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第60話
「ひ、緋丹 さん!?」
叫びに近い声を上げたのは僕ではなかった。
おそらく緋丹さんからなんの話も聞かされていなかったんだろう。
目を白黒させる父さんの横で、けれど緋丹さんは僕に頭を下げたまま動こうとしなかった。
父さんを、譲る?
耳から入ってきた言葉は僕の思考をストップさせる。
容認も、否定もできず、ただぼんやりと目の前で頭を下げる緋丹さんを見つめることしか出来なかった。
何も考えたくないと身体は拒絶したのだけれど、それでも言葉はゆっくりと僕の身体の奥深くに重く沈み込んでいく。
「これから先、温人 の隣に立ち、生涯を共にする権利を私に譲ってはもらえないだろうか。」
緋丹さんの口から出た決定的な言葉に、息を飲んだ。
二人は想いあっているんだから、いつかそんな時がくるだろうとぼんやりとは思っていた。でも、けど、まさかこんなに早くその時が来るなんて。
僕は、なんて言えば。
「ちょ、ちょっと、待ってください!……そんな、急に、何を、」
顔を真っ赤にして動揺する父さんに、緋丹さんはわずかに顔を上げる。
「翡翠 君の許しがなければ、それを理由に断られることはわかりきっていたからな。私は、温人も翡翠君の気持ちも大切にしたいと思っている。」
「あの、でも、……急すぎて、僕も、ちょっと混乱してて、」
とにかく頭を上げてくださいとお願いすれば、緋丹さんはようやく深々下げていた頭を上げてくれた。
けれど、このまま引き下がる気はないらしい。
いくらなんでも急すぎます、いきなりこんなこと言われても、事前に少しくらい話してくれたって、
隣で声を荒らげる父さんをすまないとなだめながらも、緋丹さんの蒼穹の瞳は僕を見つめたまま。
「もちろん、すぐに返事をしなくても構わない。……私達には君達ほど残された時間はないのだと思うと、残りの生を少しでも温人の隣で過ごしたいと急いてしまった。これは私の我儘だ。」
ああ、緋丹さんは父さんと生涯一緒にいたいって思ってくれたのか。
その覚悟を決めてくれたのか。
でもそれは、それは、
僕の目の前から父さんを連れていくってことなのか。
「翡翠君が受け入れてくれるまで、いつまででも待つつもりだ。」
受け入れる。父さんと離れることを?
でも、でも、
父さんも緋丹さんの言葉に閉口して、部屋には沈黙が訪れる。
でも、僕は気づいてしまった。
沈黙、なんだ。
なだめるように父さんの肩に優しく触れる緋丹さんに、父さんは小さく頷く。
父さんの口から、緋丹さんの想いを否定する言葉は出てこなかった。
ギュッと、心臓が絞られて、思わず服の上から胸を掴んだ。
何か、言わなきゃ。
でも、何を。
僕は、
緋丹さんの顔も、父さんの顔もまともに見ることが出来なくて、思わず逃げるように視線をそらせてしまった。
……その先で、僕を見つめる蒼穹にぶつかった。
「ぁ、」
この状況でも呑気にピザトーストを頬張り完食した緋葉 は、僕の視線に気がつくとくしゃりと笑う。
そのまま席を立った緋葉は僕の隣に歩み寄った。
「ほら、翡翠。」
隣で小さく呼ばれた僕の名前。
僕の背中を、大きな手がぽん、と優しく叩いてくれた。
ああ、そうか。
大丈夫だ。何を悩んでいたんだろう。
本当はわかっているはずのこと。素直に言えばいいんだ。
言いたいこと、思いっきり言ってやればいいんだ。
背中に灯った熱に力をもらって、僕は改めて父さん達に向き直る。
「待たなくていいです。すぐにでも連れて行ってあげてください。」
一息にそう告げれば、父さんと緋丹さんは瞳をまん丸に見開き声を詰まらせた。
「ひ、ひすいっ!?」
「翡翠君、」
二人にとっては予想外の答えだったんだろう。
でも、答えはこれ以外ありえないんだ。
誰にも気づかれないように、僕は握る拳に力を込める。
「僕じゃ駄目だから。本当の意味で父さんの隣に立って寄り添えるのは、緋丹さんだと思うから。」
親としての責任や義務、そんなものを背負わせる事なく、父さんが時に弱音を吐いて甘えられる場所。安らげる場所。
それは、僕の隣じゃないから。
父さんは望んだ。緋丹さんと一緒にご飯を食べたいって。いないと寂しいって。
だったら、父さんの望んだその場所に息子として送り出してあげなくちゃ。
「緋丹さん、父のことよろしくお願いしま…」
「駄目だよ!」
深々と頭を下げる前に、父さんに腕を引かれ思いっきり抱きしめられた。
「ちょ、」
腰に回された手はギュッと僕を締め付け、離れようとしない。
「駄目だよ!そんなこと、翡翠は、翡翠が、一人になってっ、……離れるなんて、そんなの、僕は、僕は、」
僕の肩口に顔を埋め、嫌だと首を振る父さん。その声は震えていて、僕はそっとその頭に手を伸ばして優しく髪を撫ぜた。
泣いてる子供をあやすように、何度も撫ぜて抱きしめ返す。
「違うでしょ。どこにいても、どんな時でも、何があっても僕は父さんを想ってるんだから。」
「っ、でも、」
「何かあったらすぐ駆けつける。何もなくても会いに行く。……だって、僕達は親子なんだから。」
離れるわけじゃない。住む場所が違っても、いつだって想って、寄り添ってる。僕が父さんの息子であることは一生変わらないんだ。
ただ、寄り添い方の形が変わるだけ。
父さんに、大切なものが増えるだけ。
「言ったでしょ、僕達は親子だからずっと繋がってる。でも、声に出して、手を伸ばさない限り、他人の緋丹さんは父さんの隣にはいてくれないんだよ。」
「翡翠、」
ゆっくりと顔を上げた父さんの両肩を、僕は軽く叩いた。
それでも不安げに瞳を揺らす父さんに向けて、僕は精一杯の笑顔を向ける。
「大丈夫だよ。だって、その……」
わずかに言い淀んだ瞬間、僕の背中がポン、と優しく叩かれた。
視線を隣に移せば、緋葉の蒼穹の瞳が優しく細められ、大きく頷いてくれた。
うん。大丈夫。
大丈夫なんだ。
「だって、僕にも隣にいてくれる人がいるから。」
嘘も、隠し事もしない。
思い切って言葉にすれば、父さんはえ、と瞳を丸く見開いて、僕と緋葉を代わる代わる見つめた。
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