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天使の塔

むかしむかしはるか北のシュワルダという国に、不思議な塔があった。 森の奥深く、せせらぎが流れてゆくのを追いかけると、ひらけた野原に塔が現れる。 木漏れ日に照らされしんと佇むその塔には扉がない。誰も出入りが出来ない仕様になっている。 薄茶のレンガが積み上げられた先に、小さな窓が取り付けてあるだけ。 中を覗こうにも青いカーテンが邪魔をする。 ……訪れる者のいないこの塔。 どういうわけか常に周辺の草花が綺麗に整えられていた。 苔むした建物の老朽も、どこか趣があり美しい。 人も獣も、だれもこの地を荒らさなかった。 この塔は、シュワルダ王国のすべてだった。 ──塔の名前は、『天使の塔』といった。 「いよいよこの日がやってきたのね…」 王国は、朝から嬉々とした空気に満ちていた。道行く人々のおしゃべりする声も、普段より明るくはずんでいた。 「今夜、いよいよ天使様が降臨なさるんだわ!」 「私の馬鹿、馬鹿!塔への行き方を忘れちゃうなんて!今すぐ神殿に地図を貰いに……」 「やだ。皆についていけばいいじゃない。今夜は国民みんな、あの天使の塔へ集まるんだから」 ──『天使の塔』。 それは、国民の希望の塔だった。 この塔には444年に一度、 天使が降臨するから。 この日 王子が天使と"婚姻"を結ぶと、王国は天界の加護により守られるのだ。 「444年に一度の祭事に立ち会えるなんて夢みたい。王子と天使の誓いのキスは画家に写生されて、後日タペストリーになるのよ」 「うちの母は寝たきりで塔に行けないから、絶対にタペストリーをお土産に見せてあげなくちゃ」 ただ、王子が天使に婚姻を断られてしまったら最後。 その後次の天使が来るまでの444年間、国は災害と戦争に見舞われ続けるという。 「もし、……天使さまが結婚を拒否なさったら、どうしましょう……」 実際、過去に一度だけ婚姻拒否されたことがあった。 人口の1/4が減少し、国は崩壊寸前まで追いやられた。 「……考えすぎだって。シュワルダ八千年の歴史の中で婚姻が拒否されたのはたったの一度きりなんだから。今回もうまくいくよ」 王子が亡くなると、天使は天界に帰ってゆく。 そしてまた444年後に次の天使が降臨するまでは、王妃は人間の女性が務める。 現在。 聖なる天使降臨がいよいよ迫っていた。 国の生死をかけたこの一大イベントを前に、人々は皆心つかずだった。 「ねえねえ。今度の天使さまってどんな御方かな。やっぱり、ゲルダ様みたいに綺麗なんだろなあ」 「肖像画でしかゲルダ様を見たことがないけれど、あまりの美しさに涙が溢れそうになるよ。美麗な天使を描く宗教画の歴史がシュワルダから始まったというのもうなずける」 花はきらめき、鳥は歌い、人々は希望に満ちた表情で語り合う。王国は、今夜の天使の降臨を心から待ちわびていた。 ──満月がてっぺんに達したころ。 コツコツと森へ大勢の足音が向かい、ランタンの灯りが人々の影を濃く映し出した。 「オリバー王子のお通りだ!道を開けてくれ!」 張り上げられた声のあと、白馬に乗った青年が颯爽と塔へ向かって走ってきた。 瞬時に道が出来上がり、若い乙女たちの歓声が上がる。 「こんなに間近でオリバー王子を見られるなんて…」 頬を赤らめ恍惚する少女に連鎖するように皆んながため息をついた。 「天使の血が混じっているんだもの。そりゃ美しいわよね」 暗闇に光がまばゆく差し現れた清廉な青年。 オリバー王子。 彼こそが今夜の主役であり国の命運を握るトリガーだ。 微量に天使の血が混じる彼は、誰もが息を呑呑むような美青年だった。 100代目国王と、人間であるエリザ王妃の間に生まれた第一王子。 まばゆい金髪にウルトラマリンの瞳、常に微笑を携える穏やかな表情。オリバー王子にはとても20そこらの青年のものとは思えない神々しさがあった。 「皆さん!本日はお集まりいただきありがとうございます。どうかご心配なく、新たなる王妃殿を歓迎してくださいますよう」 満月に浮かび上がった王子は微笑み、白馬から舞い降りた。 乙女達が大勢の国民をおしのけ、どうにか最前列で王子を拝もうともがいている。 しかしその奮闘は護衛の騎士達によって淡く食い止められてしまった。 「お嬢様方。危険ですので」 強面の老騎士に睨まれ、乙女達は舌打ちをしすごむ。 ざわめきが止み、いよいよ空気が張りつめてきた。 しんと群衆が見守る中、王子の足音だけが響く。 遠くでふくろうが鳴く。 「天使さま」 王子は小窓を見上げ、声を張った。 「お迎えに上がりました。第一王子のオリバー・シュワルダと申します。どうかはしごを降ろしてください」 ランタンの灯りが人々の緊張した顔を照らし出し、暗い森に王子の声だけが木霊した。 どれくらい経っただろうか。 ふと閉ざされた窓がキィ…と軋み、青いカーテンが風に吹きさられた。 「あっ……!」 群衆から驚きの声が漏れる。 444年間閉ざされた窓から、するする…とはしごが降りてくるのだ。 「……」 オリバー王子は唾を飲みその様子を見守った。はしごが柔らかい草むらに到達した。 「……」 こくん、と護衛に頷き、はしごに足をかける。 コツ、コツ、コツ……。 革のブーツが音を鳴らし、一段一段窓に近づいてゆく。 はしごの最上段に達した王子は、身をかがめて窓の向こうに入っていった。 カーテンが揺れ、やがて王子の影は見えなくなった。

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