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十三 初めての銭湯
あまり愉快ではなかった邂逅 のあと、帰路の途中で蝶子が志千 にいった。
「ねえ、しちちゃん。探してる劇場って、ちゃんと営業してるとこじゃないとダメ?」
「そうじゃない場所があるのか?」
蝶子いわく、十二階下の一角に、随分昔から廃屋となっている芝居小屋があるらしい。
「興行をやるなら、許可を取らなきゃ警察に怒られるんだっけ。やっぱり無理かねえ」
「いや……有りだな。駄目だけど、そのほうが理想どおりだ」
失踪した初代残菊の消息をたどるため──
計画の第一段階は志千の声と百夜 の外見を使って『大女優の復活劇』を演じ、彼女に異常な執着をしていた脅迫状の差出人をあぶりだすことである。
おそらく犯人は失踪の理由を知っており、そして現在も初代残菊を捜している。
なんとしても、とっ捕まえて情報を聞きだしたい。
相手に気づかれなくては意味がないため、ある程度は話題を集めなければならない。
だが、体裁の整った劇団でもない志千たちの集客力は限られている。
さらに。
二代目残菊がデビューしたとき、犯人は初代と別人だと判明するとすぐに去っていった。
今度こそ本物だと思わせなければならない。
違法の芝居小屋というのは、どちらをとっても計画にうってつけの箱であった。
「隠されたら、なにか秘密があるんじゃないかと勘ぐっちまうもんだからな。人目を憚 っておこなわれる大女優の復活……。宣伝を兼ねていた二代目のデビューみたいに大々的にやるのと比べて、いかにも隠し事がありそうだろ?」
あくまでも知る人ぞ知る『謎の芝居』となるのが望ましいのだ。
集客が少なくても噂話にのぼりやすく、信憑性も高まる。
どうせ無許可でやるのであれば、開演時間は真っ暗な深夜がいい。
百夜の体格も、黒衣として背後にひそむ予定の志千も目立たないからだ。
客層もおのずと秘密が好きな変わり者に絞られるため、警察に見つかる危険性も減るだろう。
志千たちは家にカンテラを取りにいき、その足で早速偵察に向かった。
***
銘酒屋と民家に挟まれた路地の奥まった場所に、打ち捨てられた小屋が建っていた。
「わあ、ぼろっちい」
入り口に明かりをかざし、蝶子がいった。
老朽化しているものの、一応は切妻 造りのしっかりした屋根がついている。
もとは明治の中頃に起こった自由民権運動の活動家たちが、壮士芝居を打つために建てた小屋であり、それ以降は放置されているのだという。
「つまり、三十年も使っていない芝居小屋か……」
あまり人目につかない場所にあるのは、かえって都合がよかった。
鍵さえかけられていない扉から一歩足を踏みいれると、積年の埃が宙を舞った。
当然電気など通っておらず、椅子もない。収容人数はせいぜい百といったところだ。
終演後に客をいち早く退けるなら立ち見でいい。
「いいんじゃんねえの。屋根があって、舞台があって、客がはいる。十分だぜ」
「掃除と換気さえすればなんとかなりそうだねえ。御前 さんたちが仕事の時間は、ウチが昼間にやっといてあげる」
「助かるよ。力仕事は俺と百夜が夜にやるから」
まずは小屋の掃除と修繕、そして必要な道具を揃える。
当面の目標は定まった。
「あれ、こんなところに風呂あんじゃん。入ってこうぜ」
牡丹荘に帰る道すがら、志千は窓からほの暗い明かりをこぼす銭湯を見つけた。
仕事終わりに一人で風呂屋に寄ることはあったが、すぐ近所にもあるのは知らなかった。
小屋の中を確認して回っているうち、全身が埃っぽくなっていたのだ。
ちょうどいいと思って誘ったのだが、
「いやだ」
すぐさま百夜から拒否の答えが返ってくる。
「なんでだよ。江戸っ子のくせに」
「人がいる」
青年は憮然 とした口調で当たり前のことをいう。
「そりゃ、いるだろ」
江戸っ子が風呂好きというのは単なる冗談だが、よくよく話を聞いてみると、生まれてこのかた一度も銭湯に足を踏み入れた経験がないというので驚いた。
「一度も!? 今までどうしてたんだ」
「風呂なら家にもある。人の多い場所はいやだ」
牡丹荘にも湯殿はあるが、いまだ鉄砲風呂である。
大の男がはいるには狭苦しいし、焚くのも手間がかかる。
またしても、二代目だとばれたら商売上困るという理由だろうか。
スクリーンに映った百夜はどうしたって女優にしか見えない。志千でさえ、いまだ実感が湧いていないくらいなのだ。
素顔で男湯にいたところで、そうそう同一人物とは結びつかないはず。
「大丈夫だって。この時間じゃ互いの顔もよくわかんねえよ。埃かぶったろ。その長ったらしい髪を洗ってやるから」
どうにか説得しながら、背中を押して『ゆ』の文字が染め抜かれた暖簾 をくぐる。
湯銭を払い、番台で奮発して石鹸を買った。
蝶子が女湯にはいるのを見送ってから脱衣場にあがると、百夜は案外おとなしく待っていた。
さびれた銭湯に電球はなく、明かりは男女を隔てている板壁の上から吊り下がった石油洋燈のみ。
知人でもなければ判別できない程度に暗い。
とはいえ、初の銭湯はやはり落ち着かないようだ。
隅っこで固まっていたため、着物を脱がせながら話しかけてみる。
「ほら、脱がねえと入れないだろ。他人の目がそんなに嫌か」
そうからかうと、無言で睨みつけられた。
「そんな面 してるくせにもったいねえ。俺がおまえだったら、着飾って街を練り歩くのになぁ」
「貴様のようなジゴロと一緒にするな」
「ジゴロじゃねーし」
怯えているのに口調や表情は不遜で、威嚇はするが引っ掻いてはこない。本当に野良猫みたいだ。
悪いとは思いつつ、いろんな出来事があった今日は無性に可愛く見えてしまう。
洗い場に連れていき、椅子に座らせた。まずは洗髪からだ。
この長さではもっと骨が折れるかと思ったが、明るい色の髪は細く、絹みたいに滑らかだった。
硬い髪質の自分と比べてはるかに泡の馴染みがよく、洗いやすい。
「せっかく伸ばしてるのに、よく考えたらどの作品も鬘 だよな」
「放っておいたら伸びただけだ。こんな異人みたいな頭をしたヒロインはいないだろう」
「ふーん。俺は好きだけどな」
「……そうか」
百夜がぽつりと返事をする。
『月下の妖女』では長い黒髪の鬘をつけていたが、昨晩見た月明かりに透ける亜麻色の髪のほうがより一層蠱惑 的で、月から降りてきた天女のようだった。
髪を流し、今度は泡立てた手拭いで背を洗った。
「うぁ……。まて、やめろ!」
脇腹のほうへ少し滑らせただけで、百夜は体をのせぞらせて反応した。
「敏感すぎねえ?」
「演技なら我慢するが、接触に慣れていない。貴様は気安く触りすぎなんだ!」
そんなことをいわれても、触れなければ洗うことができない。
「男同士なんだしこんなもんじゃねえの? ああ、でも、歳のはなれた弟がいるせいかもな。よく抱きついてきたり、背中に乗ってきたりするから。嫌だったか?」
「……嫌とはいっていない。びっくりするから事前に許可をとれ」
「はは、なんだそりゃ」
それにしても──
話しながら、つい凝視してしまう。
洋燈の下に浮かぶ百夜の肌は、おそろしく白い。
もともと色白でもあるのだろうが、まったく日に当たっていないのではないかと疑わしくなる不健康さだ。
湯をかけると長い髪が背を伝って、肌の表面をつややかにと流れていく。
志千に覆い被さってきたとき、この髪が胸にさらりと落ちてきた感触を急に思いだし、慌てて頭から消した。
あのときはまだ、二代目残菊を女だと思っていた。今は違うのだ。
「二代目は、本当に男なんだな……。じつはいまだに信じがたかったんだが」
しみじみと、本音が漏れた。
「悪かったな、贋物 で」
「そんな意味でいってねえから」
あえて口にはしなかったが、男と知った今でも、自分とはまったく違う生き物みたいに綺麗だと感じたのだ。
百夜の腕を持ちあげ、肩のあたりまで擦ってから声をかける。
「前も洗うぞ」
「──ッ!!」
首筋、耳の裏、顎にかけての輪郭と、手拭いを移動させると、声にならない声があがった。
「あ、悪い。くすぐったかった?」
「な、なん」
「ん?」
「なんなんだ、その妙な力加減は!」
「だって、触られるのが苦手なんだろ。なるべくそうっとしたのに」
事前に申告もしたし、気を遣ったつもりが、責められている理由がますますわからなかった。
「その触り方はかえって悪い。あと、なぜ他人の体を洗うのに手慣れているんだ」
「だから、下にきょうだいがいるからだよ。浅草にくる前は、いつも風呂にいれてやってたなー」
「きょうだい……」
「そー、おまえも弟みたいな感じ」
「……もういい。自分でやれる」
なにがそんなに気に入らないのか。
百夜は乱暴に体を洗って流し、憤慨して湯船に入っていった。
自分も湯に浸かって、不機嫌な横顔を眺めながら──弟というのは、かなり近いかもしれないと思った。
志千は二代目残菊に、ほとんど恋といって差し支えない憧れを抱いていた。
男だと知ってどう思うかと蝶子に聞かれたが、あのときと答えは変わっていない。
女優残菊は銀幕でしか会うことのできない存在であり、甘い夢そのものとして完結しているのだ。
では、百夜自身に感じている気持ちはいったいなんなのか。
母親捜しで頼ってくれたこと、志千の声を必要としてくれたのが嬉しかった。
そして、他人への拒絶感や、行動の危なっかしさを見ていると放っておけなくなる。
友情とも違う。もっとこの手で守ってやりたくなるような……。
しいていうなら、庇護 欲だろうか。
「そうか。イヤイヤばっかりだった頃の弟妹を思いだして、構いたくなるのかも」
「は? 喧嘩したいのか?」
少し違うような気もしたが、結局答えはでてこなかった。
風呂をあがって外に置かれた椅子で待っていると、しばらくして蝶子がでてきた。
乾いた手拭いで百夜の髪を拭いている志千の姿を眺め、ぽつりといった。
「甘やかしてるねえ……」
「だってこいつ、拭くの下手なんだよ。風邪引くだろ」
長い髪の手入れは大変そうで、毛先から水滴をぽたぽた落としているので、見かねて手伝ってやっていただけである。
「女湯にも丸聞こえだったよ。御前さんたちがじゃれているのは。ももちゃんが撮影のとき以外で、あんなに大きな声をだすなんてね」
「じゃれていたわけじゃない」
「ふふふ。大きいお風呂、気持ちよかったかい?」
「……まあ」
よかった、といって少女は満足そうに、青年たちの数歩前を駆けていった。
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