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第41話
ほら、と投げ渡されたヘルメットはだいぶ薄らぎはしたけれど、やっぱり香水の甘い香りがした。
今回は電車どころかバスすら走っていない山奥らしく、有無を言わさず緋葉のバイクで向かうことになったわけだけど……
都内とは名ばかりの山奥だと聞いてはいたけれど、僕達をのせた赤いバイクはぐねぐねと蛇のように曲がりくねった道を登り、ぐねぐねと下り。
こういう施設って、人目につかない山奥にある事が多いらしいな。
だんだんと人気の無くなってきた長い道中の中でポツリと緋葉 が呟いた言葉が、妙にはっきりと耳に残った。
あまりの蛇行の多さに僕の三半規管が悲鳴をあげ始めたころ、ようやくバイクは止まってくれた。
かろうじて舗装はされていたけど木々が鬱蒼と生い茂る中を進んでいてはずなのに、突然開けた視界のど真ん中。山奥には不似合いな大きな建物が姿を現した。緑に囲まれ、建物の白がいっそう際立っている。
緋葉から話は聞いていたけれど、近隣にある障害者施設や特別養護老人ホーム、そして僕達のいた孤児院の入所者の診察はもちろん、自然豊かな環境下での長期入院が必要な、気管支や精神的疾患のある患者の受け入れを主として行っているところらしい。
めぐみ病院の数倍はあろう大きな建物ではあるけれど、木製のベンチや入口前に広がる花壇、そこに置かれた木製の可愛らしい動物のオブジェが、白い無機質な建物に暖かみを与えている。
まぁ、咲いてる花をゆっくり眺める余裕は今の僕にはなかったけど。
「大丈夫か?」
「平気。……だけど、ちょっと座りたいかも。」
木々を切りとって作られた駐車場の片隅にバイクを停めた僕達は、緋葉に手を引いてもらいながら自動ドアをくぐる。
受付前に並んでいたベンチの隅に腰掛ければ、グラグラと足元のおぼつかなかった世界が少しずつ落ち着いてきた気がした。
「ちょっとここで待っててくれな。」
緋葉はその場に僕を残して受付カウンターへ。
その手には大きな紙袋握られている。中身は、入院している子供達へ差し入れるべく、ここに来る前に駅前の大きな書店で体力に購入した絵本だ。
交渉に必要なんだと言っていたけど……やはり知り合いもいないし健康なのに病室を見せてほしいなんて無茶なことだったんだろうか。
その辺の話は全て緋葉にまかせる事にして、僕は視線をふと、受付の横にあるスペースへと向けた。
柔らかいマットが敷かれたその一角には、低めの本棚やぬいぐるみ、積み木なんかが並んでいる。どうやら子ども向けのキッズスペースらしい。
絵本棚にはカラフルな背表紙がぎっしりと並んでいて、その光景を見た瞬間、胸の奥が小さくざわついた。
……もしかしたら、あるかもしれない。
僕はベンチから立ち上がり、幸いにも今は使用者のいないそのスペースへと足を向けた。柔らかなマットに膝をつき、低い本棚を端から指で辿っていく。
あんぱんのヒーローの話や、双子の野ねずみが主人公の有名なシリーズから始まり、カラフルな表紙を左から右へ。少し色あせた背表紙を一つ一つ探していく。
ページの端がめくれかけた古い絵本を何冊か抜き取ってみたけれど、白い表紙の真ん中に黄色いライオンが描かれた、あの本の姿は見つからない。
よくは覚えていないけど、狭い病院のベッドの上、僕はずっとあの本を大事に抱えていた気がする。それがずっと記憶の片隅にあって、だから幼少期の僕の絵本棚は父さんにねだってライオンが出てくる話が多くあったんだと思う。
もう一度、読んでみたかったな。
けれど、端まで探しても、その本はどこにもなかった。
無理もない。僕が二、三歳の頃読んでいたのだとすれば、もうゆうに十五年は経過してしる。
不特定多数の子供達に読まれた絵本は、ここにある本達のように読み込まれてボロボロになって……
やっぱりない、か。
気持ちを切り替えようと立ち上がったそのとき、背後から名前を呼ばれた。
「おーい翡翠 、入ってもいいってよ!」
受付から大声で僕を呼んだ緋葉は、驚いて振り向いた僕にドヤ顔でVサイン。
受付の人や数人ではあるけれど、診察待ちの人もいるのに。
「ちょ、っ……」
思わず大声で怒鳴りつけそうになって、慌てて自らの口を押さえた。緋葉はそんな僕の戸惑いなんて気にも留めず、相変わらずの調子で片手をひらひらと振っている。
受付の女性まで苦笑してるし、もう。
「早くー!置いてくぞー!」
子どもみたいなその声に、周囲の視線がまた一斉にこちらを向く。
恥ずかしさで耳まで熱くなって、つい目を伏せた。
けれど、なぜだか少しだけ力が抜けて、さっきまで胸の奥で重たく沈んでいた何かが、少しだけ軽くなった気がした。
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