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閑話 お父さんは自覚する

刻みネギと生姜の乗った冷奴に始まり、塩茹でされた枝豆に刺身の盛り合わせ。あさりの酒蒸しにだし巻き玉子。 家にあった小皿をありったけ使用して用意された料理の数々は、本日はダイニングテーブルではなくリビングのローテーブルへ。 足を崩して楽にしましょうという温人(はると)の提案からだった。 「一度やってみたかったんですよね。おうち居酒屋。」 どうぞ、と言われ空になったグラスを差し出せば、そこに注がれる日本酒。 温人の母君お勧めだというその銘柄は、スッキリとした辛口で並べられた料理とよく合った。 「冬馬(とうま)咲良(さくら)さんもアルコールが苦手だったので、家族以外とこうして家で飲むの初めてなんです。ふふ、楽しいですね。」 「私もこういう飲み方は初めてだ。……気楽でいいな。」 「ですよね。」 ここ数日でわかった事だが、どうやら温人は一人で嗜まないというだけで、アルコールは好んでいるようだ。 目尻の下がった瞳が、アルコールで今日はいつも以上に緩く下がっているようだった。心なしか頬もほんのりと赤く染まっている。 かくいう自分も、美味い料理と気兼ねない環境についつい酒が進んでしまっていた。 温人が隣にいるこの空間に、居心地の良さを感じている。仕事でも、煩わしい親族との会食でもなく、こんなにも穏やかな気分で酒を飲むことなど過去にあっただろうか。 「本当に……楽しいですね。」 言葉とは裏腹に、温人はどこか寂しげだった。 思わずグラスを傾ける手が止まる。 哀愁の理由は察することが出来るから。 「気に入ったなら、何度でもすればいい。私も、何度でも付き合わせてもらう。」 たとえ、ここを離れても。 口にすることは出来なかったが、伝わったのだろう。温人の口元に小さな笑みが灯る。 「あの、緋丹(ひたん)さんはこの先どうされるおつもりなんですか?」 「少しゆっくりすることも考えたが……起業、しようかと思っている。」 「え、」 そう言えば先の話を誰かに口にしたのはこれが初めてではないだろうか。 会社という組織を抜けてしまえば、誰も私個人のことなど興味もないだろうと思っていたのだが、温人は驚きに瞳を丸く見開いた。 「会社を、興されるんですか?」 「ああ。職業柄医療関係の知り合いも多いのだが、ドイツの医療機器を日本に仲介していた会社の一つが、近々日本から撤退するらしく後継になる業者をさがしていてな。どうかと声をかけてもらった。」 多家良(たから)の家とは袂を分かつつもりではいるが、敵対しようとは思っていない。けれど、四十五年の生の中でこの道以外を歩んだこともない。そんな自分にこの話は渡りに船なのかもしれないと、思い切って自ら手を挙げることにした。 「知識も縁も活かせる道で、まだ自分にも出来ることはあるのかもしれない。そう思ってな。」 「それは、とても素敵なことですね。」 温人は、まるで自分のことのように喜び、目を細める。 「緋丹さんの新しい道を、微力ながら僕も応援します!」 ぐっ、と胸の前で拳を握りしめ決意を新たにする温人に、思わず口角が上がる。 けれど、それはすぐに力を失った。 「あ、……でも、ご飯はもう毎日作れなくなっちゃうんでしたね。」 落とされた事実に、心臓の軋む音を聞いた気がした。 「ああ、……そうだったな。」 わかっていたはずの事実が、言葉にすることで初めて温度をもって自分の内に入ってくる。 「…………だが、会おうと思えばいつでも会える。電話もメールも、いつだってできる。」 「そ、う、ですよね。隣県ですから、そこまで遠い距離でもないですしね。」 そうだ。連絡はいつでもとれる。時々は顔を合わせ、必要なら電話で声を聞けばいい。 それが事実。今生の別れなどでは決してない。 それなのに―― 手にしていたグラスを置き、ローテーブルに並べられている料理達に目をやる。 温人はなんでもないことのように言うが、これだけの品数を用意するのは大変なことだったろう。しかも手間暇かけられたそれらは、今日は二人だけのために作られたものだ。 いつの間にか、こうして手料理を食べることが当たり前になっていたが、そうではないのだ。 毎日、ではなくなる。 言ってしまえばそれだけの事だ。 けれど、それは、何故にこんなにも心臓を苦しく絞り上げるのか。 「あの、……次の約束をしませんか?」 ふと我に返り視線を戻せば、温人は真っ直ぐこちらを見つめていた。 「このまま緋丹さんがここを出て、忙しくなって、そのまましばらく会えなくなるのは……嫌だなぁ、と。」 「温人、」 「なんだか僕、思っていた以上に寂しさを感じているみたいで。次の約束があれば、少しはその気持ちも薄らぐかもしれませんし……っ、」 うっすらと微笑んだはずのその顔が、泣きそうに見えた。 そう思った瞬間、身体は動いてしまっていた。 「え、っ、」 温人の腕を引き、倒れてきた身体を勢いのままに抱きしめる。 「ひ、緋丹さ、ん?」 衝動が抑えられなかった。 腕に収まった温もりを手放すどころか、離すまいとさらに腕に力を込める。 「あ、さては酔ってますね?ほら、ここは日本ですよー?」 足りない。 隣人という縁は結んだ。友人だとも言われ、今後もいつだって会えるだけの親交は深めた。 だが足りない。 片時でもこの男を失うことが。この腕の中からこの温もりが離れてしまうことすらも許し難い。 まさか、この歳になってこんな感情を自覚することになろうとは。 「緋丹さん?」 どこかで見ないようにしていた。 決して抱くことはないと思っていた感情に、どうやら自分は名前をつけてしまったらしい。 けれど、言葉は出てこなかった。 その手に温もりを抱いたまま、奥歯を噛み締める。 「……すまない。」 衝動を抑えるために長く息を吐き、ようやく腕の力を緩めた。 ゆっくりと拘束から抜け出た温人は疑問に首を傾げるが、答えてはやれない。 口にしたところで、それは温人を困惑させ、さらには温人の最も愛する者を不快にしてしまうものなのだから。 ましてや言ったところで、手に入るわけでもない。 「……次の約束、だったな。」 「え、あ、はい。」 言えるわけがない。それを理解できず、人一人死なせてしまった自分が、こんな自分本位な感情をぶつけるなどと。 決して口に出すことなく、けれど離れることも出来ず、ただ傍にあることに喜びと苦しみを感じながら生きるしかないのだ。 かつて、緋葉(ひよう)を産んだ彼女がそうであったように。 「そうだな。また……こうして温人の料理を食べながら酒を酌み交わしたいな。」 「はい!ぜひそうしましょう!」 「ああ。」 その後は酒を飲みながら他愛のない言葉を交わし、料理の皿が少しずつ空になっていく。 けれど胸の奥には、確かに残るものがあった。 触れられた温もりの余韻と、決して口にしてはならない想い。嬉しさと苦しさが溶け合い、どちらともつかぬ形で胸を満たしていく。 ただ静かに、隣にいる温人の存在を確かめながら。喜びと痛みを等しく抱え、ゆっくりと流れるこの夜を忘れ得ぬ記憶として胸の内に確かな形として残した。

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