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第50話 隣人を愛せよ。

厚めに切った豚ロースを、パン粉をつけて二度揚げ。柔らかく仕上げたトンカツに合わせるのは、中濃ソースにケチャップとほんの少しのお酒を足したオリジナルソース。奏川(かながわ)家ではそこにすり胡麻をたっぷり入れるのが定番だ。もちろん、お皿にはキャベツの千切りもたっぷりと。 「鍋料理も考えたんですけど、ここはやはり縁起を担いでトンカツにしてみました。」 「いやぁ、縁起も何も負け戦確定…」 「ヒヨ?」 「あ、なんでもないっす。」 ペロリと舌を出し視線を反らせる緋葉(ひよう)は無視をして、僕も父さんもグラス片手に緋丹(ひたん)さんに向き直った。 「あの、明日、その、頑張って下さい。」 「そうだな。悔いのないように、潔く身を引いてくるとしよう。」 「それじゃあ、緋丹さんの前途を祝して乾杯しましょうか。」 かんぱーい!と父さんの声に合わせて四人でグラスを合わせた。 こうして四人で食事をすることももうないのかもしれないなと思うと、感慨深いものがあった。 明日は、緋丹さんがここを離れる日。つまり、四人揃う夕食はこれが最後ということになる。 そのわりには特別感のない、いつもの夕飯。でもそれは、緋丹さんがそう望んだからだ。 最後に温人(はると)の御御御付を飲みたいと。 今日の夕食の当番は本来なら僕だったのだけれど、今日は自分が作りたいという父さんの申し出を断ることはしなかった。 「あの、緋丹さん……おかわりありますからね。」 「ああ。……ありがとう。」 視線を交わし、言葉を交わす二人だけれど、その表情には時折曇りがある。 もちろん、楽しい別れではないのだから僕や緋葉だって終始笑顔というわけではないけど。それにしても、ここ数日の父さんの様子は明らかにおかしかった。 今日も、料理をしている時でさえ気がつけば上の空。いつものように本を読みふけっているわけではなく、だ。それどころか父さんが読んでいるはずの本の栞の位置が、ここ数日全く動いていないことに、僕は気づいていた。 本好きのあの父さんが。こんなこと、いまだかつてなかったことだ。 あまり表情や態度に出ないけれど、緋丹さんだっておそらくは…… 「翡翠君。」 「へ?は、はい。」 突然緋丹さんに名前を呼ばれて我に返る。 気がつけば緋丹の蒼い瞳は真っ直ぐに僕に向けられていた。 「君には世話になった。何かあればいつでも頼ってほしい。」 「はい。あの、こちらこそお世話になりました。」 箸を置き軽く頭を下げれば、世話になったと緋丹さんも頭を下げ返す。 そうして顔を上げた視線が今度は父さんへ向けられた。 その瞬間、蒼い瞳は優しく細められる。 「温人、君にも本当に世話になったな。」 低くハスキーな声に混じる柔らかさ。 それは、優しく真っ直ぐに父さんに向けられる。 「私はここを離れるが、これからも息子共々懇意にしてやってほしい。」 「はい。……もちろんです。」 頷く父さんに、緋丹さんは優しく微笑む。 それは、初めて見る柔らかい表情で。瞬間僕は気づいてしまった。 ああ、そうか。 緋丹さんは自覚してるんだ。 そして同時に察してしまった。 緋丹さんは、抱えているものを口にするつもりがないのだと。 緋丹さんが父さんを見つめる瞳は、明らかに他の誰に向けられるものとも違っていた。けれどそれと同時に、父さんと言葉を交わすたびに苦しげに一瞬歪む。 見ていれなくて、僕は思わず二人から視線を反らせた。そうして目が合った緋葉は、無言で肩を竦め静かに首を横に振る。 当人同士の問題だ、そっとしておけと、そういうことなんだろう。 なんで。 だって二人は。 ……言葉は、出てこなかった。 それ以上、父さんに声をかけることは出来ないまま、夕食は静かに進んでいった。 箸の触れ合う音と、時折交わされる短い言葉だけが食卓を満たしていく。 誰もが何か言葉を飲み込んだまま。それでも時間だけは容赦なく進んでいくのだと、そんな当たり前の事実を改めて突きつけられているようだった。 夕食後、最後の晩酌を楽しむ父さんと緋丹さんに声をかけてから、僕は101号室へ。 それでも二人のことが頭から離れなくて、僕は帰ってきたにもかかわらず、すぐにベランダに出た。 たぶん、いるはず。 示し合わせたわけではないけれど、何となくわかっていたから。 隔壁から少しだけ身を乗り出してそっと隣を覗き込めば、そこには思った通り、手すりにもたれぼんやりと月を見上げている姿があった。 「……ヒヨ、」 僕の小さな声は届いたようで、蒼穹の視線が空から僕へと移る。よぉ、と片手を上げる緋葉に、僕も何となく片手を上げて返した。 どちらともなく互いを隔てる隔壁ギリギリまで近寄って、言葉なく空を見上げる。 いつものように優しいバイオリンの音が風に乗ってわずかに聞こえてきた。 それは、今日の僕にはちょっと胸が痛くなる、音。 「……翡翠、大丈夫か?」 息苦しさに思わず溜息を吐けば、隔壁の向こうから緋葉の大きな手が伸びてきて、僕の頬をするりと撫ぜた。

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