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第47話
大学の長い春休みも、残すところあと二週間。それが終われば年度が変わって新生活のスタートだ。
周りも自分も生活が変わっていく実感が日に日に強くなっていく中で、特に大きな変化を見せているのは……実はこの二人なのかもしれない。
「あらら、それじゃあ明日は二人とも夜はいないんだね。」
「あ、うん。でも夕食は作ってい…」
「こういう時は楽しんでくればいい。私達の事は気にしなくていいから。」
「そうだよ。僕達は大丈夫だから、楽しんでおいで。」
「……あー、うん。ソウダネ。」
本日の晩御飯は父さんの担当。豚バラとそら豆の甘辛炒めに、そら豆としらすの炊き込みご飯。そこにそら豆の白和えと、なにやら旬のそら豆尽くしのメニューだった。
それは別にいい。そら豆は嫌いじゃないし、春を感じられる緑が食卓を華やかにしていると思う。
いいんだ、そこは、べつに。
引っかかっているのはそこじゃないんだ。
「今日はね、緋丹 さんにそら豆の筋取り手伝ってもらったんだよ。ついつい二人で集中しすぎて、気がついたら買ってきたそら豆全部剥いちゃった。」
「……へー、そうなんだ。」
「なかなかに貴重な経験をさせてもらった。少しでも温人 の力になれただろうか?」
「はい!とっても助かりました。おかげでおいしくできましたし。あ、このお料理なら緋丹さんが買ってきてくれたワインが合うかもしれませんね。」
「それはいいな。……ああ、だが私達だけいいのだろうか。」
「……僕のことはお構いなく。」
なんだろう、この疎外感は。
今日はアルバイトで緋葉 がいないからなおさらだ。
キッチンの奥でグラスとワインを楽しそうに準備する二人の姿を横目に、僕は大きく息を吐いていた。
ここ数日……そう、多分父さんと緋丹さんが二人で出かけたあの日以降、二人の間の空気が明らかに変わった。
べつにもとから険悪だったわけではない。会話の内容だって、別にとりとめのない事ばかりなんだけど、でもこう、なんというか、距離が近くなったというか、無意識に互いの事を気遣っているような。
本日は特売だったからと父さんが買ってきたそら豆を、二人で一緒に筋取りしていたらしい。
それ自体は別にいいんだ。あの緋丹さんが少しでも料理に関わろうとするのはいいことに決まってる。
けど、それを嬉しそうに話す父さんと、そんな父さんを見て優しく笑う緋丹さん……の間にいるのが辛い。見てはいけないものを見せられているような、思わず目を覆いたくなる空気。
うう、緋葉今日は何時に帰ってくるんだろう。
僕は平静を装いながら、黙々と箸を動かしていた。
とにかく早くここから離れなければ。
「翡翠 君達がいないのなら、明日はまた食事にでかけるか?」
「それも楽しそうですが、家でゆっくり宅飲みもいいかもしれませんね。」
「そうだな。私としては温人の手料理の方が嬉しいが……負担でないか?」
「とんでもない!明日楽しみにしててくださいね。」
僕はご飯を勢いよくかき込んだ。
無理。普通の会話のはずなのに、なぜかこっちが恥ずかしくなってくる。
父さんが時折緋丹さんを見つめ、それに気づいた緋丹さんが普段愛想のないその口元に優しく笑みを灯す。
無理。この空気の中で、無自覚なのだろう二人を前に何一つ触れずに平静を装うなんて。
そんなの、
そんなの――
「いたたまれないんだよ!」
思わずベランダの手すりにガンッ、と拳を叩きつければ隔壁の向こうから緋葉の苦笑いが聞こえてきた。手すりにもたれたその姿が妙に疲れて見えるのは、きっとバイト終わりだからというだけではないんだろう。
あれから急いで食事を終えた僕は、読みかけの本があるからと理由をつけて早々に102号室を後にした。
ちなみに本当に読みかけだったヒューマンドラマは主人公と幼なじみの恋愛展開が色濃くなってきたところで勢いよく本を閉じてしまった。
これ以上読む気力も無くなってしまったのでベランダに出ていつものように上階から漏れ聞こえてくるバイオリンの音に耳をすませていたら、隣からガララッと雑にベランダの窓を開ける音が聞こえてきてバイトを終え、夕食を食べ終えた緋葉と隔壁越しに鉢合わせたわけだ。
緋葉は干された布団みたいにベランダの手すりに力無くもたれたまま、深い息を吐き出した。
「……俺が飯食ってる隣でさ、二人してワイン飲みながら温人さんが延々最近読んだ本の話してて、それを親父がうんうん頷きながらひたすら聞いてんのよ。」
「あー、あれまだ続いてるんだ。」
「もう気まずいのなんのって。……やっぱ、あの二人ってそういう事なわけ?」
そういうことってどういうことだよ。……とは言わなかった。
緋葉の言いたいことはわかる。よくわかる。でも、それを口にすることはしたくなかった。
だって、口にしちゃったら認めてるみたいな気がして。
いや、別に否定したいわけではないんだけど。
……それに、それはきっと僕達が決めつけて簡単に口にしていいことじゃないと思うから。
「……まぁ、あの光景もあと少しだしな。」
ポツリと落とされた言葉に、ギュッと胸が苦しくなった。思わず服の上から心臓を掴む。
「緋丹さん、来週にはここを出ていくんだっけ。」
「ああ。ちょうど一週間後に株主総会があるんだと。そのタイミングで都内のマンションに戻るって言ってたな。」
「……そう。」
父さん、悲しむだろうな。
自覚はないんだろうけど、最近いつも以上にぼんやりとして物思いにふけってはよくため息をついている。その視線の先にいるのは緋丹さんだ。
「ま、俺と翡翠がこうやって近くにいるうちはあの二人も完全に切れるわけじゃねぇしな。」
近くにいるって、それっていつまで?……とは、聞けなかった。
緋丹さんもだけど、緋葉だっていつかは離れてしまう時が来る。まだまだ遠くにあると思っていた事実は、じつはもう目の前にあるのかもしれない。
もし、それを嫌だと思うなら……
僕は手すりにもたれ、隔壁越しに緋葉の顔を覗き込む。
蒼穹はすぐに僕の視線に気づいて優しく細められた。
「どうした?」
「あの、ヒヨ…」
離れたくないって。その理由も、ちゃんと伝えなきゃ。
でなきゃ本当にその日はすぐにきてしまう。
口にしなきゃいけないんだ。
「……き、だよ。」
「ん?」
「あの、……えっと、つ、月。き、今日の月綺麗だよね。」
だけど、その一言はどうしても出てこなかった。
緋葉は僕の言葉に夜空を見上げ、感嘆の声を上げる。
「おー、ホントだ。今日満月なんだな。」
「……だよね。」
うん、そうだよね。わかってた。
こんな遠回しな言葉で緋葉が気づくはずもない。
この鈍さは緋丹さんや父さんにも負けてないんじゃないだろうか。
「そういやさ、この近くにプラネタリウムあるんだぜ。翡翠好きだろ、そういうの。」
「……うん。好き、だよ。」
「じゃ、今度行ってみようぜ。」
ニカッと笑う緋葉に気づかれないようにため息をひとつ。
やっぱり、口にするって難しい。
真ん丸なお月様の下、月明かりに照らされて緋葉の蜂蜜色の髪がキラキラと輝いていた。
手を伸ばせば届く距離。
けれど……今日は、まだ。
ベランダの壁一枚。
今日はまだ、その距離でいよう。
「綺麗な月だね。」
夜風に乗ってうっすらと聞こえてくるバイオリンが、誰かの作った愛の曲を優しく奏でていた。
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