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第55話 隣人じゃなくて

夕食を食べ終え、後片付けもきちんと終え。いつもならこの102号室をお暇している時間……なのだけれど。 特に言葉を交わさなくても、それが当たり前みたいに緋葉(ひよう)と二人でベランダへ。 「お、今日もやってんな。」 「うん、……そうだね。」 いつもの上の階から聞こえてくるバイオリンを理由にして、ベランダの手すりにもたれて二人で夜空を見上げていた。 うっすらと聞こえるバイオリンの優しい音に、トクトクとテンポの早い自分の心音が重なる。 互いに何も言わないけど、いつもとは違う空気が流れてる。 ……答え、もらえるのかな。 多分タイミングを見計らってるんだろうなってわかって、だからこそ僕は何も言えないまま。 バイオリンの音色が、今日はどこか遠くに感じられた。 いつものように。だけど、いつもみたいに互いの部屋のベランダからじゃなくて、今日は隣で。 ベランダの壁越しじゃなくて、すぐ近くで。 そろりと隣を見上げれば、緋葉の蜂蜜色の髪が三日月の淡い光に照らされて煌めいていた。 綺麗だな。 ぼんやり見上げていたら、視線に気づいた蒼穹の瞳が僕を見つめてにかっ、と目を細める。 「なぁ、この曲あれだろ。翡翠(ひすい)がここに来た最初の日のやつ。愛の……ん?あれ?こ、こんにちは?」 「愛の挨拶、だよ。」 「あーそれだ!えっと…べー、じゃねぇんだよな、…………し、ショパ、」 「エルガーだってば。……ぷっ、ふふ、」 ペロリと舌を出し視線を彷徨わせる緋葉に、思わずふきだしてしまった。 さっきまでの空気が嘘みたい。二人で肩を揺らして笑えば、いつの間にか周りの空気は穏やかなものに変わっていた。 ひょっとして、緋葉も緊張してたのかな。 緋葉はベランダの手すりに身体を預け、はぁ、と長い息を吐く。 「……親父達、上手くいってんのかな。」 「父さんが帰ってこなかったってことは、そういう事でしょ。」 星空から僕へと落とされた蒼穹の瞳が、優しく細められる。 「やっぱ寂しい?」 「違うっていうと嘘になるけど……でも、よかったって思ってる。」 寂しい気持ちももちろんあるけど、それ以上にほっとした、というのが大きい。 大切な人の大切な恋なんだ。父さんが帰ってこなかったことは、寂しい以上に嬉しいことだと思う。 「どこにいても、どんな時でも、何があっても想ってる。……って、父さんよく言ってた。幸せになってほしいって。……僕も父さんにそう思うから。」 ――どこにいても、どんな時でも、何があっても、僕は翡翠の事を想っているよ。 いつも、ことあるごとに父さんが僕を抱きしめて言ってくれた言葉。 入学式、修学旅行、体調を崩して入院した時だって。 いつだって真っ直ぐに僕に向けられる言葉と温もり。これが愛と呼ぶものなんだって、子供の僕でも理解できた。 僕も同じ想いを返したい。家族としてこの人を愛してるって。ずっと思って、そうしてきた。 「家族、だから。離れてたって一番近くにいる存在なんだから。だから、寂しいより嬉しいよ。」 「……そっか。」 ぽつりと落ちた声は、やけに静かだった。 静まり返った空気の中、バイオリンの音だけが、遠くで揺れている。 「……なぁ、翡翠。こないだの返事、してもいいか?」 真っ直ぐに向けられる視線、いつもより硬い声。 僕は無意識のうちに息を飲み、言葉の代わりに頷いた。 緋葉は自らの金糸をわしゃわしゃとかき乱す。 「答えるとは言ったけどさ、その、俺にとって翡翠って、家族で兄弟だけど、他人で、だからダチって言われりゃそうだし……って、とにかくさ、なんか色々当てはまっちまうんだよな。」 僕はまた頷いた。 緋葉の言いたいことはわかる。 でも、僕は答えを知りたいんだ。 だって僕はもう答えを出したんだから。 緋葉に抱いている気持ちは、父さんに抱いているものと形が違う。 僕はこの想いの形に名前をつけてしまった。 だから、同じ答えであって欲しいと願ってその蒼穹を見つめてしまうんだ。 「全部当てはまってるし、全部なんか違う気もしててさ。……だから、考えたんだよ。どう思ってんのか、じゃなくて、翡翠にとっての何になりてぇんだろって。」 「何に、なりたいのか……?」 「そ。一緒の孤児院にいたから家族とか、血が繋がってねぇから友人、とかじゃなくてさ。この先翡翠とどんな関係になりてぇのか。」 バイオリンの音が、また近くに戻ってきた気がした。 「……で、さ。」 緋葉は一度だけ息を吐く。 柔らかく響いていたバイオリンの音が、いつの間にか止んでいた。 「……俺は、家族がいい。俺は翡翠にとっての家族になりたい。」 言葉が耳に届いた瞬間、ギュッと胸を絞られた。 それが、緋葉の答え。緋葉の想いの形。 「ダチじゃダメなんだよ。もっと近くで翡翠のこと守ってやりてぇ。」 それはつまり、兄弟、ひょっとすると父さんみたいに僕のことを想ってくれているってこと。 どうしよう、言葉が出てこない。 大切に思ってくれてるってことだ。ありがとうって言わなきゃいけないところだ。 でも、僕はギュッと口を結んだ。 だって、瞳からこぼれ落ちそうなものをこらえなきゃいけなかったから。 「俺、積雪の家で翡翠と別れたことずっと後悔してた。俺が、翡翠を幸せにしてやりたかったのに。俺が家族になりたかったのに。」 「……うん、」 「もう翡翠に何もしてやれねぇのは嫌なんだ。そりゃ、温人さんは翡翠を愛して、幸せにしてくれてんのわかるけど。俺も、俺もさ、」 言葉を探しながら真っ直ぐ僕に向き合おうとしてくれている緋葉の顔を、僕は直視できずに俯いた。 「もうぜってぇ翡翠に辛い思いをさせたくねぇんだ。子供扱いとか、そういうんじゃなくて、」 「……うん、」 わかったよ。ありがとう。 そう、言わなきゃ。 笑って、ちゃんと。 「俺はもう二度と後悔したくねぇ。だから、俺にとって翡翠は家族がいい。一番近いとこに、ずっとずっといてぇんだよ!」 「……うん?」 言葉の違和感に顔を上げれば、ガッシリと両肩を掴まれた。 「友人や恋人なんて他人同士の関係は嫌なんだ。もう一生離れたくねぇんだよ!」 は? え? いや、……え? 真剣な色をした蒼穹が、ずいっと僕との距離を詰める。 言葉の意味を理解するより先に、僕の全身を巡る血液が一瞬にして沸騰した。 「か、かか、家族ってそっち!?」 三日月の浮かぶ濃紺の星空の下。ご近所中に響き渡りそうな僕の絶叫に、けれど緋葉はそっちってどっちだ?と、本気でわかっていない顔で首をかしげた。

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