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第60話 匠

 タクシーに乗った時にチクリと胸に何かが刺さったような気がした。  本当に良いのかと、頭の中で誰かに囁かれた。  上原に自分の気持ちを押し付けても仕方ない。紺野は放っておくと自暴自棄になる、これが最善なのだと自分に言い聞かせる。タクシーから降りた時に上原の声がした気がした。俺も馬鹿だ。 「先にシャワー使って来るから」  自宅に戻って来たかのように気楽に振る舞う紺野を見ながら、この一年間を今こいつは帳消しにしようとしてると感じた。  流された俺も俺だなとは思うが。  ソファに腰掛けてテレビのスイッチを入れる。チャンネルをザッピングして、暫くニュースを流すようにチェックする。    足音さえ立てずに、バスローブ一枚だけ羽織った紺野が近づいて来た。後ろから両手をまわすと俺の胸に這わせてくる。耳元に口付けるとベッドで待ってるねと離れていった。  ため息をひとつつくと立ち上がった。「俺からは絶対に別れない」確かにそう言った、若過ぎたんだあの時は。  もう沈みそうな泥舟に、沈むと分かって乗るのは危険だと分かる大人になってしまった。ただ今の自分の心の隙間と、身体を埋めるためにあいつを利用しようとしている。同じ穴の狢だ。  シャワーを浴びて寝室のドアを開ける、部屋の空気自体が紺野と同じ色をはらんで甘く香る。  またこいつに絡め取られてしまうのも悪くないかと一歩踏み出した。  「主任!」と元気な声がどこかで聞こえた気がした。あいつの真っ直ぐな綺麗さに俺は似つかわしくないんだろう。  頭からその声を振り払い落とすと、紺野に誘われるがまま指を絡めて身体を重ねた。

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