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第52話

『ら、』 ら、これ、ら。 『い、』 い、これ、い。 『お、』 お、これ、お。 膝の上に広げた絵本。幼い僕は隣から聞こえてくる声をたよりに絵本の文字を必死に追いかけている。 一文字一文字ゆっくりと読み上げられる文字を覚えようと意識を文字に集中させて、文字の羅列の先にある世界を頭に思い描いていく。 幼い僕の視界はいつだって本の上の文字達。それ以外に何も見えない、記憶の中の自分は他に視線を移すつもりもないらしい。 けれどそれは、隣に安心できる存在があるからだ。 もう戻ってこれないんじゃないかってくらいに没頭しているはずなのに、けれど常に隣にある温もりを僕はずっと感じている。 ゆっくり、ゆっくり物語を紡いでくれるその存在は、病室から出る事が出来なかった僕を、手を引いて一歩一歩踏みしめて歩いていくみたいに違う世界へ連れていってくれる。 稚拙で、優しくて、安心できる、大好きな声。大好きな人。 『ヒヨ、もっと、おはなし、ききたい。』 『ん。……じゃあ、しゅじゅつ、がんばれ。そしたら、ずっといっしょだから。』 『ほんと?』 『ん。このほんみたいに、いっしょにくらせるって、えんちょう、いってた。』 『ほんとに!?ずっと、ずっといっしょにいてくれるの?』 診察のついででもない、保護監督者としての責任からでもない。僕を思って、僕を見てくれた初めての人。 『やくそく。ずっと、ひすいのそばにいる。』 隣にいてくれるだけで胸の痛みも、息苦しさも、死ぬかもしれない恐怖すらやわらいだ。 この気持ちの名前を、当時の僕は考えもしなかったけれど。 今ならわかる。これは、―― カーテンの隙間から差し込む明るい光が、僕の意識を段々と浮上させる。 ああ、そうだ。今日は早く起きなきゃいけなかったんだ。 ふわふわと漂う夢の中の心地良さに後ろ髪を引かれながらも、ベッドの上に身を起こす。 ベッドの脇に置いている時計を確認して、カーテンを開いた。 なんだか、懐かしい夢だったな。 ぐ、と伸びをしてからベッドを離れて、壁際の本棚へ。いつもなら朝食前に少しでも本を読み進めようと机に向かうところだけど、なんとなく今日は読みかけの本ではなくて、読み込まれてボロボロになっている白地の背表紙を手に取った。 ライオンの描かれた絵本の表紙をひとなですると、ほんの少しだけあの時の気持ちが胸に思い起こされた気がした。 深く息を吸い込んで、ゆっくりと吐き出す。 「……よし。」 自分の中で小さく気合を入れて、本を棚に戻した。 そろそろ行かなきゃ。父さんはもう起きてるはず。 僕は急いで身支度を整えて、お隣さんへ行くために部屋を出た。 緋丹(ひたん)さんが青葉荘を離れる今日、株主総会前に一度自宅に戻るという事で普段なら朝食の準備を始めるくらいのこの早い時間に、僕達は緋丹さんをお見送りするために玄関の外に集まっていた。 金に近い蜂蜜色の髪を後ろに撫でつけ、カッチリとスーツを着込んだ緋丹さんの手にはスーツケース。そのひとつに荷物は全て収まったらしい。緋葉(ひよう)と共にこの青葉荘で過ごした時間はそれだけ短かったということなんだろう。 緋丹さんは見送りに出てきた僕達に視線を巡らせる。その蒼穹が、そっくりな蒼穹の前で動きを止めた。 「……短い間だったが、まさか二人で暮らす日がくるとは思ってもみなかった。貴重な時間を過ごさせてもらった。」 「色々ありすぎて退屈はしなかったな。……まぁ、親子なんだしまたいつでも来いよ。」 照れ隠しなのか蜂蜜色の金糸をわしゃわしゃと掻き乱しながら小さく笑う緋葉に、緋丹さんもぎこちない笑みを浮かべる。 その瞳が、今度は僕と父さんへ。 緋丹さんの口元が何かを言いたげに僅かに開いたが、それは音になることはなかった。 やっぱり。わかってはいたけれど、この人は何も言わないつもりなんだろう。 「……車を待たせている。名残惜しいがそろそろ、ここで。」 腕時計に視線を落とした緋丹さんは、僕にはそれを理由にここを離れたがっているように見えてしまった。 けれど、引き止めることはしない。だって、彼は今から人生の岐路に向かうところなのだから。何をうじうじしてるんだとか、両手を広げて立ち塞がっていい場面じゃないのはわかってる。 そう、詰め寄らないといけないのは緋丹さんじゃなくて…… チラリと隣に立つ父さんに視線を移せば、父さんは明らかに無理して笑顔をつくっていた。 「あの、緋丹さん。朝ごはんにサンドイッチを作ったので、車内で食べてくださいね。」 「あ、ああ。……ありがとう。」 苦しい笑顔でお弁当を手を渡した父さんに、緋丹さんはそれ以上何も言わずに受け取り、そのまま僕らへ背を向ける。 車に乗り込むその後ろ姿を父さんはただ黙って見つめていた。 あー、これは。 なんともいたたまれない空気の中、僕は言葉を探しあぐねた。 緋丹さんを乗せた車は走り出し、ついには見えなくなってしまった。父さんはそれを寂しそうに見送るだけ。 何も言わず。いや、おそらくは何にも気づかないまま。 そこに、わざわざ口を挟む必要があるんだろうか。 言わなくても何も壊れない。黙っていれば、ずっとこのままでいられる。 「ほら、翡翠。」  隣で小さく呼ばれた僕の名前。 一瞬躊躇った僕の背中を、大きな手がぽん、と優しく叩いてくれた。 見上げれば、隣で僕を見つめる緋葉の顔が、くしゃりと笑う。 言いたいこと、思いっきり言ってやれ。そう言われた気がした。 うん、そうだ。そうだった。父さんには、しっかり思い知らせてやらないと。 「えっと。そろそろ、みんなで朝ごはんにしよ…」 「ねぇ、本当にそれでいいの?」 隣に緋葉がいてくれる。だから、大丈夫。 蒼穹の瞳に見守られる中、僕は父さんに迷いなくそうたずねていた。

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