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第51話

温かい感触が頬に触れたと思った瞬間には、隔壁から思いっきり身を乗り出してきた蒼穹の瞳が心配そうに僕を覗き込む。 「……あの二人の問題だろ?なんで翡翠(ひすい)が一番苦しそうな顔してんだよ。」 すり、と慰めるように緋葉(ひよう)の手が優しく僕の頬を撫ぜる。 何も言わずとも、緋葉には伝わってしまっているんだろう。その証拠に緋葉は何も言わず、何も聞かなかった。……数日前の僕の問いかけの答えだって。 今は、自分のことよりどうしてもあの二人が気になってしまう。それを緋葉はわかっていて、ここ数日はわざと話題を避けてくれていたように思う。 僕の頬を離れた手は、ぽんぽんと僕の頭に軽く触れ、離れていった。 「なんも気にせずさ、見守ってやっときゃいいんじゃね?明日には親父はここを出てくわけだし、どうするかは二人に任せときゃ…」 「駄目だよ。」 思わず遮ってしまっていた。 緋葉の言葉はもっともだ。 だけど、それじゃあ駄目だってことを僕は知っている。 「任せといて、父さんが自覚すると思う?一生ありえないと思うんだけど。」 「あー……まぁ、たしかに。」 そう、なにせ相手は奏川温人(かながわはると)だ。僕の知る限り、未だかつて浮いた話のひとつもなく、自分より他人のことばかり気にかけている天然でお人好しな人なんだ。 このままじゃ絶対何も起こらない。 それは、あの二人にとって…… 「別にそれでいいんじゃね?」 予想外の言葉に思わず俯きかけていた顔を上げる。 そこにあった蒼穹は冗談や投げやりではなく、真剣な色をしていた。 「今まで通りでいいだろ。せっかく温人さんが隠してること全部わかって、本当の意味で親子になったんだ。そこに横槍入れられて、最悪持ってかれたりすんのは嫌だろ?」 緋葉の言葉は、すぐに否定できなかった。 図星だ。 ファザコンなんて後ろ指をさされようとも、僕は父さんが大切だ。それは絶対で、今後も変わることはない。父さんが僕といることで幸せを感じてくれているなら、このままずっと息子としてそばにいてあげたい。 でも。だからこそ。 「……駄目なんだよ。」 僕はギュッとベランダの手すりを握りしめる。 「初めて、なんだよ。父さんが、僕のことより他の誰かを優先したの。」 息子だからこそわかる。ずっと見てきたからわかる。 あんなに心配して毎年付き添っていた僕の定期検診より他の予定を優先させたこと。 僕以外の誰かと二人ででかけたこと。 僕に遠慮して飲まなかったはずのお酒を飲んで、嬉しそうにしていること。 僕が注意したっていつだって本を手放さなかった人が、今は読めなくなるほど落ち込んでしまっていること。 それに、なにより、 「……僕以外の人を想って、誰かのためにご飯を作ってるんだ。」 父さんは昔からよく言っていた。料理は、愛だって。 食事は命を繋ぐ大切なもの。だからこそ大切な人に気持ちを込めて作るし、食べてもらえたら嬉しいって。 料理は、父さんにとっての愛なんだ。 「ずっと僕にかかりっきりだった父さんが、僕以外に大切なものを見つけたかもしれない。……それは、息子として喜ぶべきことなんだよ。」 本当は少し寂しいし、悔しいけど。 とは、もちろん口にはしなかったけど。 自分の言葉に、ツキリと胸が痛くなる。 そこにポン、と緋葉の手が僕の頭にのせられる。 「そっか。……翡翠は、変化を喜んでやりたいんだな。」 子供扱いしないで、っていつもなら口にしていたかもしれない。 でも、雑に僕の頭をかき乱すその手のぬくもりが今は心地良かった。 だから、僕はやっぱり蒼穹を見上げて頼ってしまうんだ。 「ねぇ、ヒヨ。明日、お願いがあるんだけど。」 「ん?」 「明日、もし僕が躊躇ったら、背中押してくれる?」 緋葉が隣にいてくれるなら、僕はちゃんと言葉にできるような気がする。 僕の情けない願いに、緋葉は自らの胸をポン、と叩いた。 「任せとけ!ちゃんと背中蹴り飛ばしてやるからな!」 「ふはっ。頼りにしてるよ。」 家族以外にも大切な人が増えるって、嬉しくて、心強くて、楽しいんだ。それを、明日はちゃんと父さんに伝えよう。 上の階から漏れ聞こえてくるバイオリンが、今夜はいつも以上に優しく、力強く聞こえた。 うん、明日はきっと大丈夫だ。

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