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第26話 匠
朝から、ろくな日じゃない。会いたくなかった、古傷をえぐられるようだ。もう気持ちは残っていないはずなのに会うと不思議な感覚に囚われてしまう。
もう二度とごめんだ。だが、十年と言う時は体に全てが染み着くくらい長い。手を掴まれた瞬間に体があの手の温もりを覚えている事に驚いた。
上原が来なかったらと、思う。戻ってはいけない道を戻りそうな自分にブレーキをかける。
紺野は猫みたいなやつだった。
そう、懐かない猫。
気まぐれで数日帰ってこない事もあった。知らないところで知らない男の香をまとって平気で帰ってくる、綺麗な顔をして淫らだ。
自分が抱かれたい時だけすり寄って来る。気分が乗らないと言ってふらっと出て行く。身勝手を望む紺野とはよく喧嘩になった。それでも愛していた、愛していたはずだ。
何度不貞を重ねられても、戻ってきて泣かれると許してしまう。やがて責める事を止めて、諦めた。そのうちに帰ってこなくなった。
ニューヨークへの転勤話があいつに出たのはそんな矢先だった。
多分俺の知らないあいつの恋人の推薦だろう。紺野を連れて行きたかったのだ。そして、一年と言うこんなに早くの帰国は破局したという事なのか。またあいつは俺のところへ戻ろうとしているのだろうか。
もう離れてしまった心をかき集めてもバラバラのままだ。
会社に着くと紺野からメールが来ていた。内容はビジネスメール。誰がどう見ても単なる営業メールにしか見えない。俺に早く帰ってきて欲しい時、携帯が見られない状況にある時に合図として送って来ていたメール。
受信トレイを見ながらため息が出る。クリックしてメールを開くその瞬間に上原から声をかけられた。
慌ててメールを閉じた、閉じたはずだった。
課長から言われたと嬉しそうにやってくる上原を見ながら、やっぱり俺はこいつに惹かれていると思った。午後からの外出の指示をしてパソコンに向き直ると、閉じたはずのメールが開いていた。
しまったと思った時はもう遅かった。紺野からのメールには必ず開封確認がついている。それを了承する事が、紺野の誘いを了解したと言う約束に二人の間でなっていた。
開封確認を送りましたと画面に出ている。慌てて送ってしまってのだ。あいつは今日の夜確実にうちに来る。そして行き場のない紺野を追いかえせないのも解っていた。
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