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【番外編】九弥と黒柳㈡

 花村(はなむら)百夜(ももや)の首筋に手を伸ばしかけ──  赤く染まった情事の痕跡を発見したちょうどそのとき、背の高い黒髪の青年が楽屋に入ってきた。  そして黒柳(くろやなぎ)を見咎め、いきなり喧嘩腰で言った。 「おい、勝手に触んな。俺のだから」 「……誰だよ、てめぇは。部外者だろうが」  撮影所をちょろちょろしている姿を、今までにも何度か見かけたような気がする。  裏方かエキストラだろうと思って気に留めていなかった。 「あんたみたいな悪い虫が百夜にたかってこないように、送り迎えしてるだけだよ」 「おお、心が狭いこと。ちょっと味見されたくらいで。そんなんじゃ撮影もできねえや。あと、この俺が誰だって訊いてんだから名乗りやがれ」  花村百夜にさほど執着があるわけでもなかった。  あえて挑発したのは、クソガキどもの礼儀がなっていないからだ。  普段から若手を見るときの癖で、黒柳は一瞬のうちに相手を値踏みした。  今にも掴みかかってきそうに敵意を向けてくる青年は、よく見ればなかなか華がある。  黒柳の好みではないため、これまで視界に入らなかっただけだ。  なにかしら芝居の関係者ではあるのだろう。  遊び慣れていそうな顔や、均整のとれた体躯はかなり女受けが良さそうだが、俳優に混ざればそう目立つほどでもない。  しかし、声には傑出した存在感があった。  無声の活動写真じゃ宝の持ち腐れだ。舞台畑の人間だろうか。  青年は年上の黒柳に怯みもせず、堂々と名乗ってきた。 「俺は活動写真弁士の寿(ことぶき)志千(しち)。六区にある鳳館(おおとりかん)の主任弁士だ。まるっきりの部外者ってわけでもねーよ。この作品の封切(ふうきり)は俺が担当するからな」  耳にはいってきた情報は、名前までだ。  その他はどうでもいい。  嫌な予感に、思わず声が上擦った。 「──寿? もしかして、あの寿八の息子か?」  「そうだけど?」  父親が有名弁士の寿八であること。そして弟もその道を志しており、自分は祖父の呉服店を継ぐのだと、ともに過ごした短いあいだにそう話してくれた。  まだ学ランを着ていた弟の姿をちらっと目にしたこともある。成長して声も低くなっているから気づかなかった。  いつどこで消息が耳に入るかわからない。なるべく弁士連中には近づかないようにしていた。  仕事でどうしようもないときを除いて、活弁を聞きに行くことさえ稀(まれ)だったのだ。  あの人の面影を見出していたのは、花村百夜のほうだったのに。  まさか、似ても似つかないこちらの青年が肉親とは。 「……はん、仕事場でガキの恋愛ごっこをやってんじゃねぇぞ」  まるで負け犬みたいな捨て台詞を残して、黒柳は楽屋をでた。配役どおりの当て馬っぷりだ。 「よし、よくわかんねーけど勝った!!」 「寿さん……それよりも……」 「あ……」 「百夜さんが大好きなのはわかりましたから、体に痕に残さないでって言ってるじゃないですかぁ!」  閉めた戸の向こうでは会話が続いている。  茶番に付き合う流れになったのは癪(しゃく)だが、しかたない。  実の弟はあまりに近すぎる。  思い出のなかで止まってしまった彼のことは、なにも知りたくないのである。  いつまでも面影を追いながら、本物の影に触れるといまだ胸はちくちくと痛む。  黒柳は撮影以外で二度と花村百夜に近づかないように決心し、その場から去った。  ***  古い蔵を思わせる、どこかひんやりとしていて、乾いた空気。時間が停止したような静けさ。  老舗の店特有の閑静な空間にいるのが、彼にはとても似合っていた。  あれは十年前。元号が大正に変わった夏の日。  外はうんざりするような暑気が降り注ぎ、路地を焼いていた。  当時まだ十八だった黒柳は、小さな劇団に所属する無名の新人役者であった。  公演の地方巡業で横濱にやってきていたのだ。  役者になった理由は、たまたまだ。  尋常小学校を卒業してから、食い扶持(ぶち)減らしのためすぐ奉公にだされた。  とある家の下男をしているとき、客として訪れた劇団の座長に声をかけられたのである。  演劇に関心があるわけではなかったが、女たちに褒めそやされる見目のおかげで、これまで少なからず得をしていたのも事実だ。  下男よりは成り上がれるかもしれないと、軽い気持ちで舞台にあがった。 「その浅黒い肌も、見事な体格も、悪くねえ男っぷりなんだがな。色気っつうか、小便臭さが抜けねぇのはなんでかねぇ。お前、女を抱いたことあるか?」   親代わりになってくれた座長はいつもそんなことを言って、黒柳になかなか主役の座をくれなかった。  筆下ろしをさせてやると何度も遊郭に連れて行かれそうになったが、理由をつけて断わる日々が続いた。  なぜ女に興味が湧かないのか、自分でもまだ理解していなかった。  その日、黒柳は座長に同行して、横濱屈指の繁華街である伊勢佐木(いせざき)町を訪れた。仕入れの荷物持ちである。  『寿呉服』の看板を掲げた大店(おおだな)は、昔から歌舞伎を中心に、芝居関係の御用達で有名なのだという。  座長と店の主人が商談しているあいだ、黒柳は土間の隅に控えてひたすら待っていた。  主人はそろそろ隠居前といった老人だった。  あと数年も経って孫が大学を卒業すれば、店を譲るのだと話していたのを覚えている。  室内に移っても噴き続ける汗に耐えながら──黒柳の視線は、ある一点に惹きつけられていた。  主人に指示され、箪笥(たんす)から反物や小物を迷いもなく取りだしている人物。  肩や腰が華奢で幼く見えたため、見習い中の丁稚でっちかと思っていたら、彼こそが話にでてきた跡取り息子らしい。  生まれた時点で貰い受ける資産があるのだ。幸運なお坊っちゃんだとやっかみながらも、強烈に目を奪われた。  最初は後ろ姿だけで、なかなかこちらを向かなかった。  だが、これほどまでに美しく和装を着こなした男を見たのは初めてだった。  涼やかな夏虫色の縦縞地に、汗ひとつかかず桑の実色の長羽織を合わせている。  帯の角度、裾の皺まで計算し尽くされていて、気品がありながらも粋だ。  丸みのある頭に、すっきりと切り落とされた艶のある黒髪。そして、襟足から覗く首筋の白さといったら。  ときどき盗み見ていた横顔の流し目はじつに優美で、源氏物語にでもでてきそうだった。  目鼻立ちのはっきりした彫りの深い黒柳とは真逆である。  商談が終わると、座長たちは世間話に花を咲かせはじめた。  商品の手配や包装を済ませた息子も奥に引っ込んでしまい、少なからずがっかりしていたのだが──  数分後、冷たい茶を持ってふたたび現れた。  ただの付き添いである黒柳にも色硝子(いろがらす)の椀を手渡し、 「外は、お暑かったでしょう」  椅子の傍らに跪(ひざまず)いて、こちらを見あげながら微笑んだ。  下男あがりの黒柳にとって、膝をつかれるなど初めての経験だ。  しかも相手は大きな商家の跡取り息子。本来であれば黒柳のような者を雇う側なのだ。  まるで、慎ましく咲いた清楚な花。  この手でもぎ取り、花弁を散らしたらどうなるだろう。  黒柳は自分が男しか愛せない質(たち)なのだと、このときに悟った。  生まれて初めて、誰かに劣情を抱いた瞬間だった。    ***  横濱の滞在期間はおよそ一月(ひとつき)。  あれから黒柳は、毎日のように伊勢佐木いせざき町にある寿呉服店に通った。  だが、座長の付き添いならともかく、高価な着物を買えもしない若造が気軽に立ち入れるわけがない。  呉服店の跡取り息子─ 九弥(かずや)はいつも正午になると表にでて、日除け暖簾(のれん)をだす。  その時間を狙い、呉服屋の裏路地にある蕎麦屋にわざとらしく通いつめた。 「栄玖(よしひさ)君、お昼ですか? よほどお蕎麦が好きなんですね」 「まー、暑いし……」 「ふふ、僕も今日はざる蕎麦にしましょうかね」  他愛ない会話を二言、三言交わすだけの日々。  家族のことや、大学で経営を学んでいること、毎日少しずつ彼に関する情報が増えていく。  不届きな欲望を抱えているくせに、それ以上は踏み込めない。 「あのー、九弥さん」 「はい?」   名を呼ばれて小首をかしげる仕草は、なにも知らないおぼこ娘のように純真無垢だ。  大学生と聞いていたから年上なのはわかっていたが、まさか三つも上だったのは驚いた。 「せっかくだし、蕎麦屋なら一緒に──」 「兄貴!!」  勇気を振り絞って誘いをかけたというのに、黒柳の後ろから急に現れた少年に邪魔をされてしまった。 「ああ、おかえり。今日は半ドンでしたかね」 「そー、午後から野球の試合! なぁ、兄貴も観に来てくれよー」  顔は見えないが中学校の制服を着ており、すでに背丈は九弥と並んでいる。父の跡を継いで活動弁士を志しているという弟だろう。 「いいですよ。冷たいお茶を用意して行きましょう」 「やった! あ、兄貴、昼飯も! 腹減ったー」 「はいはい。一旦家に帰って、蕎麦でも茹でてもらいますか」 「えー、蕎麦じゃ足りねえ」 「試合前に食べ過ぎはよくないですから」  言い聞かせるように、制帽の上からポンポンと頭を叩く。  弟というだけでこれほど簡単に甘えられるのかと、うらやましくてしかたがなかった。  突っ立って所在をなくした自分に気づき、慌てて九弥に会釈だけして、黒柳は蕎麦屋のほうへ走った。

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