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第53話

翡翠(ひすい)?」 突然のことにポカンとする父さんに、僕はずいっと一歩詰め寄る。 「え、な、何、どうしたの?」 「どうしたの、じゃないよ。緋丹さんのこと、追いかけなくていいの?」 「え?」 わけがわからないと首を傾げる父さん。 やっぱり、僕がはっきり言ってあげるしかないみたいだ。 僕はす、と小さく息を吸い込んだ。 「あのね、緋丹(ひたん)さんはもう青葉荘(あおばそう)には帰ってこないんだよ?」 「え、う、うん。でも、今生の別れってわけでもないし。あ、そうそう、来週末にまた会おうかって話もしててね…」 「じゃあ、なんでそんな顔してるの?」 「え、」 父さんが、ピタリと口を噤んだ。 混乱に瞳を瞬かせながら自らの頬に手を伸ばす。 「ぼ、僕、どんな顔してるのかな?」 「あー、……翡翠が家飛び出して行った時と同じ顔してっかなぁ。」 緋葉(ひよう)の的確すぎる指摘に、僕はうんうんと頷いた。 これで本当に無自覚だって言うんだから始末に負えない。完全に黙り込んでしまった父さんに、僕はビシッと人差し指を突きつけた。 「ねぇ、父さん。誰かのことを考えて食事も手につかない、本すら読めない、会える約束をしているのに寂しいなんて、世間一般でその感情をなんて呼ぶのかわかってる?」 「え?え?」 混乱する父さんに、けれど答えは教えてあげない。 だってこれは、父さん自身が気づかないといけないから。自分で答えを見つけなきゃいけないことだから。 僕と緋葉を交互に見つめ慌てふためく父さんをじ、と見つめかえす。いや、たぶん睨みつけてしまっていたと思う。 おろおろと視線を彷徨わせていた父さんはそれでも必死で僕の言葉を自分の中で整理して、やがて俯いた。 「…………こ、恋、かな。」 小さな小さな声。 けれどはっきりと聞こえた答えに、僕も緋葉もほとんど同時に頷いていた。 「そうだね。僕もそう思う。」 「だよなー。」 俯く父さんの顔を覗き込む。重大な事実に気づいた父さんは、呆然としたまま僕の視線にも気づいてないようだった。 「っ、……だめ、だよ。そんなこと駄目に決まってる。ぼ、僕が、そんな、」 自分に言い聞かせるように呟く父さんの肩を優しく叩く。 「どうして駄目なの?」 はっ、と顔を上げた父さんは今にも泣きそうな顔をしていた。 「だ、だって、僕は翡翠の父親で、」 「それとこれとは関係ないでしょ?」 「っ、でも、僕は翡翠が一番大切で、」 「大切なものってひとつじゃなくてもいいんじゃない?」 「え、」 はくはくと口元を震わせた父さんは、やがて縋るような瞳で僕を見返した。 僕の知る限り、父さんはずっと父親であり続けてきた。浮いた話のひとつもなく、ただひたすらに僕に愛情をかけてくれた。 それは父さん自身が望んだことではあるけど、でも、僕という存在は父さんを「父親」というものに縛りつけてしまっていたのかもしれない。 父さんは父さんだけど、その前に奏川温人(かながわはると)なのに。 チラリと隣で腕を組む緋葉に視線を移せば、緋葉は言ってやれ、と音を出さずに口元を動かした。 そうだ。ちゃんと言ってあげなくちゃ。 「大切に思える人が増えることの何が悪いの?血の繋がりがなくても、親子じゃなくても、大切な人はいていいんだよ。」 それは、父さんにとって衝撃だったのだろう。 ポカンと口を開いて固まってしまった父さんに、それでも僕は畳みかける。 「ねぇ、父さん。僕達は家族だよ。だからいつか僕が就職してこの家を出ることがあったとしても、僕達はずっと繋がってる。でも、緋丹さんは他人なんだよ?」 「……え、」 「離れれば、繋がりは薄れていつかは消えるかもしれない。声に出して、手を伸ばさない限り、他人の緋丹さんは父さんの隣にはいてくれないんだよ!」 気がつけば父さんの肩を掴み、声を荒らげてしまっていた。 友人として、たまに顔を合わせる。そう約束をしているのに、繋がりは切れてはいないのに。それなのにこんなにも辛そうな顔をする父さんが、このままでいいはずない。 大切な人だから。だから、父さんにはいつだって笑っていてほしい。 たとえそれを叶えてくれるのが僕以外の人だったとしても。 「離れたくないなら、ちゃんと言わなきゃ!」 強く肩を揺すっても、父さんはしばらく何も言わなかった。 僕の言葉を一語一語噛み締めるように瞳を伏せる。 「……言っても、いいのかな。」 しん、とした空気の中に落とされた掠れた声に、僕は緋葉と顔を見合せてからはっきりと頷いた。 「いいに決まってるよ。」 ゆっくりと顔を上げた父さんは、ふぅ、と長い息を吐く。まるで、心の内に溜め込んでいたものを吐き出すように。 父さんは真っ直ぐに僕を見つめ、泣きそうな顔で笑った。 「ご飯をね、一緒に食べたいんだ。……これから先、緋丹さんは誰もいない暗い家に一人で帰って、一人でご飯を食べるのかなって。そう思ったら、苦しくて。」 それは、なんとも父さんらしい想いの形で、思わず口の端が上がってしまった。 「じゃあ、ご飯作りに行ってあげなよ。」 「っ、でも……」 躊躇う父さんの前に、今までことの成り行きを見守ってくれていた緋葉が一歩進み出た。 「温人さん、これ。」 自身のジーンズのポケットから一枚のカードを取り出した緋葉は、それを父さんへと差し出した。 「何かあった時のためにって、スペアのカードキー預かってんすよ。」 緋葉は父さんの手を取り、無理やりカードキーを握らせる。 そうしてその手を優しく包んで、ニカッと歯を見せて笑った。 「卵爆発させちまうような壊滅的不器用に、うまい飯食わせてやってください。」 「緋葉君、」 父さんは手にしたカードキーに視線を落とした。 じ、と手元を見つめ、そうして勢いよく顔を上げる。 その顔に憂いの色はなかった。 「ご飯、作りに行ってくる。帰りを、待っていたいんだ。」 「うん。いってらっしゃい。大学には僕から連絡しとく。」 「ありがとう!」 次の瞬間には父さんの腕が伸びてきて、思いっきり抱きしめられていた。 全力で苦しいくらいに抱き寄せられて、父さんは僕の肩口に顔を寄せる。 「ありがとう、翡翠。大好きだよ。」 「……僕も、大好きだよ。」 素直に答えれば、名残惜しそうに体を離した父さんは嬉しそうにはにかんだ。 「ほら、そうと決まったら急いで荷造りする。」 「う、うん!」 言うが早いか父さんは踵を返し101号室へと戻っていった。 扉の向こうに消えていった背中には一切の迷いは無くなっていて、僕はほっと息を吐く。 これで、あの二人はきっと前に進めるだろう。 「よかったな。」 緋葉の言葉に、けれど僕はうん、と頷けなかった。 返事の代わりに緋葉の肩口にぽすっ、と顔を埋める。 これでよかったに決まってる。父さんには幸せになってもらわないと。 けど、でも。 「……嬉しいけど、やっぱり寂しい。」 隣にいる緋葉にだけ聞こえる、小さな小さな声。 僕のか細い本音に、緋葉は小さく笑って肩を抱き寄せてくれた。 「笑って見送ってやんないとな。」 「うん。」 緋葉の肩に額を押しつけたまま、小さく息を吐く。 寂しい。けど、それだけじゃない。隣にいる体温がそう教えてくれる。 だから、大丈夫だ。 優しい温もりに支えられて、僕は小さな旅行カバンを抱えて戻ってきた父さんに、「いってらっしゃい」って、ちゃんと笑って送り出してあげられた。

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