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第44話
思いっきり腕を引かれ、勢い余って緋葉 と二人で椅子から落ちて尻もちをついて。それでも、僕達は互いを抱きしめた手を離すことはなかった。
「ひ、すいっ、」
「ヒヨ、っ、ひよぉ、」
ポチャンと、記憶の真ん中に落とされた衝撃が、瞬く間に身体中を駆け巡る。
世界が色づいた瞬間に、感情と記憶が溢れ出した。
――いやだ!いやぁぁ!ヒヨといっしょにいる!
――ぜったい、っ、ぜったいあいにいくからな!
里親が決まって施設を出ることが決まったあの日。離れることを泣いて嫌がった僕に、緋葉が言ってくれた約束。
お父さんとお母さんができることはいいことなんだ。幸せになれるんだから、泣かなくてもいいんだ。
それに絶対、いつかまた会えるから。
泣きながら僕にそう言ってくれた緋葉の言葉を信じて、僕は冬馬 さんと咲良 さんに連れられて積雪 の家を出た。
……そうして、すぐに居場所をなくした。
みんな、ぼくをいらないって。
めんどうだって。
だれか、たすけて。
ヒヨ……、ひよ……
どれだけ願っても、緋葉は来てくれなかった。
積雪の家を出るということがどういう事なのか。本当は子供心にわかっていたけど、子供の僕にはその事実は重すぎたんだ。
約束は果たされることはない。
僕は二度と、緋葉に会えない。
緋葉は、助けには来てくれない。
「っ、こわ、っ、かった、」
「……ああ。」
「っ、あ、いた、かったっ、」
「俺も、っ、」
僕達はただただ強く抱きしめ合ったまま泣きじゃくった。子供みたいに泣いた。今まで流せなかった分の涙を全部全部吐き出して、今この時を確かめるように泣き続けた。
「ご、めんな、っ、遅くなって。」
緋葉のせいじゃない。
その一言が嗚咽で出てこなくて、僕は緋葉の胸の中で必死に首を横に振った。
違う。
緋葉は探してくれた。
見つけてくれた。
耐えきれず全てを忘れて逃げた僕を、緋葉は諦めずにずっと探し続けてくれたんだ。
「あ、りがと、」
震える声でその一言だけ絞り出せば、背中に回された手はいっそう強く僕を抱きしめる。
「もう、ぜってぇ翡翠 を一人になんてさせないからな。」
力強い腕の中で、僕は小さく頷いた。
埋めた胸の中、トクトクと緋葉の鼓動を感じる。
絶望して、諦めて、消してしまったはずの温もりに、こうしてまた触れ合えた。
僕達は、ようやく再会できたんだ。
窓から優しく吹き込む風と大きな手が、僕の髪を優しく撫ぜる。
その心地良さに、溢れ出していた恐怖や不安が段々と凪いでいった。
二人で床に座り込んだまま静かに抱き合う。
昔も、僕に何かあると緋葉はこうして僕を抱きしめてくれていた。
発作が起きた時、一人は寂しいと泣いた時、手術の直前、積雪の家を出たくないと泣いたあの日も。
今思えばそれは、上手く話せない緋葉の言葉の代わりだったんだろう。
いつだって雑に優しく僕を撫ぜてくれるこの手は、僕にとって世界の全てだった。
この人といると僕は安心できて、うれしくて、あたたかくて。
大切で、大好きな人……
「っ!?」
ちょっと、まって。
その事実にようやく気づいて、一瞬にして血液が沸騰した。
勢いよく緋葉の胸を突き押して距離をとる。
「翡翠?」
まって、
いや、これって、
そんな。
「翡翠、どうした?」
突然の僕の態度に緋葉は心配そうに僕の顔を覗き込む。
けれど、僕はその視線から逃げるように自らの顔を両の手で隠した。
会えないことに耐えきれなかった。
忘れてしまわなければ生きていけなかった。
ずっと隣にいたくて、
ずっと一番そばにいてほしかった。
幼い僕が忘れたかったのは、家族愛でも兄弟愛でも友愛でもない。
こんなの、こんなの、
どう考えても恋愛感情じゃないか!
「おい、翡翠?どうした?発作か?大丈夫か!?」
反応のない僕に焦りはじめる緋葉。
でも僕はそれどころじゃなかった。
顔が溶けそうなほど熱い。
無理。今絶対耳まで赤い。
「ち、ちょっと待ってろ、先生呼んでく…」
「いい。っ、大丈夫だから!」
「いや、でもお前、」
「いいってば!」
僕は慌てふためく緋葉のシャツの裾を掴み、なんとかその場に留まらせた。
でも、何も言えない。
言えるわけないじゃないか。
恋に気づいてパニックになってるなんて!
「いや、だって、心臓になんかあったら、」
心拍数なら既にありえないくらい早いよ!
心臓壊れそうだよ!
だからってそれをどう言葉にしろと!?
「やっぱ先生呼んでく…」
「大丈夫なんだってば!」
記憶と共に突然自覚してしまった想いは、言葉にするにはあまりに恥ずかしくて。
僕は結局看護師さんが静かにしようね、と声をかけに来るまで、緋葉のシャツを掴んだままその場から動けなかった。
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