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閑話 お父さん達の答え
四十五年の歳月をかけて築き上げてきたものが消えてしまうのはあっという間のことだった。
『あんたの甘すぎる経営方針をこれから俺が立て直してやるさ。指をくわえて見ているといい。』
株主総会で解任が承認され、その後すぐ行われた取締役会で弟が代表取締役に選任された。
それらは一族の実権を実質握っている母をはじめ親族の承認がなければ決して起こりえない。つまり、私は社長としても当主としても一族から失格の烙印を押されたということだ。
それでも、代表として名を呼ばれ、拍手を浴びる弟を隣で眺めながら、どこか気持ちは晴れ晴れとしていた。
自分はもう何者でもない。
誰のことも考えず、誰の言葉を気にする必要もないのだと思ってしまったことは、これから諸々を背負う弟には告げない方がいいのだろう。
「最後に一つだけ。……対話なくして先はない。周りの声を聞き、受け入れ、未来を話し合え。」
この言葉が、弟に届けばいいのだが。
いや、たとえ届かずとも強制的にそうせざるを得ない状況は作った。それを煩わしいと思うのか、兄からの教示と受け取るのか。
全てを受け入れずともいい。だがいつかまた、家族としていがみ合うことなく酒でも酌み交わすことができたなら――
淡い願いを抱きつつ、長年務め積み上げてきたその場所を後にした。
カードキーを使い開いたドアをくぐり、エントランスを抜ける。
見知ったコンシェルジュに会釈されながらエレベーターに乗り、自室の階へ。慣れ親しんだマンションのはずなのにどこか無機質に感じてしまったのは、ここ一ヶ月のあの青葉荘 での生活の影響なのだろう。
祝福される終わりではなかった。惜しむ声をかけてくれた者もいたが、そんな者たちにとっても明日から自分は無関係の人間となってしまう。
だからこそ、なるだけ情は残さず、残させず、初めから無かったかのように消えるべきだ。そう思い今日までに全てを終わらせ、計画通り静かに去ってきたのだが、いざ終わってしまえばどこか寂しさを感じてしまった。
ふ、と口から漏れた吐息すら、耳につく。
昨日まではため息などつく暇もないくらい賑やかだったはずなのに。
足枷はなくなった。身軽さを感じている一方で、胸の奥のどこかに重しがされているようだった。
今日からはまた一人の生活に戻る。ただそれだけの事実であるのに、口からはまたため息が漏れた。鍵を開け、重い玄関扉を開く。
その瞬間、俯いていた視界に入ってきたのは、暖かな光だった。
電気がついている。
何故、と疑問が湧くと同時に覚えのある香りを感じ、息を飲んだ。
ふわりと漂う味噌の香り。さらには煮物の甘い香りまで。
まさか。
いや、そんなはずは。
考えるより早く、俯いていた顔を上げた自分の目の前で、リビングの扉が開かれ全ての答えが視界に飛び込んできた。
「あ、おかえりなさい。」
穏やで柔らかな声。年季の入った黒いエプロン。目尻の下がった瞳を細め、駆け寄ってくるその存在を見間違うはずがない。
「はると、」
戸惑いつつも名を呼べば、温人 はあはは、と気まずそうに視線を泳がせた。
「その、緋葉 君に鍵を借りて来てしまいました。」
「なぜ、」
上手く酸素が取り込めない。
自分は都合のいい幻を見ているのではないか?
けれど、目の前の温人はこちらの動揺をよそにすみません、と勢いよく頭を下げる。
「あの、どうしても緋丹 さんと夕飯を食べたくて。」
「夕飯、だと?」
「はい。その、……一人の食事って、味気ないじゃないですか。だから、その、……」
言いづらそうに口ごもる温人に、ようやく冷静に思考が働いた。
ああ、孤立した自分を心配に思い来てくれたのか。
本当に、この男は人が良すぎる。
「……わざわざ、すまないな。」
ありがとう、と開きかけた口は、けれど目の前に差し出され開かれた手によって静止させられる。
「あ、あの、違うんです。」
「温人?」
俯いていた顔がそろりと上げられる。
見上げるその瞳は、真っ直ぐこちらに向けられていた。
「……僕が、一緒に食べたかったんです。緋丹さんと、一緒にいたかったんです。」
ドクン、と己の心臓が一際大きく跳ねる音を聞いた気がした。
いや、まさか。
そんなはずは。
温人の事だ、きっとなにか意味を履き違えているに違いない。
「緋丹さんのいない食卓は、寂しい……です。苦しいんです。」
「はると、」
「僕のご飯を一緒に食べてほしいんです。」
「っ、」
トサリ。
手にしていた鞄が手から滑り落ちる。
気がつけばみっともなく靴を脱ぎ捨て、目の前の存在を抱きしめていた。
驚きから温人は肩を跳ねさせ身を固くするが、離してやることはできそうになかった。
「温人、」
「ひ、たんさん?」
耳元で名を呼ばれれば、心臓の奥底からおさえていた感情がせり上がってくる。
「温人、これ以上は駄目だ。」
「え?」
いいはずがない。
こんなこと、ありえるはずがない。
わかっているのに、目の前にある体温が離せない。
「ひたん、さん?」
もう一度名を呼ばれた瞬間、腕が勝手に動いていた。
後頭部に手を回し、逃げ場を塞ぐ。
「ひ、た…」
最後まで呼ばせなかった。
引き寄せ触れた唇の温かさに、身体が火照る。
駄目だ。
駄目だ。
深く貪りたい欲求を奥歯を噛み締め必死に耐え、温人の肩を押す。
ぽかんと口を開け、まん丸に見開かれた目がこちらに説明を求めていた。
「あの、」
「……このまま温人がここに居れば、私は勘違いをしてしまう。君も、私と同じ気持ちであると。この先を望んでいるのだと。」
温人の頬に手を伸ばし、親指で唇を撫ぜる。
突然の出来事に驚き呆けていた顔が、とたんに朱に染まった。
「え、あの、…その、」
温人の視線が俯き泳ぐ。
困ると、自分はそんなことは望んでいないと、告げてほしい。そうして今にも爆ぜてしまいそうなこの感情を断ち切ってほしい。
縋る思いでその時を待っていた……はずであったのに、
「っ、違います!」
弾かれたように顔を上げた温人は、自ら一歩距離を詰めこちらに飛び込んできた。
背中に回された手が、きつく抱きしめてくる。
「なっ、はる…」
「か、勘違いじゃないんですっ、」
こちらの胸元に顔を押し付けたまま、震える声でそう告げられ、言葉を失ってしまった。
恐る恐る顔を上げたその瞳が、真っ直ぐにこちらを見上げる。
「ぼ、僕も、その、同じ気持ちで間違いない…かと。」
「な、」
落とされた言葉が身体を巡り体温を急上昇させる。
まさか。
ありえないと心の内で否定しながらも、その手は温人の頬へと伸びていた。
確かに指に触れる熱。感触。
頬を辿りわずかにその顎を持ち上げてやれば、温人は緊張に身を固くしながらも瞳をとじる。
僅かに震える睫毛を見た瞬間、胸の奥で何かが音を立てて崩れた。
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