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第43話

ひゅ、と息を飲んだ。 なんで、 まさか、 あの緋葉(ひよう)が。 「もともとあんまり泣かねぇ赤ん坊だとは思われてたみたいだけどな。二歳になっても、ひとっ言も喋らない。ついには三歳の誕生日がきて、いよいよおかしいってここに連れてこられたんだ。」 言葉が出てこない。 だって、僕の知ってる緋葉は空気読めない発言ばっかで、絵本を読むのが下手くそで、いつだって笑ってて、いつだって人に囲まれてて。 そんな緋葉が、まさかそんな。 「なんで……」 掠れた声でようやく絞り出した言葉に、緋葉はへへ、と笑った。 「いや、これに関してはさ、多分当時の俺は必要ねぇと思ってわざと喋んなかったんだよな。」 「へ?」 「だってそうだろ?どんだけ泣いたって叫んだって、誰も助けてなんてくれねぇんだから。」 「あ、……」 グシャリと心臓を握りつぶされたような痛みに、思わず服の上から心臓を掴んでいた。 そうだ、緋葉のお母さんは、赤ん坊の緋葉を残して、緋葉のすぐ側で自ら命を絶ったって。 泣き声がうるさいと近隣から苦情が入って発見されたと聞いたけど、一人残された緋葉が見つけられるまで、一体どれだけの時間がかかったんだろう。 緋葉は、どれだけの時間孤独で、どれだけの時間絶望を感じて、泣き続けていたんだろう。 誰も自分を見てくれない、助けてくれない。その絶望が、僕にはわかる。 それがどれほど辛いことなのか、僕には痛いほどわかる。 たぶん、泣きそうな顔をしてしまったんだろう。緋葉は僕を見て、困ったように笑った。 「んな顔すんなよ。俺、ただ面倒くさがってただけだぜ?」 冗談めかして言いながらも、その声はひどく優しくて。 窓際からゆっくりと近づいてきた緋葉は、そっと僕の頭に手を置くと、子どもをあやすみたいにポンポンと優しく叩いてから、僕の隣の椅子に腰を下ろした。 「話したいとか、思ったことなかったんだよ。……あの日までは、さ。」 あの日。それは緋葉が初めてここに来た日のことなんだろう。 言葉を発することのない子供が、園長に手を引かれこの病室へやってきた。 「なんつーかさ、衝撃だった。この狭い部屋の中で、檻みたいな柵のついたベッドの中にいて、腕にはなんかチューブがつけられてて。……こいつはここから出られないんだって、子供の俺でも一瞬でわかった。」 積雪(せきせつ)の家という世界しか知らなかった緋葉にはここでの光景はたしかに衝撃的だったんだろう。 狭すぎる世界で人との接点がほとんどなかった僕と、会話という意思疎通を拒絶していた緋葉。そんな二人が、この部屋で出会った。 「互いに目が合ってもなんも言えなくてさ。けど、俺そん時に気づいちまったんだよな。翡翠(ひすい)が大事そうに絵本抱えてたこと。」 文字も読めない幼子が抱えていた絵本。 それは、その子供にとって唯一ここ以外の世界を見せてくれる大切なもの。 「大人達もさ、気づいてたはずなんだ。でも、あえて触れなかったんだろうな。読んでやってる時間がねぇから。俺、それもわかって、そんでだんだん腹たってきてさ。」 なんで、だれもこいつによんでやらねぇんだよ。 こんなとこにとじこめられて、ひとりぼっちなのに。 なんで、なんで、 「ムカつきすぎて気づいたら翡翠の手から絵本奪い取ってたんだ。」 緋葉はそう言うと、斜め掛けしていたボディバッグ中をごそごそと漁り、やがて何かを取り出した。  読み込まれてボロボロになっている白地の表紙の絵本。 それを見た瞬間、息が止まった。 「そ、れ……」 「さっき受付で貰ってきた。」 ニカッといたずらが成功したように嬉しそうに笑う緋葉。 その手にあるのは、ライオンが表紙の、懐かしい、絵本。 そう、ある日突然病室に現れた男の子に奪われた、絵本。 『……だれ?』 時々ここに来てくれる、えんちょうせんせいって名前の人が連れてきた知らない子。 蜂蜜みたいにキラキラ綺麗な髪と、お空みたいに青い目の男の子。 誰だろう、どうしてここにいるんだろう、聞きたいけど、何も言えなくて。 怖くて持っていた絵本をギュッと抱きしめて俯いていたら、むすっと口をへの字に曲げた男の子は、つかつかとベッドの隣へやってきて、僕の手からいきなり絵本を奪い取った。 『あ、!』 『ちょっと、緋葉!』 ビックリしたえんちょうせんせいが絵本を取り返そうとしてくれたけど、その前に椅子に座った男の子は、膝の上で絵本を開く。 『……が、お、お。がお、お。……らい、おんが、ない、て、い、ま、す…』 頭の中で、声が聞こえた。 この声、知ってる。一文字ずつ、必死でお話を読んでくれた、男の子の、声。 「こいつのために読んでやりてぇって、声出さなきゃって、生まれて初めて思ったんだ。」 『っ、!おねがっ、もっと、もっとよんで!』 無言で頷いてくれた。掠れた声で、拙い声で、僕の願いを叶えてくれた男の子。 狭い世界で、初めて僕のことを想って、大好きな本を読んでくれた男の子。 ああ、知ってる。 僕は、僕はこの子を知ってる。 緋葉は手にしていた絵本を僕の前に差し出した。 恐る恐る受け取って、僕は震える手で最初のページを捲る。 間違いない。僕が探していたのはこの本だ。 心のどこかでずっと気になっていた。これだけは忘れちゃいけないって、どこかで思っていた、大切な本。 「この本な、実はヒヨコは出てこねぇんだ。」 「え、?」 次のページを捲る前に、緋葉の口から落とされた事実。 思わず本から顔を上げれば、緋葉は照れくさそうに笑った。 そう、だったっけ。 うっすらとしか覚えていなかったけど、ライオンの表紙と、ヒヨコ……の事をこの本を見ながらよく口にしていたような気がしていたのに。 そう、ずっと、口に…… そうか、そうだ。 「お前がヒヨコだと思ってたのは、多分その本の登場人物じゃなくて、それを読んでた…」 「…………ヒヨ。」 名を呼べば、緋葉の蒼穹の瞳はまん丸に見開かれた。 「ひ、すい、」 そうだ。 僕に絵本を読んでくれた。無口な、優しい男の子。 「ヒヨ、っ、ヒヨ!」 叫ぶように名を呼べば、勢いよく伸びてきた手に腕を引かれ、思いっきり抱きしめられた。

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