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第42話

緋葉(ひよう)の背中を追いかけて、受付横の階段を上る。 かけてる記憶。この先に行けば、もしかしたら思い出せるかもしれない。思い出してしまうかもしれない。 ザワザワと落ち着かない心臓を服の上からギュッと掴んでも不安は消えなくて、よろけた振りをしてそっと先を行く緋葉のシャツの裾を掴んでみた。 すると緋葉はすぐに気づいて振り返る。 「お、どした?まだ乗り物酔い酷いのか?」 「え、あ、……うん。もうそんなに酷くはないんだけど、」 「ヤバかったらすぐ言えよな?」 苦しい言い訳だったかと思ったけれど、緋葉は疑うことなくシャツの裾を掴む僕の手を取り引いてくれた。 ちょっと恥ずかしかったけど、繋がれた手の温もりはひどく心地よくて。おかげで呼吸が少しだけ楽になった気がした。 受付から話が伝わっていたのか、緋葉がナースステーションにいた看護師さん達にこんちわーと声をかければ、皆部外者であるはずの僕達に挨拶を返して受け入れてくれた。 僕も、緋葉の背後からペコリと頭を下げてから二人で目的の部屋へ。 いつ容態が急変しても気づけるようにとナースステーションの目の前に位置する病室。 重病患者が優先的に使用するらしいその部屋は、今は幸いなことに使用者はいないらしい。 「騒がねぇならゆっくり見てっていいってさ。」 ほら、と繋いでいた手を強く引かれ、僕は一歩部屋の中へ。 清潔感のある真っ白な壁に囲まれた部屋の中に、大きなベッドが一つ。以前使用していたのが赤子だったのか、転落防止用の柵がつけられている。 「懐かしーっ!変わってねぇな、ここは。」 そう、なんだろうか。 ベッドの柵にそっと手を触れながら、僕はゆっくりと周囲を見回す。他漂う薬品の匂い、白く清潔な壁にカーテン、無機質なベッド。 ……どこにでもある、病室。 「どうだ、何か思い出したか?」 僕は緋葉の期待のこもった眼差しから逃げるように首を横に振った。 病室で過ごした記憶はあるけど、それは発作を起こした時にお世話になっためぐみ病院での記憶なのか、それともここで過ごした記憶なのか。 この場所に来れば、なにか思い出せるかもって……思ってたのに。 「そっか。ま、いいんじゃね。記憶なくて困ることもねぇだろ。今までだってそうだったわけだしな。」 言葉が重くのしかかる。 笑ってはいたけれど、緋葉の顔はどこか寂しげに見えた。 思い出せないまま。今まではそれでよかったんだ。知らなかったんだから。 でも、青葉荘に引っ越してきて、僕は知ってしまったから。 真っ白なこの部屋に、蜂蜜色と蒼穹があったことを。 この目で見ていたはずなのに、どうして僕の記憶にはいないんだろう。 ここまで来ても思い出せないなんて。 窓を開け、懐かしいのであろう外の景色を眺める緋葉の背中を見ながら、僕はベッド脇に置きに置かれた椅子に座った。 ベッドの柵をそっと撫ぜる。 「……緋葉のこと、ちゃんと思い出したかったな。」 思わず本音を呟けば、窓の外を眺めていた緋葉の背が小さく揺れた。 「俺は、今でもはっきり覚えてるよ。」 ゆっくりとこちらを振り返った緋葉は、泣きそうな顔で笑った。 窓から吹き込んだ風が、真っ白いカーテンと蜂蜜色の金糸を揺らめかせる。 「話したよな?翡翠(ひすい)と初めて会ったのはさ、診察の帰りだったんだ。ついでだからって園長にここに連れてこられた。」 それは、前にも緋葉の口から聞いた話。 でも、改めて聞いてふと気づいた。 「……診察の、帰り?」 理由がなければ、病院に、ましてや診察になんて来るはずない。 そうだ、しかも毎日のようにここに来ていたって、たしかそう話していたはずだ。 だとすれば緋葉は、 「どこか、悪かったの?」 湧いた疑問を、緋葉は首を横に振って答えた。 「検査っつーか、なんかテストみたいなやつ受けさせられてた。あとカウンセリング?ってやつ。」 いったいなんの? 疑問を口にするより早く、緋葉は照れくさそうに自らの金糸を掻き乱し、はにかんだ。 「これ、実はお前に話すの初めてなんだけどさ。」 気まずそうに一瞬そらされた視線が、ゆっくりと僕をとらえる。 「実は俺、ガキの頃口が聞けなかったんだ。」 「え、」 想像もしていなかった言葉に、僕は言葉を失った。

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