただろうか。 温人自身、深い意味はないのだと思う。 血の繋がりがないことを息子に知られ、それと同時に隣人が息子と同じ施設にいたことを知り。 そもそも初めから食事を共にしていたところにさらに仲間意識が生まれただけだ。 わかっている。けれど、それでも。 家族、とはこんなにも温かな響きのする言葉だっただろうか。 「……何か、手伝えることはあるか?」 「あ、ではお皿お願いできますか?」 「わかった。」 全てを奪われる。とは、こんなにも満たされることだったのかと思わず笑ってしまった。 失うところか溢れ出しそうなこれは…… ああ、そうか。 もしかするとこれが幸福、というものか。 「……全てを奪われるのも案外悪くないな。」 「?何か言いました?」 「いや、なにも。」 エプロンの紐をヒラヒラとさせながら、動くその後ろ姿を見ながら、気がつけば胸の奥からふっと笑みが零れていた。

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