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第76話 匠
ここが自宅じゃなくてよかった。
いや、自宅じゃなくて残念だったのかもしれない。確実にさっきの返事で押し倒していた。
「主任、これは何て名前の野菜ですか?チコリ?可愛い名前ですね」
上原は止めなく話し続ける。こいつ緊張してる。
今日、こいつを帰すのはなしだろう。腕の時計をちらりと確認する。
自宅に連れて帰るのも有りだけど、このままこの建物に残るのが正解。帰って冷静になってやっぱり無理ですと言われないように畳み掛けておくことが肝心。
デザートに上原のお守りをさせて、一旦ホテルのフロントへと向かう。そのままチェッインして鍵を受け取りレストランへと戻った。
レストランでの支払いを済ませると。勢いよく頭を下げて「主任、ご馳走様でした」と上原が言った。デートだと言ったのにと可笑しくなる。あくまで上司と部下らしい。
周囲の人から見たら上司に食事を奢ってもらった単なる後輩に見えることだろう。一緒のエレベーターに乗り、二十階のフロアボタンを押すと上原が「えつ?」と小声で言うのが聞こえた。
「俺のデザートはこれからだからね」
そう言うと上原の腰に手を回してそばに引き寄せた。
「今日はアルコールは一滴も飲んでないから、大丈夫だろう?」
そう小さい声で耳元に囁くと、上原の全身に力が入り突っ立った丸太のように全身が緊張でまっすぐになった。
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