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第45話
火照る顔でなんとか平静を装って、バクバクとうるさい心音を何とか押さえつけて。うるさくしてすみませんでした、と二人でナースステーションで頭を下げてから僕達は病院を後にしたのだけれど……
僕の心臓はやっぱり破裂の危機をむかえていた。
「あの、ヒヨ。もう大丈夫だってば。」
「無理すんなって。まだ顔真っ赤だぞ。具合わりぃんだろ?」
いまだ乗り物酔いがおさまっていないと勘違いされたようで、緋葉 はご丁寧に僕の手を握ったまま。しかも駐車場までだと腹を括っていたのに、なぜだか緋葉は僕の手を引いたまま駐車場脇の緩やかな道を歩きはじめた。
車一台がかろうじて通れるような細い坂道を降りていく。
「どこ行くの?」
「すぐそこ。歩いていける距離だからさ、近くまで行ってみようぜ。」
いや、だからどこなんだよ、と尋ねる前に緩やかな坂の途中で、緋葉が足を止めた。
彼の視線を追ってガードレールの向こうを覗きこむと、蛇行した下り坂の先、木々の切れ間に見えた小さな建物。
「ぁ、」
思わず息を飲んだ。
細い道の終着点。所々塗装の剥げた白い外壁の建物。年季の入ったその壁に、入口近くに植えられた一本の大きな桜の木が影を落としている。
庭らしき開けた場所では、幾人かの子供達がボールを追いかけているようだった。
「積雪の、家……」
僕の呟きに、緋葉は無言で頷く。
手術を終えた僕が数ヶ月だけ過ごしていた場所。緋葉と共に暮らしていた家。
ほとんど記憶にはないけれど、庭の隅に置かれたジャングルジムとブランコには見覚えがあった。色あせた鉄の骨組みが陽にきらめき、風に押されたブランコの鎖が、かすかに光を反射している。
懐かしさに、じん、と胸が切なくなった。
「あそこに、僕達はいたんだね。」
「ああ。もう少し近くまで行ってみるか?」
緋葉の問に、僕は首を横に振った。
積雪の家を出た者は、特別な事情がない限り戻ってきてはいけない。そのルールはちゃんと覚えているから。
戻るのは里親達と上手くいかなかった時だけ。外に出た僕達が顔を出すことは、園長先生達を悲しませる事だ。
僕達はそこから動くことなくガードレール越しに景色を眺める。
広場を駆け回り、ボールを追いかけている子供達の声が、風の流れに乗って一瞬耳に届いた気がした。
「実はさ、俺一昨日もここに来たんだ。」
「え、何しに?」
「捜し物みつけに。」
緋葉の蒼穹を写した蒼い瞳が、僕が肩にかけていたトートバッグへ。
まさか。
中から絵本を取り出せば、蒼穹はニヤリと細められた。
「一昨日アルバム見て俺も本のこと思い出してさ。探しに来てたんだよ。」
一昨日、といえばたしか緋葉は朝早くから出かけていて、うろ覚え倶楽部の集まりにもいなかった日だ。
でもまさか、こんな所にまで来ていたなんて。
「知ってる受付の人がいたから聞いてみたらさ、なんとその本、病院じゃなくて積雪の家の本だったんだよ。っていうか、作ったの園長らしいぜ。」
「え、」
「うろ覚え倶楽部の奴らが探せねぇわけだよな。」
カラカラと笑う緋葉を横目に、僕は手にした絵本に視線を落とす。
白地の表紙にライオンのイラストが描かれた絵本。ようやく思い出せたそのストーリーは、迷子になって親とはぐれたライオンが、親切な森の住人達と親を探すというものだった。
最終的に親はみつからず、だったらみんなで家族になろう、と締めくくられている。
そうか。よくよく考えれば、これは園長先生から積雪の家で暮らす僕達へのメッセージだったのか。
「俺じゃ積雪の家に入れねぇから、受付のおば…お姉様にお願いしてたんだよ。代わりの本いくつか持ってくるから一冊譲ってもらえるように交渉してくんねーかって。」
なるほど、それで今日行きがけに本屋で絵本を大量に購入していたのか。
ようやく全てに合点がいって、僕は改めて絵本のページを開いた。
ウサギにリスにクマ、そしてライオン。種族の違う動物達が、大きな木の下に家を建て仲良く暮らしている。
……そっか。僕もいつかこんな風に、家族と暮らせる日がくるのかなって、淡い期待を抱いていたんだ。絵本に出てくるライオンみたいな男の子に、この本を読んでもらいながら。
この絵本は、僕にとって希望だったんだ。
最後のページを開けば、ハラリと何かが舞い落ちた。
慌てて拾いあげれば、それは一枚の小さなメッセージカードだった。
「ヒヨっ、これ、」
「ん?……って、これ、」
隅に花のイラストが描かれたカード。そこに書かれていた文字に、僕も緋葉も言葉を失った。
――この先もどうか積雪の家に帰ることなく、この絵本のような生活をおくれますように。
綺麗な字で綴られた、願いという名の僕らへのメッセージ。
「園長、だろうな。」
緋葉の言葉に、僕は無言で頷いた。
口を開けば、嗚咽と涙がこぼれ落ちそうだったから。
大丈夫。僕達が積雪の家に帰ることは、二度とありません。
言葉は届くことはないだろうけれど、僕は坂の下に見える懐かしい家に、小さく頭を下げた。その手に、大切な絵本を抱えて。
「そろそろ帰ろうか。」
ほんの僅かに朱を含み始めた青空を見上げ呟けば、蒼穹を映した瞳が真っ直ぐに僕を見つめる。
「ああ。帰ろうぜ。」
ニカッと笑う緋葉に、僕は考えるより先に自分から手を伸ばしていた。
今までずっと、掴まれてばかりだった手。
その手を、今度は僕から掴む。
指先が触れた瞬間、緋葉がわずかに目を瞬かせた。
そうして優しく握り返してくれた大きな手が、二人の体温を等しく温めてくれる。
「帰ってさ、飯食おうぜ。」
「そうだね。」
どちらからともなく一歩を踏み出して、僕達は細い坂道を一歩ずつ登り始めた。
決して振り返ることなく、懐かしい景色に背を向けて。
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