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閑話 お父さんに残された時間

メインディッシュの真鯛のアクアパッツァがテーブルの上にのせられれば、向かいに座る温人(はると)の瞳が感動に丸く見開かれ、薄く開いた唇からはうわぁ、と感嘆の声がもれる。 「彩りが綺麗ですね。美味しそうです。」 その瞳が玩具をみつけた子供のようにキラキラと輝いて見えて、こちらも気づけばふ、と口角を上げてしまっていた。 うっすらとジャズ音楽の流れるおちついた店内。 併設されているパティスリーは清潔感のある白を基調としていたが、こちらは木目調のアンティークな趣きだ。 格式ばらず、けれども品のよい店構えは、なるほど、人気があるというのも頷ける。 まだ夕食には少し早い時間と思っていたが、店内は既に満席だった。今日が平日でなければ、予約も簡単ではなかったかもしれない。 色鮮やかな料理を前に、温人の顔が綻ぶ。 「あ、メインのお料理もきましたし、もう一度乾杯しませんか?」 「ああ、そうだな。」 テーブルに置かれたワイングラスを手に取り、乾杯の言葉を交わす。琥珀色の白ワインが、グラスの中で小さく揺れた。 「今日は本当にありがとうございます。」 「いや、こちらこそ付き合ってもらって感謝している。」 息子達が遠出をするのなら、こちらも夕食を外でとらないか。 そんな提案を温人は快く了承してくれた。 それどころか互いに仕事を早く片付けられた為、予定よりも早く落ち合い、数年ぶりの映画鑑賞まで付き合わせてしまった。 「映画、僕の好みで選んでしまいましたが退屈じゃなかったですか?」 「いや、あの作家の話をいくつか読んではいたからな。だが最後の最後まで展開が読めなかった。」 「あの映画、原作とは少しストーリーが異なるんですよ。原作を読んでいた僕も最後までハラハラさせられました。」 どうやらこちらの急な誘いも、温人は楽しんでくれたようだ。 件のレストランに夜食事に行くことになったと秘書に話したところ、何故だか急に仕事を早く切り上げるようにと強く言われ、スケジュールを調整されてしまった。 そもそももう自分の元には新規の案件は回ってきておらず、後処理に追われているだけの状態だ。こんな時だからこそどうかプライベートを優先させてくださいという秘書の言葉に甘えることにした。 こういう時は先に映画にでもお誘いするのが良いかと。と予定より早く会社を追い出されてしまったので、よくはわからなかったが秘書のアドバイス通りに温人に連絡を取り二人で映画館に向かったのだが、結果的に正しかったようだ。 温人は映画を見ては恐怖に思わず声を上げ、最後には感動の涙を流し、今はこうして色鮮やかなディナーを前にいつもよりも饒舌に語りながら瞳を輝かせている。 かく言う自分自身も、久しく感じていなかった愉しさという感情を思い起こしていた。 グラスを軽く傾けて、口に含む。 フルーティな酸味とほのかな苦味が舌の上でほどけ、真鯛の旨味とよく馴染んだ。 温人も気に入ったようで、時折使用されている食材や調味料の組み合わせを詮索しながらもナイフとフォークを動かしては瞳を細めていた。 「しかし、意外だったな。」 「何がですか?」 首を傾げる温人に、手にしていたグラスを小さくくるりと回してみせる。 「嗜むとは思わなかった。」 家では一切飲んでいる姿を見かけなかったので、苦手なのだとばかり思い込んでいたが、先程からペースはこちらよりも早い。それでいて顔色一つ変えていないのだから、おそらくは飲みなれているのだろう。 「お酒は好きですよ。ただ、翡翠(ひすい)が未成年なので実家を離れてからは家で飲むことはしなくなっちゃいましたね。」 一人で飲んでも楽しくないじゃないですか、となんとも温人らしい答えが返ってきて思わず笑ってしまった。 「この時期になると実家にみんなで集まって母の梅酒作りを手伝うんです。今年もそろそろそういう季節ですね。」 「家で作るのか。」 「ええ。我が家の梅酒は焼酎じゃなくて、白ワインで漬けるんです。後味がまろやかでおいしいですよ。」 「ほう、それは是非相伴にあずかりたいものだな。」 温人との会話は、いつも新鮮だ。 穏やかに、時折声を弾ませながら紡がれる言葉は心地良い。今日も仕事終わりに映画に食事とタイトなスケジュールだったはずなのだが、彼と過ごす時間は終始穏やかに感じられた。 店内のジャズが遠くで流れ、周囲のざわめきも心地よく遠のいていく。まるでこの小さなテーブルの上だけが、別の時間を刻んでいるようだった。 「あ、じゃあ今年は家でも作りましょうか。翡翠も二十歳になることですし、作ったお酒をみんなで飲むのはきっと楽しいですよ。」 「そうか。では微力ながら手伝わせてもらおう。」 みんな、の中に当たり前のように自分が含まれている事実に、また口角が上がってしまった。 彼を前にすると、自分はどうにも表情を引き締めていられない。気恥しさを誤魔化すようにワイングラスに口をつけた。 「秋頃には飲めるようになりますから、4人で飲めるように沢山作りましょうね。」 「……半年後か。」 「ええ。漬けたばかりの頃は青くさくてまだおいしくないんですけど、時間が経つとちゃんと味が丸くなるんです。……不思議ですよね。」  温人はそう言って、うっすらと笑った。 その笑みが胸の奥に小さな痛みを落とす。 「半年後……」 思わず口の中で繰り返していた。 見ぬようにしていた現実が、急に輪郭を取り戻し、一瞬言葉を失う。 そうだ、わかりきっていた事実。それがなぜにこんなにも苦しいのか。 「……では、その梅酒ができあがった頃にでも、そちらに遊びに行くとしよう。」 「え?」 「味見くらいはさせてもらわないとな。」 感情を悟られぬよう努めて平静に言葉を選べば、温人はぽかんと口を開き瞳を瞬かせる。 話していたはずだが、当たり前になりすぎて忘れてしまっているのかもしれない。 手にしていたグラスを置き、困惑する温人の瞳を見つめる。 「二週間後に株主総会がある。それが終われば私は取締役を解任され……自宅に戻るつもりだ。」 「あ、……」 最初からそういう話だった。 都内の自宅には盗聴の痕跡があり、社内も誰が味方で敵なのか判然としない状態。 電話ひとつ、会話ひとつまともに出来ない状態をなんとかしなければと思案を重ねていた折に息子が助け舟を出してくれたのだ。 ことが収まれば元の生活に戻るのは当然のこと。 「自立している息子のところに厄介になり続ける訳にはいかないからな。」 今この状況の方が異常なのだ。それなのに何故、その事実を口にすることがこんなにも辛いのか。 「……そう、でしたね。」 ポツリと言葉を落とした温人は、眉尻を下げて寂しそうに瞳を伏せた。 「寂しくなりますね。」 その言葉は、スルリと耳から心臓に染み入ってきた。 ああ、そうか。 自分は寂しいのか。 「……また、青葉荘(あおばそう)を訪ねてもいいだろうか。」 伏せられていた顔が上げられ、視線が交わる。 「もちろんです。」 優しい笑みを灯したその顔が、けれど苦しげに歪んで見えたのは、自らの希望が見せた幻だろうか。 「また、こうして食事に誘っても?」 「もちろん!僕達は、……ほら、パパ友ですからね。」 「そうか。……そうだったな。」 息子達には浅からぬ縁あれど、自分達は知り合ってまだ数日。 それでもこれだけの縁を結べたのはありがたいことだ。 その、はずだというのに。先程までのように表情を崩せないのはなぜだろうか。 その後は出かけたい場所や、温人の勧める本の話など終始和やかに食事をしていた……はずなのだが。共に笑い、食事もアルコールも進んだにも関わらず、何故だか身体は喉の渇きを訴え続けていた。 そうしてそれはグラスのワインを煽っても、少しも癒えることはなかった。

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